観覧車と黄昏の怪人

Tempp @ぷかぷか

第1話

 この神津こうづスカイワールドの観覧車は2つの意味で有名だ。

 1つ目はこの地方で最も高い観覧車で、なだらかな神津平野全てを見渡せるその眺望。

 2つ目はこの観覧車のてっぺんで呪文を唱えると怪人が現れ、願いを叶えるという荒唐無稽な噂。

 けれども僕の目的はその2番目だった。

 僕の妻、真衣まいは交通事故に遭い、今生死の境をさまよっている。余命は3日ほどだと言われた。最早何もできることはない。何も。加害者? 運命? どこに怒りを向けても、最早真衣は助からない。頭の中は真衣を失う恐怖と、それから世界を失うような喪失感。それから行き場のない怒りがぐるぐると渦巻いている

 だから僕はその噂を聞いて、今ここに立っている。パンドラの箱に残った僅かな希望すら手元にはないのに、それでもその箱のすみを探すような気分で。


 時刻は丁度夕方だ。

 世界に不確かが満ちる黄昏時。その大きな輪のついた巨大な黒い鉄塔のライトは未だ灯らず、真下からは複雑な形状の黒い鉄が橙に染まった空を刺々しく切り裂いている。まるで叫ぶようなそのオレンジは、この世の終わりを想起させた。

 影に黒く沈んだ籠が葬列のようにぞろぞろとゆっくり降りてきて、促されて座ればギシリと揺れてわずかに斜めに傾いだ。本来は二人で座るのだろうけれど、向かいはぽっかりと赤い空を映している。まるで監獄のようで、小さなため息をつく。それでもその籠は重力を無視してふわりと上昇していく。

 次第に世界が遠くなり、平地の端から少し遠くの街並みが見え始めた。そのきらめく窓の一つに僕の妻は横たわっている。それからしばらくして更に向こうに現れた神津湾に目を移せば、夜に抵抗するように橙の空を映した波間が羅紗のようにきらめかせていた。

 もうすぐてっぺんに到達する。ポケットからメモを取り出す。呪文を唱えても意味はない。こんな子供じみた行為にまで及んでいる自分と、それでもそんな小さな欠片にすらしがみつかないとうまく立ってもいられないようなグラグラと揺れる頭の端っこで、それでもぽつりと記載されたその脈絡のなさそうな単語を無感動に呟いた。

「クラディス、力を」

 急にギシリと籠が反対側に揺れ、黒い影が伸びて僕の手元のメモを黒く染めた。

 慌てて顔を上げると、誰もいなかったはずの目の前に滲み出るような影があった。目をこする間にもそれはじわじわと形を持ち、気がつけば人が座っていた。もともとそこに、誰かが座っていたかのように。

 けれども僕はその予想外に思わずのけぞり、ガタリとさらに籠を揺らす。

「ハハ、大抵の人間はそんな反応をするんだよ」

 その男とも女とも、若いとも年寄りともつかない声は、目の前の背後からの光に照らされて、その顔の造形をすっかり闇の中に紛れさせた何者かが発している。僕はその奇妙な現象に呆然とした。最後の望みとすがっていたけれど、信じてなんか射なかったんだ。僕の中の九分九厘は。残りの一厘に引きずられてここにいるだけで。

「さぁ、望みを言ってくれ。私は何をすればいい」

 何を。

 その内容は既に用意をしていた。けれども僕の大部分はこの噂を信じていなかった。だからその瞬間、口ごもった。何を言うべきかわからず、いや、正確に言えばそう発言していいのか悩み、言葉に詰まった。けれども経緯を話さなければ。

「先週、僕の妻が交通事故に会った。死にかけてるんだ」

「ちょっと待て。私はクラディスだぞ。その願いはお門違いだ」

「お門、違い?」

「そうだ。お前はそれをスペイスに願うべきだった。あいつは希望だ。希望を求める者はスペイスを呼ぶべきだ。私は厄災を招くクラディスだからな」

 希望と厄災。2つの名前がメモには記載されている。

 けれども箱の中の希望は去った。だから僕が頼れるのは災厄しかない。

「スペイス……スペイスは不可能は叶えられないと聞いた」

「それはそうだ。希望は実現可能であるからこそ希望なんだ。実現不可能なことはただの妄想だ」

「そうなんだ。妻はもう助からない」

「そうか。ご愁傷さまだな。では何が望みだ。私がいられるのは、この昼と夜のほんのわずかな境目で、且つこの籠が最も高くにいる間だ。早く言え」

 正直、躊躇した。この土壇場でも、願っていいのかどうか、判断がつかなかった。

 けれども見れば世界はすでに闇に落ちかけていた。

 西にある籠屋山の端に僅かに引っかかったオレンジ色の丸い光は鮮烈な赤を断末魔のように散らばらせながらも既にその光を神津湾に届ける力を失い、随分先の太平洋をわずかにきらめかせるだけで、この辺り一帯は平たい黒に埋め尽くされかけている。人が点した僅かな光、つまり妻の病院のある市街の光がぽつぽつと瞬いているだけだ。それらはまるで宵闇に浮かぶホタルのようだったけれども、それにしたってふぅと吹き消せば、世界が終わってしまう。それに隣の籠がほぼ同じ高さに上りかけている。

 だから今、しかない。それを今決めないといけない。今しか望みは叶わない。

 僕の一番大切なものは真衣だ。それは頭の中では確定していた事項。

伊上亨いのうえとおるを殺してほしい」

「承った。君の望みを叶えよう。それが奥さんを轢いた奴?」

「違う。井上は」

 そこまで言って、世界は闇に埋まった。

 すっかり日が落ちてこの狭い籠の中にも周囲の闇が忍び寄り、目の前のクラディスと闇の区別をつかなくさせたのだ。瞬いた次の瞬間、観覧車全体がきらめき、世界に再び明かりが灯った時には既に目の前には誰もいなかった。


 思わずため息をついた。

 本当にその選択でよかったのか。

 いや、それ以前に今の出来事自体が僕の妄想かもしれない。僕の妄想が形作ったただの幻想。だってよく考えれば世界が真っ暗になるはずがない。この遊園地のこの観覧車だって、この籠の内側だって、照明はずっと点灯していたはずだ。それは確かに乗る前にもそうだった。

 だから、いや。自分は本当に井上の死を願ったのだろうか。

 会ったこともない伊上の死を。馬鹿な。そうであっても今ので死ぬはずがない。そうだ、妄想だ。僕は真衣を失う悲しみとやりばのない怒りに、たまたま手に入れたそのメモを持ってこんな馬鹿なことをしただけだ。

 妻が助かるためには喫緊に心臓移植が必要だ。妻の心臓は壊れていて、人工心肺でなんとか生を保っている。スペイスは人に幸福をもたらす存在であって不幸をもたらす存在じゃない。だからスペイスは僕の望みを了承しないだろう。つまり妻を助けることはできない。妻には代わりの心臓が必要なんだ。努力ではどうにもならない。

 先日の医師との話を思い出す。

「真衣さんの心臓に適合するドナーが見つかれば移植はできるかもしれないが……」

「先生、ドナーは見つからないんですか!?」

「真衣さんは珍しい血液型だ。そもそも適合する人間は乏しい。難しいだろう」

 だから僕は骨髄バンクのサーバーをハッキングした。ドナー登録者の中から妻に適合する臓器を持ち、そして比較的近くに住んでいる見ず知らずの男性。それが伊上亨。どんな人間か調べた。その時僕は妻が助かるのなら伊上亨を殺そうと思っていたのかもしれない。SNSですぐに見つけた。神津区でサラリーマンをしている30代の男性。生きてる人だった。小さな子どもがいる。見るんじゃなかった。後悔した。だから躊躇った。

 だからこんな不確かであやふやの噂を頼って、一人で観覧車に乗った。

 この観覧車は一周が18分だ。最初の9分は自分は何をやっているんだろうという気分に登り、残りの9分間ほどは自分は何をやってしまったんだという気分で下った。

 やがて籠は地上に降りて、少しのギィというきしみとともに僕を閉じ込めていた入り口の扉がきしむ。

 もう一周乗って取り消そうか、そう思ったけれど、すでに黄昏時はすぎて空には星が瞬いていた。

 仕方なく地上に足をつけると同時にスマホが鳴る。開くと神津病院からで、慌ててでる。

「先生! 真衣に何か!?」

「真衣さんの心臓に適合するドナーが現れたんだ! 同意が欲しい!」

 震える声で尋ねた。

「先生、その人の名前は」


Fin

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