思い出は遠く、風に身をゆだね
甘利俊介
第1話
「小説とは、不条理でなければならない」
日が傾き、赤い翳りをさした文芸部の部室。
古いコンポから流れる『ジムノペディ』のゆったりとした音色が満ちる室内で、僕たちは長机を挟んで向かい合うようにして座っていた。
「現実は残酷で、不確かで、非情な世界。そんな不条理な世界のなかに裸のまま迷い込んでしまったのが私たちという人間。人はそのままでいると、現実の刃に切り刻まれて生きていくことが出来ないの。だからみんな何かに酔うのよ。思想、宗教、お酒、ドラッグ、私たちは何かに酔い、現実の痛みを麻痺させなければ生きてはいけないの。でなければ、すべての人間に訪れる不条理から、目を逸らすことはできないもの」
言葉を紡ぐ彼女の長い黒髪が、開け放たれた窓から入り込む夕暮れ時の涼やかな風に揺れていた。
「私の場合は、それが小説だった。私と現実との境に一枚の壁を隔て、小説という虚構の中に映し出された世界を通して、初めて現実を現実として受け入れることが出来る。だから、私の小説に描かれる世界は、現実のうちに潜む、一片の不条理でなければならないのよ」
そう言って、先輩は僕に向かって皮肉気な笑みを浮かべて見せた。
「――だから、先輩の書く物語は、こんなにも救いがないんですか?」
彼女は窓の外の景色に目を移しながら、「ええ」と短い返事を返す。僕は彼女のその痛々しいまでの純粋な姿を目にとめることができず、視線を手元にあるホッチキス止めされた冊子に移した。
「それが、私の小説だから」
ポツリと呟いた先輩の言葉をかき消すように、スピーカーから下校時間を告げるチャイムの音が響いた。
先輩はゆっくりと席から立ちあがり、机に置いていた鞄を肩にかける。今にも帰ってしまいそうな先輩を呼び止めようと顔をあげると、彼女もまたこちらを見下ろしていた。
「私は、自分が生きるために小説を書いているのよ」
そう言って笑みを浮かべる彼女の姿に、僕は思わず冊子を強く握りしめた。
彼女に何かを言わなければいけないと思った。この日この時、僕が何かを言わなければ、大切なものが零れ落ちてしまうような気がして――。
『次は――』
遠い意識の向こう側から響く車内アナウンスを耳にして、僕はゆっくりとまぶたを開いた。
電車に揺られ、つい
今はいったい、どのあたりまできただろうか。
不安になり窓の外を覗くと、車窓を叩く六月の激しい雨と一緒に、懐かしい田園風景が流れていく。どうやら乗り過ごしてはいないようだ。そう思い、僕はほっと胸を撫で下ろした。
この日、僕は帰郷のために一本の電車に乗っていた。
東京から新幹線に乗って名古屋まで行き、そこから名鉄線に乗り換え、特急で一時間ばかりのところにある田舎町。それが僕の生まれ故郷。
一浪を経て他県の大学に入学した時以来だから、実に十年ぶりの帰郷になるだろうか。実家を出てからというもの、両親とはときおり電話で連絡を取っていたぐらいで、ろくに顔を見せてこなかった。
我ながら親不孝者だとは思う。今日だって、親の顔を見たいという気持ちから故郷に帰ろうと思ったわけではなかった。そのことに少しばかりの申し訳なさもあったが、親子とはそういうものだと割り切って、せめてもの思いから洒落っ気のある東京土産をいくつか買っておいたのだった。
『次は、――――』
シートに深く背中をあずけ、眠っている間に倒れてしまった土産物の入った紙袋を自分の手元に戻していると、再びアナウンスが車内に響いた。
十年ぶりに耳にする駅の名前。
自分が故郷に近づいているという実感から、胸のうちをくすぐるような感傷がふつふつと芽生えてくる。それと同時に、夢に出てきたせいもあるのだろう、深い記憶の底に沈んでいた夕焼けのように輝くかつての思い出がよみがえった。
長いようで短かった中学時代、文芸部に所属していた僕の、たった一人の先輩の姿が――。
『ねえ、君はどうしてこの部活に入ったの?』
僕が文芸部に入ったばかりのころ、彼女は毎日のようにこんな質問をしていた。
学校の授業が終わった放課後は、校舎の四階にある狭い部室の中で、僕たちはいつも向かい合うようにして座っていた。まだ先輩のことを良く知らなかった僕は、彼女の試すような視線に戸惑いながらも、いつも同じ答えを返していた。
『先輩の小説が、好きだからです』
新入生用の部活紹介で配布された一冊の会誌に載せられた物語。
渓谷を吹き抜ける一陣の風のように、常夏の国に流れ着いた氷山の一角のように、壮麗で力強く、底知れない存在感を放っては、どこかへ消え去ってしまうかのような儚さが、その小説に綴られる言葉のうちに秘められているように思えた。
いったい、どんな人がこの文章を書いているんだろう。
そんな小さな好奇心が、サッカー部に入ろうと誘った友人の言葉をはねのけたのだった。
僕がそう言うと、先輩は決まって「君は変わってるね」と呟き、興味を失ったように窓の外の景色を眺めていた。
綺麗な人だった。
長くつややかな黒髪。どこか遠くを見つめる、大人びた眼差まなざし。頬杖をついて窓の外を眺める彼女の、ほっそりとした白い指先と、口元にできた小さなほくろ。
そんな彼女の見つめる世界がどんなものなのか、あの頃の僕にはよくわからなかった。
「ただいま」
「おかえりー」
玄関で荷物をおろしていると、奥の台所からエプロン姿の母が出てきた。
「なにもこんな時期に帰ってこなくてもよかったのに。雨、大変だったでしょ? 濡れてない?」
「駅についた時にはもうやんでたから、ほとんど濡れてないよ」
「あんたってほんと運がいいね。こどもの時から雨が降ってても、あんたが外に出ようとするとすぐにやんでたんだから」
母の大げさな思い出話に思わず苦笑する。
「さすがにそれは気のせいだって。何度もずぶ濡れになった覚えがあるし」
「そうかしら」
十年ぶりに見た母は少し老けていた。六十近くになって、目尻の皺は深くなり、シミも増えていた。背も少し縮んだだろうか。茶色く染められた髪の根元からはうっすらと白く光る毛がのぞいていた。
「兄さんは?」
「まだ仕事。あんたが帰ってくるって言ったらすごく怒ってたわよ。こんななんでもない日に帰ってくるなんて、って」
「ははっ。兄さんらしいな」
地元の市役所で働く堅実な兄は、僕の生き方をあまり好いてはいないようだ。少し前に電話をしたときは、いい加減に安定した収入を得ろと説教されたことを思い出す。
靴を脱ぎ、玄関から上がりながら、僕は「そういえば」と、提げていた袋を母に見せた。
「お土産買ってきたから、線香あげさせてよ」
染み入るような鐘の音が、薄暗い室内に広がっていく。
一階の和室にある小さな仏壇、仄かな煙をあげる線香を前に僕は静かに合掌する。
父の記憶はあまりない。
観光バスの運転手として日本各地を回っていた父は、ほとんど家庭のなかにいることがなかった。
わずかに覚えている父は、
日が差さない暗い部屋の中で一人、古いブラウン管テレビの前に座り、お酒を飲みながら煙草をふかしていた。煙のこもった部屋の中で、傍らに日本酒か焼酎の一升瓶を置き、いがらっぽいしゃがれた声を張り上げて僕の名前を呼ぶ。僕が傍へ行くと、父は無言でつまみに食べていたまぐろの珍味をくれた。父の体に染みついたタバコの匂い、僕を見つめる不器用で厳めしいまなざし。それが、僕が覚えている元気だった父との思い出。
僕が中学校に上がる少し前、父の体から癌が発見された。
病院嫌いが災いして、手の施しようがないレベルにまで育っていた癌を見て、医者は匙を投げたという。それでも抗がん剤が投与され、からだを痛めつけながらの延命措置が行われた。
頭髪が抜け落ち、顔は血の気が失せたように青白くなっていく父。僕はその姿を見て、父がこの世界から透けて消えていってしまうかのように思えた。
父は一年ほどの闘病生活を送り、暗い病院の一室で静かに息を引き取った。
苦しみの果てに至ったその顔は、とても穏やかなものだった。父が何を思いながらこの世を去っていったのか、僕には想像がつかなかった。
家族や親戚との挨拶を終え、実家で一泊をした翌日。
この日も雨が降っていた。
昼を過ぎたころに、僕はビニール傘をさして外へ出かけた。
目まぐるしく変化していく東京とは違い、十年ぶりに見た故郷の田舎町は大きく変わってはいなかった。
それでも、幼いころに友人と一緒に通いつめた厳格そうなおじいさんが経営していた駄菓子屋には、まるでずっとそうであったかのように固くシャッターが閉ざされ。父の遺骨が埋められた寺のお堂は、今にも倒れそうなくたびれた建物から、真新しい木々で組まれた立派なものへと変わっていた。町は少しずつ、緩やかに変化していく。きっと、これから十年、二十年と時が経てば、僕がこの町で過ごした痕跡はさらに薄くなるだろう。そのとき、僕は異邦人としてこの町に迎えられるようになるのかもしれない。
僕は車通りの多い道から外れ、コンクリートで舗装された細い
雨を浴びて、いつもは田んぼに潜むカエルたちが一斉に合唱をしている。それに合わせるかのように、大粒の雨を受け止めるビニールハウスがボツボツと重い音を響かせていた。
『雨が嫌い』
今のような薄暗い梅雨の季節。彼女はその日も、窓の外の景色を眺めていた。
『田畑が雨に濡れて匂い立つ、むっとするぐらいに濃厚な泥土のかおりが、たまらなく嫌い』
繊細な人だった。春の陽気を疎み、梅雨の雨を嫌い、夏の猛暑を憎み、秋の夕映えと、冬の静謐とを愛した。
『この街が、嫌い』
田舎特有の背の低い家屋の連なりや、車どおりのまばらな細い道路。雑草の生い茂った使われていない田畑に、骨組みだけのビニールハウス。校舎の四階にある部室からのぞむ、それらの景色を彼女は見下ろしていた。彼女のその姿はこの町に住みながら、この町の外側にいるかのように思えた。
先輩との関係が深まっていくうち、彼女の小説に綴られた言葉が、彼女自身の抜身の言葉なのだと気づいた。
彼女の小説は、どれもが悲劇的な結末を迎える。それは、叫びだった。あぶくのように彼女の内から沸き立つ、儚い叫び声だった。彼女はその言葉によって自らを傷つけながらも、同時に自らの言葉によって救われていたのだった。
『先輩は嫌いなものがたくさんありますね』
『ええ、私を苦しめるもの』
『じゃあ、人のことも嫌いなんですか?』
『そんなことないわ。人間は面白いもの。でも、あの教室クラスの中にいることは、窒息してしまいそうなぐらいにひどく息が詰まるの』
孤独を受け入れながらも孤独を嫌い、人を憎みながらも人を好む。張り詰めた一本の糸の上を歩いているかのように、彼女の揺れ動く心は気難しく、それゆえに集団の輪の中に入ることのできない生きづらさを抱えているような人だった。
そのためか、僕が文芸部に入るまで、彼女はひとり部室で本を読むか、小説を書いて過ごしていたらしい。
『この部室が一番落ち着くわ――』
『でも私は、どこか遠い場所へ行きたいの』
あの頃の彼女は、空想の翼を広げて空を駆け、遠い彼方から現実という名の地上で起きるすべての苦痛を俯瞰しているかのように思えた。
「若いなあ……」
白塗りのコンクリートづくりの校舎から笑い声を響かせながら出てくる中学生の一団を眺め、僕は思わず老人めいた言葉を漏らした。
雨風で建物がくすんだ色になっていたものの、十年以上経った母校の様子は変わっていなかった。校門のそばで立ち尽くす僕の姿を横目に見ながらも、ジャージ姿で下校する少年たちが運動部らしい闊達な談笑をしている。
この時間にこのような場所に立ち尽くしている見知らぬ大人。もしかしたら不審者として通報されてしまうのではないだろうか。
「――――くん?」
少し移動しようかと考えを巡らせていると、かすかに記憶に残る、ひどく懐かしい声音が、自分の名前を呼んだ。
振り返ると、一人の女性が立っていた。
「先輩?」
「うん。久しぶりだね」
――小説を書くことを、彼女は“酔う”ことだと例えた。酩酊して正気を失い、理性を置き去りにすることによって、自分は生きていけるのだと言っていた。
「15年ぶりの再会を祝して」
僕と先輩は再会の挨拶とともにグラスを合わせた。
彼女から連絡があったのは、少し前のことだった。仕事柄使っていたペンネームが学生時代からのものだったために、書店でその名前を見かけた彼女からSNS上でコンタクトがあったのだ。
「ごめんね、忙しいのに時間もらっちゃって」
「いい加減、家族に顔を見せないといけないと思ってたのでかまいませんよ。良い機会をもらえてむしろ感謝してます」
「ならよかった」
安堵する彼女の姿は、昔とはかなり変わっていた。
こなれたように施された薄い化粧と、淡い紅が塗られた唇。細く描かれた眉毛に、マスカラのついたピンと反ったまつ毛。バッサリと肩口まで切られ髪は、店内の照明に照らされ赤茶けた輝きを放っていた。
前髪を整えようと伸ばした彼女の薬指にはまる指輪が、きらりと光る。
「改めて、ご結婚おめでとうございます」
彼女は「ありがとう」と、照れたようにはにかんで見せた。
「メッセージを送ったときにも書いたと思うけど、どうしても君と話したいと思ってたんだ」
「僕も、そう思っていました」
こうして僕たちは、昔話を始めた。
中学校を卒業した後のこと、大学のこと、旦那さんのこと、生まれたばかりの子どものこと。僕の知らない彼女のことを、僕もまた彼女の知らない僕のことを語りあった。お互いの間にぽっかりと空いてしまった穴を埋めていくかのように。
お互いのことを語りつくした後、自然と僕たちは二人の思い出の話へと変わっていった。
「覚えてる? 一緒に海に行ったこと」
「一度目は、最悪でしたね」
「すっごく磯臭くて辛かった」
「その説は失礼しました」
先輩が遠い場所へ行きたいと言った後のこと、僕は嫌がる彼女を引っ張るように、近くの貿易港に連れ出したことがあった。なんとなく、二人で海を見て遠い世界に思いを馳せたいという、妙なロマンチシズムに突き動かされたのかもしれない。だけどその海は、内海で潮の流れがあまりなかったために、風に乗ってひどく濁ったような磯の匂いが漂ってくるような場所だった。
匂いに顔をひどくゆがめながら突き刺すような視線を送る先輩に、当時の僕はしどろもどろに謝ることしかできなかった。
昔のことを思い出し、非難するように見つめていた彼女の顔がふっと綻ほころぶ。
「でも、二度目の海はすごくよかったよ」
僕はリベンジとして拙い情報の伝手を使って、別の海の場所を見つけ出した。
彼女を何とか説得し、曇り空の中、ローカル電車に乗って行きついた無人駅。そこから両脇に伸びる木々から生い茂った枝葉でつくられたトンネルが覆う、急こう配の坂道を上り下り、僕たちは小さな浜に出た。
岩肌がむき出しになった
その前に行った内海の濁った磯の匂いとは違う、優しくくすぐるような新鮮な潮の香り。灰色の空。灰色の海。遠く、水平線のかなたで鳴り響く雷の音。海から吹きつける強い風によって、砂が沸き立ち、うねるような波模様が描かれた砂浜。砂利の混じらない軟らかな砂は、一握り掴むと、風に舞ってさらさらと粒子のように流れゆく。
『きれい……』
風になびく黒髪を抑えながら、先輩は魅入られたように遠雷が叫ぶ荒々しい海の姿を見つめていた。僕はそのとき初めて、海にはそれぞれの“顔”があるのだと知った――。
不意に、先輩が聞き覚えのあるハミングを口ずさむ。
それは昔、僕がよく聴いていた曲だった。
「覚えてる?」
「……懐かしい曲ですね」
――Jungle Smileの『翔べ! イカロス』
「ねっ!」
部室に置いてあった古いコンポ。先輩はそれでクラシックを聴いていたが、時折僕も家から持ってきたMDの曲を流していたことがあった。この曲も、そのうちのひとつだった。
――ああ。
あの頃の僕が、なぜ彼女に惹かれていたのかを思い出した。
「好きだったな……」
ぽつり、と彼女が言葉を漏らす。
あの頃の僕たちは感情の置き場が定まらず、お互いに惹かれあいながらも、別のものを見ていた。
彼女は僕を空想の内側におき、僕は空想の空を羽ばたく彼女を愛した。
「ずっと、お礼を言いたかったの」
彼女はうつむき、手元にあるカクテルの入った杯をいじりながら言う。
「あの時、君が私を認めてくれたから、今の私があるんだと思う」
彼女の顔は、前髪に隠れてよく見えない。でも、どこか彼女の声は、震えているように感じた。
僕は何も言わなかった。
しばらくの静寂に包まれる中、彼女は小さく一呼吸をつき、顔をあげた。
「でも、もうなよなよした草食男って、タイプじゃないんだ」
彼女は笑っていた。ただ、
僕もまた、彼女に応えるように笑顔で返す。
「僕も、メンヘラって苦手なんですよね」
「えー、酷くない?」
「冗談ですよ」
僕と彼女は、あの頃抱いていたはずの感情を削ぎ落とすかのように、お互いを平凡でつまらない
これは、とっくの昔に終わってしまった“特別なもの”にケリをつけるための、一つの儀式のようなものだった。
「先輩」
「なに?」
「今でも小説を書いてますか?」
僕の質問に彼女はわずかに目を伏せた。
「やめたんだ。なんだか、書けなくなっちゃって。――才能、無かったみたい」
寂しいことだけどね、と言って先輩は笑う。
「そう、ですか」
――良かった。
僕は心の底から、安堵した。
寂しいと語る彼女の笑みには、あの頃のような翳りは宿ってはいなかったから。彼女にはもう、小説は必要ないのだ。
卓上に置かれた先輩のスマホが振動した。
「ごめん! そろそろ帰らなきゃ」
先輩はスマホの画面を見下ろしながら、申し訳無さそうに言った。
「旦那さんからですか?」
「うん。そろそろ子供を寝かしつけないといけない時間だから。あの子すっごく元気でね、彼だけだと大変なの」
僕たちは振動を続けるスマホの音に急かされる様に会計を済ませて店を出た。
店の前の路上に停まる車のそばに、大きな傘を差した一人の男性が立っていた。アルコールで火照った顔を緩め、彼女はその男性に大きく手を振りながら近づいていく。僕は店先の外灯の下から、男性の影に向かってぺこりと会釈をした。
「今日は会えて嬉しかった! じゃあ、元気でね」
振り向く彼女の顔は、影となってはっきりと表情を見ることはできない。僕は自然と頬が緩むのを感じながら、小さく手を振った。
「ええ、お元気で」
先輩が乗る車のテールランプが雨粒に反射して、ぼんやり滲んだ光を発しながら徐々に遠くなっていく。僕は背を向けて、駅へと続く道を歩きだした。
僕と彼女の道は、たった二年のあいだ交じり合っただけだった。
過ぎ去った時間は永遠に戻ることはない。もう、あの夕暮れ時の教室で一緒に小説を読むことも、語りあうこともできない。
それでも、未熟で気恥ずかしくなってしまうぐらいに純粋だった日々のなかで味わったあの情景は、すべてが自らの人生を彩る血肉となって脈打っている。二年というわずかな歳月は、僕たちにとってかけがえのないものとなっていた。
朱い、夕焼けに照らされた教室で、彼女が見せたあの危うげな輝きは、僕の中に一生残り続けるのだろう。
翌日、僕は故郷を去り、東京への帰路についた――。
思い出は遠く、風に身をゆだね 甘利俊介 @amari_syunsuke
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