9話  本戒

 

 あぁああ。ぁ あああ。


 この世に生まれた赤子の一声は、よろこびなのか、なげきなのか。志乃布しのぶには区別がつかぬ。



 赤子が産まれた。


「よぅ、やった。よぅ、やったにゃ」

 取り上げ婆は、汗まみれの志乃布しのぶの顔を手拭いでふいてくれた。


 産小屋うぶごやの中、藁束わらたばを積み上げて背もたれとした藁床わらどこに、腰巻だけで志乃布しのぶは寄りかかっていた。

 そばには、多須奈たすなもいる。

 お産の最中は産小屋うぶごやの入り口辺りを、うろうろしていたらしい。


「それ。かあいらしいのんが、ついとる。乳、ふくましてやりにゃ」

 早速に取り上げ婆は、赤子を志乃布しのぶの胸にのせてきた。赤子は熱の珠のようで、志乃布しのぶの乳首を小さな口にあてがわれると、猛烈に吸ってきた。


「この子の首は、ほっそりとして、クグイ(白鳥)のようだにゃ」


「――トリかい。人の子だぞ」

 志乃布しのぶは笑った。


「でも、トリなら、どこへでも飛んで行ける」

 多須奈たすなは案外、気に入ったようだ。


「飛んで行くんだ。私とお前の子は」

 そして、言いそえた。

「それから、の子だからな」




 そうして、産の忌明けに志乃布しのぶが工人長屋に戻ってみると、多須奈たすなの姿がなかった。


 志乃布しのぶは「あぁ」と気の抜けた声をあげた。


多須奈たすなは、はじめから、そう言っていたのだ……)





「なーむ、みょうほうれんげきょう。なーむ」

 鞍作くらつくりおさの館から経の声が流れてくる。唱えているのは達等たつとだ。

 香の煙がたゆたうのを、志乃布しのぶのひざで止利とりの目が追っていた。ぱっちりと見開いた目は、志乃布しのぶに似ている。


「おり(わたし)、お経なんぞ、わからん」

 達等たつとに「仏間へ経をあげに」と呼ばれたとき、志乃布しのぶは逃げ腰だった。

   

「手を合わせて。妙法蓮華経みょうほうれんげきょう。これだけ覚えればいい。あとは、思うことを心で願うたら、えぇんだ」


「赤子が元気に育ちますように、とか?」

「そうさ」

 本当に願うことは。

 言いかけて、志乃布しのぶは、やめた。


 ゆっくりと、達等たつとは最後の行を唱え終わった。


「寝たか。わしの読経が子守歌代わりか」

 達等たつとは、志乃布しのぶの腕の中で眠っている止利とりを見て、目を細めた。そして、両の手のひらを差し出したから、志乃布しのぶは、そろりとおしゅうとさまに止利とりを渡した。

「お。また、重とぅなった」


 達等たつとは、そのまま、止利とりをあやす。

「――さて。こたびのチェ朝貢使団ちょうこうしだん宮都きゅうとを訪れてな」


 チェが海の向こうの国なのだということは、志乃布しのぶにもわかる。鞍作くらつくりの一族が、そこからヤマトにやってきたことも。


「僧6名、寺院建築工2名、露盤博士ろばんはかせ瓦博士かわらはかせ4名、画工が献上されたものよ。多須奈たすなには、その世話に行かせた」


「そうでしたか」

「聞いておらなんだ様子だな」


 多須奈たすながいないとわかったときの、志乃布しのぶほうけ具合を工人長屋の誰かから聞いたのだろう。


志乃布しのぶさんには、いろいろと悪かった。許せ」

「いえ」


 あの、くそぽんこつ。

 いなくなる前の夜、産小屋うぶごやにやってきて。

 子供のように泣いていたくせに、真似事とはいえ、することはしていった。

 

 

「それから、斯末しまちぇへの留学を許されたよ」


 斯末しまとは、尼さまの俗名だ。

 このような身内の語らいの中でだけ、おさは娘を思い出すように、その名を呼んだ。

 かねてより、尼さまは戒律を学ぶためにチェに行きたいと願っていたのだそうだ。


チェの法師いわく、尼の受戒法 は、まず尼寺に十人の尼 をしょうして本戒を受けた後、法師寺 にて10人の法師をしょうし、先の尼、10人 と合し、20人のもとで本戒を受けるというのが正しいのだそうだ。それだけの法師と尼がヤマトにそろうのは、いつになるだろうなぁ。ん、止利とりよ」

 

 赤子を見る達等たつとの目元が多須奈たすなに似ているようで、志乃布しのぶは思わず見入ってしまった。


「ん? なんだ。志乃布しのぶ。オレにほれたか」

 しゅうとに色めく笑みを返されて、志乃布しのぶは、ひゃんと正気に返る。


(あっぶねー。油断ならねぇ、このしゅうと






※〈露盤博士〉 塔の建立を担当する鋳造技術者。博士は尊称。

 〈瓦博士〉 瓦工の尊称

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