ニューラグーンシティブルース
ニューラグーンシティブルースその1
その少年を見つけたのは、ウァイツマン氏であった。
「おや、誰だろう?」
屋敷の入り口を入ったところで、少年がうずくまっているのを見て、ウァイツマン氏は思わず声をかけた。
「きみ、どうしたんだね」
「あ……」
ウァイツマン氏が近づくと、少年は顔を上げて彼を見上げた。まだ幼い顔をしているが、しかしどこか大人びた表情をしている。
「迷子かい? 名前は言えるかな?」
「……わかんない」
「ふむ、じゃあおうちはどこだい?」
「……それもわかんない」
少年の言葉に、ウァイツマン氏は眉根を寄せた。それから彼の頭からつま先までをざっと観察する。服装はごく普通の庶民のものに見えるが、いささかボロボロである。着の身着のまま逃げ出してきたのだろうか。
「あの、ぼく、きおくそうしつってやつらしいんです」
「ほう、記憶喪失か!……ああ、ごめんよ、びっくりさせてしまったね」
「いえ……」
不安げな少年の顔を見つめながらウァイツマン氏は考える。放っておくことはできない。こんな幼子を一人で街に放置しておいて万一のことがあれば罪悪感に苛まれるに違いない。
「とりあえず宿直の駐在さんとこに行こう。ここで立ち話もなんだしね」
「はい」
ウァイツマン氏の招きに応じて、少年は立ち上がった。素直についてくる。
「おまわりさん!」
駐在所に入ると、ちょうど中にいた若い警官が二人の方へ駆け寄ってきた。彼は二人に軽く会釈をして尋ねた。
「失礼ですが、その子はどなたですか?」
「それがですねえ……」
警官に事情を説明しながら、ウァイツマン氏は少年の方を見た。少年はその警官の姿をじっと見つめている。そして、
「おじさん」
と、言った。
「ん!?」
突然話しかけられた警官は驚いて目を丸くしている。無理もない。今の今まで一言も喋らなかった子供が急に声をかけてくるとは思わないものだ。
「おい坊主、お前今なんて言った?」
「おじさん、って言いました」
警官の顔を見ながら少年は答える。それを聞いて、警官は何とも言えないような微妙な表情をした。困惑と怒気が入り混じったような感じだ。ウァイツマン氏は苦笑した。
「まあまあ、子供に悪気はないんですから。許してあげてくださいよ」
警官は不承不承といった様子で口をつぐみ、それから少年の方を向く。
「俺はまだ二十歳そこそこのお兄さんだよ」
警官が優しく尋ねると、少年は首を傾げた。それからしばらく考え込むように沈黙した後、
「じゃあおじさんだ」
と言った。
「ほら見ろ、やっぱりそうだ」
勝ち誇るように言う警官を見て、ウァイツマン氏ともう一人の警官は思わず吹き出した。
それから少年は駐在所で保護された。しかし身元がまったくわからない。警察としても困り果てた末に、彼はフォイエルバッハ家に引き取られることになった。そこで少年の名前は、「カスパール」ということになった。
そして今、この家に来て半年以上が経った今でも、記憶は全く戻っていない。
「カスパールくんの記憶が早く戻るといいわねえ」
「全くだよなー」
夕食の食卓を囲みながらの話題といえばいつもこれだった。この家の主人であるフォイエルバッハ夫婦の口癖のようなものである。
カスパール少年を引き取ったのはこの夫妻であり、彼らは彼を実の子供のように可愛がっていた。
しかしいくら可愛がっているとはいえ、いつまでも子供のことを思いやってばかりはいられない。カスパールを預かるにあたって夫妻は決めたことがある。それは、できるだけ普通の子として育てようということである。もちろんカスパールのことは心配だが、彼が自分で記憶を取り戻すまではそっとしておこうということになった。それに、あまり甘やかすのもよくないだろうという判断もあった。カスパール自身もそんな両親の心遣いを感じ取っているのか、わがままを言って困らせることもなかった。
その日も夕食を食べながら二人は話していた。
「カスパール君は何か好きなものはあるのかい?」
「えっと……とくにないです」
「あらそうなの? もっと好き嫌いしてもいいのよ? 野菜とか残してもお母さん怒ったりしないから」
「いえ、だいじょうぶです」
「そうかい? 遠慮しなくていいんだからね」
「はい……」
そう言われても、カスパールにはやはり自分の好みというものがよくわからなかった。食事の味についても特に感想はなかった。それでも、出された料理は残さず食べていた。
「ところで、明日なんだけどね」
フォイエルバッハ氏が話題を変えた。
「はい」
「ちょっとお出かけしようと思ってるのよ」
「え……?」
急な話で驚いたのか、カスパール少年はきょとんとした顔になった。
「どこに行くんですか?」
「ああ、それはまだ秘密だけどね。明日は朝早いから、今日は早めに寝なさいね」
「わかりました……」
カスパール少年は素直にうなずいた。そしてその日の夕食後、言われた通りにすぐに眠りについた。
翌日、日の出とともに一家は蒸気馬車に乗って出発した。向かう先は街から離れたところにある小高い丘である。道中は特に何事もなく進み、一行はやがて目的地に到着した。そこは街を一望できる場所であった。
カスパールの父親は手すりにもたれかかって景色を眺めている。
「きれいね……」
母親はそう呟いて、隣に立つ夫の方に視線を向けた。夫も黙ってうなずく。二人とも満足げな表情をしていた。それから少しの間、親子三人で静かに街の様子を見つめた。
「ここならよく見えるね」
しばらくして、夫は独り言のように言った。それから妻の方を向いて続ける。
「私達は、カスパールにいろいろなものを見せてやりたいと思っている。世界はこんなに広いということを教えてあげたい。そしていつか、彼が大きくなって自分の目で色々なものを見られるようになってほしい。そういうふうに思っているんだよ」
「ええ、そうね……」
二人はもう一度眼下の街並みに目をやった。
その時、背後に人の気配を感じた。振り返ると、そこにはカスパール少年の姿があった。
「カスパール君、どうしたんだい?」
「いえ、べつに……」
少年は曖昧に答えたが、それ以上は近づこうとしなかった。その目はまっすぐに両親の方に向けられている。その表情からは何を考えているのか読み取ることはできない。ただじっと両親の姿を見ている。
すると、父親がカスパールの方へ歩み寄った。
「カスパール、こっちへおいで」
カスパールはおずおずと近づいてきた。そして彼の目の前に立った時、カスパール少年はその小さな体をふわりと抱き上げられた。
「わっ」
カスパールは驚いて声を上げた。
「な、なんですか?」
「ははは、君は軽いねえ」
「もう、あなたったら」
両親は微笑みながらその様子を見ていた。その腕の中でカスパールは戸惑った表情を浮かべている。
「カスパール、ここに来れば君の望むものがわかるかもしれないよ」
「えっ?」
「まあ、今はわからないだろうけどね。大きくなった時に、きっとわかるはずだよ」
「……」
カスパールは無言で考え込んでいる。しかしやがて小さく首を振って言った。
「やっぱりぼくにはよくわかりません」
「はは、そうだよね。急に言われても困っちゃうか」
父親は笑って言った。
「でも、これだけははっきりしています」
カスパールはそこで一旦言葉を切って、それからはっきりとした声で告げた。
「お父さん、お母さん、ありがとうございます」
その言葉を聞いて、夫妻は顔を見合せて笑った。そしてカスパールに優しく語りかける。
「どういたしまして」
そのとき、一陣の風が吹き抜けた。カスパールは帽子が飛ばされないように手で押さえた。
「ああ、そういえば」
風が通り過ぎた後、父親は何か思い出したように呟いた。
「前に誰かが言ってたな。この世界は広いんだって」
「あら、それは誰なの?」
「うーん……忘れてしまったよ」
父親は照れくさそうに頭を掻いた。母親はそんな夫を見て微笑んでいる。カスパールはただ黙って両親の話を聞いていた。その顔はどこか嬉しそうだった。
「そろそろ戻りましょうか」
母親がそう促すと、カスパール少年はうなずいて答えた。
「はい」
そして彼らは丘を下り始めた。その後ろを、カスパールは帽子を押さえながらついていく。彼はふと振り返り、遠ざかっていく街を見つめた。彼の瞳には何かを決意したような強い光が宿っているような気がした。だがそれも一瞬のことで、やがて元の無気力そうな表情に戻ったかと思うと、両親の後を追って歩き始めた。街を見下ろす丘から去って行く三人の後ろ姿は、街の風景の一部に溶け込んでいった。
「カスパール、さっきの話なんだが」
帰りの蒸気馬車の中でフォイエルバッハ氏は言った。
「はい?」
「世界は広いと言ったことだよ」
「それがどうかしたんですか?」
少年の顔には不思議そうな色が浮かんでいる。そんな彼の顔を見て、フォイエルバッハ氏は続けた。
「あの丘から見渡せる街はほんの一部でしかないんだよ。君からすれば信じられないかもしれないけれどね。この世界は本当に広くて、君もまだまだ色々なことを知らなくてはいけないんだ」
父親は穏やかな口調で言う。カスパール少年は小さくうなずいた。
「わかりました」
それからしばらくの間、少年は黙って考え込んでいたが、やがて独り言のように呟いた。
「ぼく、もっと色んなことを知りたいです」
それを聞いてフォイエルバッハ氏は嬉しそうに微笑んだ。そして彼の頭にそっと手を置いた。少年の顔にも笑顔が浮かんでいた。
「それでいいんだよ」
一家を乗せた蒸気馬車は街へ向かって走っていく。窓の外には平和な風景が広がっている。
それから数日して。
カスパールは礼服を着た自分を鏡で見ている。
少し照れくさそうに微笑みながら、少年はこちらを向いた。
「どうかな? 変じゃない?」
カスパールが尋ねるとフォイエルバッハ氏は満足げに頷いた。
「もちろんだとも」
そう言いながら彼の背中を軽く叩く。すると、今度は母親が近寄ってきて、カスパールの顔を覗き込むようにしながら話しかける。
「よく似合っているわよ」
「ほんとですか?」
カスパールは笑顔を浮かべた。そして今度は父親の方を見ながら言う。
「どう思いますか?」
フォイエルバッハ氏は微笑みながら答えた。
「ああ、とっても似合ってるよ」
その答えを聞いて、少年は少し得意げな顔になる。それから、部屋の扉の方へ歩いていきながら両親を振り向く。
「じゃあぼく、行って来ますね」
「気をつけてね」
と、フォイエルバッハ氏が声をかけた。
カスパールは扉を開きながら振り返り、両親に向かって嬉しそうに微笑む。
「はい!」
カスパールは今日からニューラグーン大学付属中等部に編入する。
今日はその初日なのだ。
彼は少し緊張した面持ちで廊下を歩いていたが、すれ違う他の生徒達は彼を見かけると笑顔で会釈してくれる。そのたびに、カスパールは少し戸惑いながらも小さく微笑みを返す。すると彼らは嬉しそうに顔をほころばせるのだ。カスパールも何だか嬉しくなる。自然と心が温まるのを感じた。
「おはよう」
不意に後ろから声をかけられて、彼は反射的に振り返る。そこには同じくらいの年頃の少年。カスパールよりも背が高い。黒髪で頭には耳付きの証である猫耳、蒼い瞳を持つ整った顔立ちをしている。
「あ……」
カスパールが戸惑っていると、少年は右手を差し出して自己紹介をした。
「はじめまして、おれグスタフってんだ」
どうやら彼が先ほど声をかけてきたのはこの少年らしい。そこでようやく納得してカスパールも手を差し出した。
「ぼくの名前は……えっと」
答えようとした時に口ごもる彼を遮って言った。
「よろしくね」
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