2話  〈トヨミケ歴2年〉 天生の山

 そもそも、ヒダの国はヤマトの都から遠く離れた地である。 

 貴人の流刑るけいの地ともされた、そういう辺鄙へんぴな地であった。


 そのヒダの天生あもうの山にアマリベという里があった。


『山の神は十二じゅうにさまと呼ばれている。一年に、十二人の子を産むからだ。作物の方丈や富をもたらす生産の神だ。春には、里に下りてきて田の神となる』


 そう、志乃布しのぶに教えてくれたのは、死んだかかだ。


 また、山は死者の霊の休まるところであるから、山の神は子孫を守護する祖霊でもある。

 くにかみの一つだ。





 夏の祭りの夜であった。

 一年の半分を雪に閉ざされて過ごす里人にとっては、一年に一度のハレの日。

 誰もが心浮き立つ、その夜に、娘が一人、山の中へ歩いていた。志乃布しのぶだ。


 ブナの古木の間を、志乃布しのぶが、ひょいひょいと、またぐたび、腰に巻いたから、しっかりと肉がついた脚が、ちらちらと見えた。

 上に着ているのは、穴を開けたところに頭を通す簡素な衣だ。

 フジのつるの皮から採った糸を織った生成りの布。あと、アマリベの女たちはクズやコウゾからも糸を作る。

 上の衣は短めで、まくれて腹が出ないように腰を細い縦縞たてじまの帯で結んで脇にたらしていた。縦縞の青い色は、ずいぶん色褪せているが。娘の衣に色味は、それしかない。



 今夜の祭りは豊穣を願う祭り。しいては、男と女を結ぶ祭り。

 志乃布しのぶには、関係ない。

 志乃布しのぶは里で、いちばんの醜女しこめと評判だった。


 まぶたや唇が腫れ、腕や背中に、じくじくとがあった。

 年頃になったが、婿むこになりたいと申し出る者はいない。


 だから、この夜も、できるだけ祭り囃子ばやし嬌声きょうせいが聞こえぬように、山の中に入っていようと思った。

 我ながら、暗いと思う。ひがみ根性がすごいと思う。



 山を入って、すぐのところに小川があり、側には小屋がある。

 山菜を取りに入った時など、休息に使えるように、志乃布しのぶの父、黒足くろたりが作った小屋だ。


 志乃布しのぶ身体からだが辛くなったり、気持ちが辛くなったりすると、よく、この小屋に逃げ込んだ。

 かかまが死んでしまってからは、特に。



 その小屋に入ろうとしたときだ。いきなり何か踏んだ。

 先客がいて、その者を踏んだ。


「ぐっへぇ」と、おしつぶされた声がした。


「あ? え」

 志乃布しのぶ身体からだが、かしぐ。

 倒れると、下で、

「きっつぅ」

 誰かが転がっている。


「すまん。すいません」

 とりあえず、あやまっておく。

「人がおるとは思わんで」


「娘か」

 うれしそうな男の声がした。

「一人寝が寂しかったところじゃ」


「ご冗談」

 志乃布しのぶは引きつった。


天生あもうの山娘だろ。わしは山神の化身じゃ」

「嘘こけ」

 志乃布しのぶは、ぐうと握った左拳ひだりこぶしで男の顔を一撃した。

 そもそも、山神は女神だ。


「……冗談はさて置き。お前が踏んだところ、折れた」

 男は脇腹をかかえて身を起こした。


「う、うそ



 月の光が小屋の辺りを照らしている。


 男の輪郭を月明かりが映し出す。

 崩し加減の下げ美豆良みずら

 髪は薄い色で、瞳の色も薄い。

 襟と胸のところを紐を結び合わせている、生成りの上着。脹脛ふくらはぎのところを紐で結わえた下履き。

 ここらの男ではない。


うそではない。こっちに

 凝りていない。右の手で、ぐっと志乃布しのぶの左手を引っ張った。

 左の手で、志乃布しのぶ身体からだを引き寄せる。


いったい、いたいって」

 腕のがすれて、つぶれた。志乃布しのぶは、涙を目にためて右手をぶん回す。男に右手首もつかまれた。


 男は、まじまじと志乃布しのぶの顔を見てきた。

 月明かりの中。


「ん-と。んでるな」

 男に指摘されて、カッと、志乃布しのぶの頭に血がのぼる。


『くさい、きたない、くっさい、きたないシノブ』

 里の者の嘲笑ちょうしょうの声が、頭に響く。

 だから、男は志乃布しのぶのところへ一人も来ない。


「ん-と」

 男は、急に、てきぱきと志乃布しのぶの目の周りや唇を確かめはじめた。

 ばっと、志乃布しのぶの衣の裾をまくってきた。

は全身か」


(ぎゃああああ)

 びっくりし過ぎて、逆に声が出ていない。


「背中、見してみ」

 うつ伏せにひっくり返され、かれた。


「ん-と。お前、これ、なんかの特定抗原免疫過剰反応とくていこうげんめんえきかじょうはんのうだよ」

「とっとっと」


「オレの持ってる薬が効くかわからんが、使ってみるか」

 男が、ごそごそしだす。

「その前に、川で水を浴びて来い」


「き、きれいにしてから、やらしいをしようと……」

 志乃布しのぶは、衣を胸でかき合わせた。


「……とりあえず、れを治そうか」

 男は覚めた様子で言った。


「治るのか! これ」

 志乃布しのぶは腫れた目を見開く。


「ん-と。治せる。チェの薬なら」


 志乃布しのぶには、男が急に輝いて見えた。

 たしかに、薄い髪の色と、その目は、天から降りて来た者のようだったから。


「ん-と……」

 急に男が、頭を抱えて、うつむいた。そして、ガクンと志乃布しのぶに、もたれてきた。


 男の体は熱かった。






 男の熱が下がるまでに三日かかった。その間、志乃布しのぶは山菜を山に採りに行くふりをして家を抜け出し小屋に通い、男の面倒を見た。


 日の光の下で見る男は、思ったより若かった。

 すんなりと若木のような四肢をして、よい生地の衣をまとっている。

 たしかに、この辺りの山の者ではない。


 その日はクヌギの粉粥こながゆを作ってきた。のり状の白い粉粥こながゆは、大きめの葉にくるんでも、こぼれないのがいい。


(病人には、まだ食べづらいかな)


 志乃布しのぶは、杣小屋そまごやの小さなくりやを片付けて、かまどに鉄を打った鍋を置いた。水につけておいた干しキノコごと湯を沸かし、そこへ青菜を入れる。その汁に、かたまった粉粥こながゆも、ちぎって入れた。

 

 コトリ。背中の小さな物音に振り向くと、男がむしろから半身起こしたところだった。


「――あなたさまは」

 男は、まだ覚めやらぬという風情で、志乃布しのぶを見た。


志乃布しのぶです」

天生あもうの山里の方か」

「はい」

「わしは助けてもろうたのですか」

 男は推察した。


「はい。まぁ。食べますか? キノコ汁」

「いただきます」


 志乃布しのぶは、木の椀に少しだけ汁をいだ。

 男に先に、さじを渡す。「あ」男が、さじを取り落とした。


「力が入りませんか」

 男の膝の上に落ちたさじを拾ってから、志乃布しのぶは椀を持って男の側ににじり寄った。

 汁をひとすくい、さじで、ひとすくい、「あーん」と、男の口に近づけた。

 男は言うなりに、さじを口に含んだ。

「……おいしぃ」


「ゆっくり、食べてくだせ」

 何とはなく、面はゆいような、こそばいような気持ちに志乃布しのぶはなっている。

 こそばいのは、れのせいかもしれないが。


 男というものに、こんなに近寄ったことはなかった。

 弱っている男というのも、はじめてだった。

 何か世話をせなばならぬような、きゅっとした気持ちになった。


「……こんなに、ご親切にしてくださるということは」

 男が汁を、おかわりして言った。

「また、が、あなたのみさおをいただいてしまったのでしょうね」


「へ?」


「あいつが……」

「あいつ、とは」

鞍部多須奈くらつくりのたすなです」

「あんたさまは?」

鞍部多須奈くらつくりのたすなです」

「どっちも?」

鞍部多須奈くらつくりのたすなです」



 わけがわからない。






※〈下げ美豆良〉 髪を頭の中央で左右に分け両耳のあたりで束ねて

         肩まで垂らしたもの


 この世界は禁止令が出るまでは男も左前の上着着用

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