5話  尼さま

 女帝の宮都きゅうと豊浦宮とゆらのみやと呼ばれ、飛鳥あすかの地にある。

 その地は、香具山かぐやまよりうま(南)の方角の飛鳥あすか川の左岸に広がる小さな盆地だ。


「道が、まっすぐじゃね?」

 山しか見たことがなかった志乃布しのぶは、声をあげて驚いた。


「田舎もんが」

 杣人そまびとどもが笑う。


 『不細工』と言われるよりは、断然いい。

 さあ、問題は、多須奈たすなだ。


 そこへ、一人の女に声をかけられた。

「あなたは、アマリベの里でいちばんの

「――志乃布しのぶです」

 言わせねぇよ。


 誰?


「われは鞍作多須奈くらつくりたすなの妹です」

「妹」

 それは知らなかった。


 その女の年の頃は、志乃布しのぶと変わらない。

 つるんとした肌の、お人形のような人だった。

 ついでに、頭も、つるんとしている。


「いらっしゃいな。兄は今、われの寺に来ています。出家したいと言い出して」

「しゅしゅしゅ」

 志乃布しのぶは混乱する。




 多須奈たすなの妹は尼だと云う。

 ヤマトの国に仏教を興そうというソガさまのお計らいで、十一歳の時に出家した。 


 仏教をあがめようとしたとき、それを守るのは巫女、つまり尼であると考えたのが、ソガさまだったと云う。

 鞍作くらつくりの一族は、このソガ家の恩恵を受けているらしかった。




「やぁ、志乃布しのぶさん」

 久しぶりに会う多須奈たすなは気まずそうだった。


はらに子がおるそうですよ。あにさま」

 尼が、いきなり、ぶっちゃけた。

「出家どころではないのでは」


「――」

「――」


 多須奈たすな志乃布しのぶは黙り込んだ。

 お互いが、お互いの出方を見ている。


 それで、志乃布しのぶは、この恋は終わったなと思った。


(どうするか)

 志乃布しのぶは、きりっと尼さまに向き直った。

「この、お寺で働き手は、お入りようでは? おり(私)は丈夫です。お役に立ちます」




 そして、「おねえさま」

 翌日から、尼さまは志乃布しのぶのことを、そう呼び出した。

 おかげで落ち着かない。


志乃布しのぶで、けっこうです」

「そうは言っても」

 尼さまは、志乃布しのぶの腹に目をやった。

 志乃布の腹は、とせり出してきた。


「私は、そのはらの子の叔母ですしね」


「はぁ」

 志乃布しのぶは苦く笑うしかない。

 多須奈たすなの、あの反応。

 あれは、真面目なほうの多須奈たすなだ。たぶん、志乃布しのぶとそういうことになっているのにも、気づいていなかったのかもしれぬ。


(相当ショックだったってことか)


「当面は、ここで、お暮しなさいませ」尼さまの申し出に、「ありがとうございます」という言葉しか出なかった。


 自分の身のふり方もだが、宮都きゅうとに来るまでの宿代、飯代、杣人そまびとらがもってくれた。

「いや、何。鞍作くらつくりに請求するで」とは言っていたが、返したい。



 この寺には、多須奈たすなの妹の他に尼が、もう二人いた。

 そして、志乃布しのぶと同じ年頃だというから驚く。やはり、帰化人の娘だと云う。

 その尼さまたちの、お暮しはと云うと。


 朝、四時に起床して瞑想。

 五時から朝課の読経。

 お堂などの掃除をすませ、二時間ばかり托鉢に出る。

 八時に朝食。食事は、この一回のみ。

 昼間は各自の修行にあてる。

 気がついたところの掃除も含まれる。

 十六時、お茶の時間。この時に、誰ぞがやって来て相談などを持ちかけられる。

 十八時から夕課の読経。

 で、二十時まで瞑想の時間。それから就寝。


 ぎっちぎち。


「慣れれば、そうでもないのです」

 尼さまは涼やかな、お顔で言う。

戒律かいりつというものもあります」


「かいりつ」

 志乃布しのぶは、わからない言葉を聞くと頭の中がしろくなる。


「〈かい〉は自分で自らに誓約するもの。〈りつ〉は仏道を修行するうえで守るべき規範。ざっくり言うと」


 尼さまが、たたずまいを正した。


不殺生戒ふせっしょうかい。みだりに生き物を殺生してはならない。

不偸盗戒ふちゅうとうかい。盗みを犯してはいけない。

不邪淫戒ふじゃいんかい。淫らなことをしてはいけない。

不妄語戒ふもうごかい。妄言(嘘)をついてはいけない。

不飲酒戒ふおんじゅかい。飲酒をしてはいけない。です」


「……」

 してはいけない、だらけだ。

多須奈たすなさんは、出家したら、それ、全部、守るんですか」


「そうです」

 尼さまは志乃布しのぶの目の奥を、のぞき込むように唱えた。

殺生せっしょう偸盗とうかい邪淫じゃいん妄語もうご飲酒おんじゅ


「せっしょう、とうかい、じゃいん……」

 志乃布しのぶは気づいた。

「……じゃ、出家したら、結婚できねぇってことじゃ」

「あら、理解が早い」





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〈読んでくださる方へ〉

 飛騨に伝わる二つの伝承を要約すると、多須奈たすなは、推古すいこ天皇の時代に天生あもうの山で地元の女性(不細工のため適齢期を過ぎても嫁にも行けず)と知り合い、子供が生まれたと解釈できます。

 が、その多須奈たすなの、いろいろが、女帝の在位前の出来事で。

 第1話のエピソード、時系列的に多須奈たすなが生まれたのは達等たつとが高齢になってからと思えるのですが、創作として私の願いを優先しました。

 多須奈たすなも、もっと年いってから飛騨の女性と知り合った気がします。

 すると、おじさまとアラサー女子の恋が史実?

 作者が思ったより〈架空飛鳥物語〉になってしまいました。

 お楽しみいただけたら、さいわいです。

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