宅配員③


「血で玄関を染められた時は苛立ちもしたけど、生理現象に本気で怒らないよ?それなのに、血を出すごとに怯えた幼児のようにこちらを窺って。そんな可愛い姿を見せられたら怒りだって縮んていきますよ」

「お、怒らないんですか? そ、それに今可愛いって」


 女性はまだよく分かっていなかったが、笑顔で楽しそうな江馬に心を埋め尽くしていた心配は消え去っていった。江馬の口から出た可愛いという言葉に嬉しいやらなんやらで大パニックだ。鼻血だけではなく他の所からも汁が吹き出していた。


 侵入したことを許し、何故か侵入した私を許してくれるような不思議な男。それでも、流石にこれを見せたら引かれてしまいそうだ。今は座っているから何とか隠せているけど、これ以上増えたら確実にバレる。何か他のことを考えなければ。えーっと、ミカン。ミカンといえば愛媛。愛媛といえば、愛が入っているよな。愛と言えば、愛撫?



 江馬の顔が頭の中で浮かぶと、その本人と目が合った。

 江馬の茶色の瞳が優しく女性を捉える。

 詰まっていた水が詰まりが解け飛び弾けるように流れるように勢いよく溢れた。鼻血はこれまでにそこまで出なかった。江馬は血に慣れたのか女性に気を遣わせないようにか、鼻血が出ても特に気にする素振りを見せなかった。



 優しい、好き。

 


 ジャージが濡れてそこだけ色が変わっているが、まだ江馬にバレてなかった。


「怒らないですよ。それより、名前は何て言うんですか?」

「な、名前ですか!?私の名前は鈴木凛すずき りんです。」

「いい名前ですね。僕の名前は田中江馬といいます」

「ヒグ””ッ た、田中江馬ですね。覚えましたよ。一生忘れません。」



 男性が下の名前を教えるなんて。

 それに、名前も褒めてくれた。



 え?




 この人は、私のことが好きなのか?


 男性は名前を自由に隠すことが出来る。住所なども一般には田中だったら田中と書くだけで許される。男性の下の名前を知っているのは、戸籍などを管理する政府の超エリートか、その男性の親族だけだ。


 こ、これは好きだと思っていいんだよね。

 っていうか、違かったとしてもこちらがあなたのことを襲う。男性との行為について熱い議論がされ、様々な派閥がある。その中で私はラブラブちゅっちゅしか認めない派閥の一人だった。だけど、もう今はそんな理想は無視する。理想と現実は仲違いするものだ。テスト前勉強の計画を立ててもそう上手く勉強は出来ないように、私が掲げていた理想と現実が違っていても別におかしくないのだ。




 今から止めてっていっても、許さないよ?

 

 凛は再び江馬を押し倒して、上から江馬のことを見下ろす。

 江馬は怯えることもなく、寧ろ嬉しそうに凛を瞳に捉えた。



 一時休戦をしたものの、休戦に応じたのは心だけで体は戦を続ける気満々だ。名前を教えた際にこちらを煽るような声をされて抑える方が大変だった。目も何だかとろんとしていて可愛いし、こちらを誘う甘い香りもどんどんと濃くなっていてさっきから相棒はずっと元気だ。可愛い反応を見るのも悪くはなかったが、視覚と聴覚と嗅覚だけではなく味覚と触覚も使いたい。


 なお、江馬から凛を押し倒せないのは奥手だからだった。



 江馬が怯える様子も無く凜の行動を受け入れたことは、更に凜を高ぶらせる。

 凜は慎重に江馬のシャツに手を掛けた。豪快にやらないのは、彼女もうぶだからである。

 ゆっくり、慎重に捲り上げていく。少しずつ隠されていた部分は広げられていき、全体像が見えてきた。しかし、シャツが半分まで捲られた辺りで凜がシャツから手を放したことで捲られたシャツは元通りになった。


 シャツに隠されていた筋肉に、凜がその場で固まる。

 そんな凜に嫌な予想が江馬の頭をよぎった。


「」

「も、もしかしてあんまり気に入らなかった? 力仕事をしていた時はもっと鍛えていたんだけど、最近は全然運動をしてなかったから筋肉が落ちていたんだ。前は、これでも鍛えていたんだよ?」


 江馬が自分からシャツを捲り、力を込めて浮き上がった見事な筋肉を凛に見せる。そこには六つに割れた厚い筋肉の膨らみがあった。それを見て驚いた凛が高い声をあげる。

 

 六つに割れた腹筋を初めて見たのは、数日前に投稿された戦闘漫画が初めてだった。

 六つに割れる筋肉にもの凄く興奮したけど、どうせ存在しないものだし漫画の作者が創造して取り入れたアイデアだと思った。


 だけど、戦闘漫画よりは劣るものの確かに浮き上がっている六つの筋肉。凜は本当にあるんだと驚くとともに、シックスパックに目が釘付けになった。


「さ、触っていいですか? いや、駄目って言われても触ります」

「どうぞ」

「……そのままシャツは開けたままにしていて下さいね?」


 受験発表当日くらい緊張する。緊張と興奮が混じり、手には汗が滲んでいた。触る前に服で汗を拭う。

 

 よし。

 全身の神経を手に込めて、江馬の筋肉を手の平で擦った。

 

「お、思ったよりも硬い。それに温かい。……お母さんに抱きしめられてるような安心感がします」

「そ、そうですか」


 自分よりひとまわり小さくてすべすべの指。自分の指とは比べものにならないほど柔らかく少しひんやりとしていた。恥ずかしいので腹筋の感想は言わないで欲しかった。


「あの、顔を近付けてもいいですか?」

「……いいですよ。」



 少し考えた後、江馬は了承した。


 凛は態勢を変えると、江馬の腹部に顔を近付こうとする。匂いをより近くで嗅ぐためだ。他にも舐めたいという思惑があった。


 江馬の腹筋に凛は鼻を近付けようとする。しかし、距離を縮めたところでぬめぬめした足場に脚を滑らせた。勢い余って、そのまま江馬に抱き着くようにして倒れる。


「大丈夫か?」

「耳の近くでそんな風に話し掛けないで下さい!!」

「ご、ごめん」


 倒れて江馬と偶然密着する凜。

 江馬にそんな気は無かったが、耳の近くで囁くように話し掛けられた凜は今すぐにもパニックで倒れてしまいそうだった。

 

 冷静になろうと心の内で深呼吸をする。

 腹筋とか、近くで囁かれたこととかは考えない。何かいい匂いもするけど、気にしない振りをする。

 私は今滝修行をしている仙人だ。滝の音が気持ちいい。自然の優しい香りが私の心を穏やかにする。心頭滅却火もまた涼し。明鏡止水。春風駘蕩。スーハースーハー。

 

 昔から行っている心を落ち着かせる方法で一度冷静になると、江馬のズボンの辺りで出っ張っているものに気が付いた。何だこれ。


「何ですかこれ?」

「そんなにまじまじと見ないで下さい。あの、あれですよ。あれです。……分かりますよね?」

「あれって何ですか?」


 興味を持った凜は江馬の許可を貰う前にそれを触った。軽く力を入れて上の方を摘まむと、江馬がぴくんと上下した。


 何だか硬いし、棒のようだ。それに、温かいというより熱かった。心臓のようにどくどくと動いている。これは生き物なのだろうか。生き物だとしたら、なんだろう。陸で生活出来るようになったタツノオトシゴ? 知らなかったけど、男の人は体に生き物を飼っているんだ。


 生き物について何かヒントでも探そうと、腹筋を撫でたようにそれを凜は優しく撫で始めた。




 数十秒たったところで、何とか耐えていた江馬がギブアップする。


「ちょっと、もう無理です。限界です」

「限界って何のことですか?」


 何だろうと首を傾げる凜。

 凜の手の平の下で大きくうなりをあげたそれは弾丸を放つ。服にあった出っ張りは消えてなくなる。

 

 突然小さくなったそれを不思議に思った凜は顔を近付けると、そこから発せられる匂いに目をギラギラとさせた。



――――――――


用語の解説


・シックスパック


江馬の漫画によって世間に認知されるようになった六つに割れた腹筋。江馬が漫画で描くまで殆んど知られていなかった。油断していた多くの女性を襲い、部屋中を鼻血まみれにさせた。江馬の漫画に感化されて、腹筋を鍛え始める女性が増えた。江馬の創作した物だと勘違いしている人が多くいる。



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