第22話

熱い、そして、暑い。

 七月中旬過ぎの炎天下の中、釜戸の側でのなれない作業は、かなり堪える。

 穴の開いた細く長い鉄の棒を、先の方だけ釜に入れて、出して、回しながらゆっくりと息を吐く。この一見単純な作業は、回を重ねるごとに辛く、難しくなってくる。そもそも、これが簡単にできてしまうようならば、僕がわざわざこれを学ぶ理由は薄くなり、なにより伝統芸と呼ばれないだろう。一朝一夕では不可能な極みが、何代にも渡って受け継がれる『業』なのだと思う。それは、何も知らない素人が、決して安易に踏み込んではいけない崇高な世界なのだ。

 しかし、それを承知で、僕はこの度ここに来た。

 伊瀬の説教がなかったら、そのうち、真帆を悲しませるような態度をとっていた可能性も、僅かだがある。僕はそれが、許せなかった。

『真帆を悲しませるやつは許さない』

 その対象に、危うく(かどうかは微妙だが)なりかけた。となれば、自分なりに償わなければならない。だからこそ、少しばかり苦労をするため、ここへやってきたのだ。

 息を一定の強さで吹きながら、回して、回して、形を整える。強すぎず、弱すぎず。回して、回して……失敗。形が歪んでしまった。

 隣で仕事をしつつ僕の様子を見てくれている先生は、その失敗を見て一言、二言助言してくれた。僕はそれを真剣に聞いて、先生の技術を見て覚える。

 もう一回。

鉄棒の先に硝子をつけて、釜の中へ。出して、回しながら膨らませて、形を整える。さっきよりは、まともな形だ。神経を集中して、硝子の部分を切り取る。

 カシャン。

 軽快な破砕音とともに、砕け散る力作。

 先生はため息をつきながら、眉間にしわを寄せた。先生―つまり、四十代後半のこの男性は、常に難しい表情であるため、今こうしてこちらを見ているのも、睨んでいるわけではないことを、昨日知った。どんなに険しい表情に見えても、怒っているのではない。

「もう少しだ。気を抜くな」

 先生は渋く深みのある声で、そう呟く。

 僕はしっかりと返事をして、再び作業に取り組む。

 本当に、かなり暑い。



この十六日間、僕は真帆に会わず、連絡も取らずにいた。もちろん、そのことは予め伊瀬から真帆に伝えてもらってある。

一週間の短期アルバイトで資金を稼ぎ、残りの時間は真帆にプレゼントするものを造るため、超短期間の弟子入りをしていた。プレゼントの方は、本来はもっと短い時間で完成させるつもりでいたが、案外僕の不得意分野だったようで、予定よりも数日多く掛かってしまった。でも、なんとか間に合ってよかったと思う。

僕は、心を弾ませながら真帆の家へと急いでいた。現在一人暮らしをしているアパートと真帆の家までは、けっこう遠い。真帆が生きているならば、わざわざ離れたところにアパートを借りる必要はなかった。そんなことを言っても、当時は真帆を連想させるすべてのものから遠ざかりたくてそうしたのだから、仕方ない。

誰も、彼女が生き返るなんて思いもしなかったのだから。

極軽く、そんなことを考える。

でも、彼女の家から離れたところで一人暮らしということは、そのうち彼女を部屋に誘って、そのまま……というときには、都合がいい。なんて、時には本能に忠実な構想を練ってみたりもする。まぁ、彼女が合意して、僕の覚悟が決まれば、の話であるが。いや、ほとんど前者が問題だろうな。

僕は邪な思いを抱きつつも、電車を降りて、駅を出る。ここからは、非常に慣れ親しんだ風景に歓迎される。どこもかしこも知っている建物だ。

足取りが重くならざるを得なかったこの道も、以前のように明るい気分で軽快に進める。あと二つ十字路を越して、そこを曲がればすぐに着く。つい三週間前に、真帆のお父さんに呼び出された時の気持ちとはえらい違いだ。

僕は手に持っている小さな紙袋を覗き込んで、そこからは見えもしない中身を確認する。身だしなみを一応見直して、一息ついた。今日は朝早くから目が覚めてしまい、約束の時間までなにをして良いやら分からずに、落ち着かない午前を過ごした。初めてデートをする中学生じゃあるまいし、もう少し余裕を持ちたいものだが、これはどうやら性格のようなのでどうしようもない。夏日だというのに、とりあえず朝から腹筋を鍛えて、まだ時間があったので腕立て伏せもして、それからシャワーを浴びて髪を整えた。着ていく服を少し悩んだが、そもそも悩むほどバリエーションはなかった。そうこうして、やっと現在に至る。もしも、内容を知って一部始終を見ている人間が居たら、さぞかし滑稽に思えただろう。

僕がチャイムを鳴らすと、縁側のある方から真帆の声聞こえてきた。

「あ、巧ちゃん」

 パタパタと小走りしてきた彼女が、僕の姿を確認して声を上げた。

 白地に、パステルブルーがスプレー状に散りばめられた、ノースリーブのワンピースが、涼しげで夏らしい。

「よ、半月くらいぶり」

 僕は軽く手をあげて言った。

「もう、薫から伝言だけ伝わってきて、本当に連絡取れないんだもん。心配したのよ」

「ごめん。でも、俺、苦労したかったから」

 僕の言う言葉に、真帆は首を傾げる。その丸く開いた大きな瞳が、すごく久しぶりに感じられて、胸が熱くなる。

「どうしても、やりたいことがあってな。修行も兼ねて」

 彼女は「ふぅん」と頷いて、

「こっちから入って。今、水撒きをしていたの」

 くるりとワンピースの裾を翻して、僕を庭へ招き入れた。

 庭の草木には、水滴が浴びせられており、それが太陽の光を反射して何色にも輝いて見える。床土には黒いしみが広がり、向うには蛇口とつながったホースが投げ出されていた。

 なんとなく無言のまま、僕たちは縁側に座る。

 真帆は深く座って、足をぷらぷらとさせていた。

「巧ちゃん、大丈夫?」

 突然聞かれて、僕は何のことかと思う。

「半年間のこと。私が死んで、すごく悲しんでくれてたって言ってたから。その、ショックは、もう大丈夫なのかなって、思ったの。なんか、変な気分だね。私が死んだショックを受けた巧ちゃんの心配を、私自身がしているなんて」

 よく聞いていた僕も、少し混乱しそうな話だが、なんとか理解する。

「大丈夫も何も、だって、真帆は戻ってきたんだもん。そりゃあ、死んだと思っていた半年間は、本当に辛かったよ。世界が、終わったようだった。全部が色あせて見えて、悲しみ以外の感情をほとんど感じなかった。だから、生きているって聞いたときは、最初、何言っているか判らなかったよ。まさか、真帆にもう一度会えるなんて、思わなかったから」

 僕が言うと、彼女は耳元の髪を整えるように掻き揚げて少し下を向いた。

「私、分かるんだ。そのときの、巧ちゃんの気持ち。どうしてかわからないけど、よく伝わってきたの。眠っている間にね。巧ちゃんが悲しんでいるのに、私は何もできなくて、悔しかった。すぐにでも側にいって、抱きしめて慰めてあげたいのに、どうすることもできなくて……。それが可哀想で、悲しくて。そんな夢をずっと見ていたの。きっと、それは現実だったのね」

 彼女はうっすらと涙を浮かべて「ごめん」と言った。

 本当に、伝わっていたのだと思う。同調というやつであろうか。

「いいさ。現に、真帆はちゃんと戻ってきてくれたろ?それで、全部ちゃらだ。俺は、それで十分さ」

 そう、この気持ちだけで十分だ。

「うん。でも、ずっと気になっていてね。それと、実際に私、死んじゃったから、巧ちゃんは内心怒っているんじゃないかって思って。怒ってない?」

 裾をいじりながら、モジモジとして言う彼女は、その細身で整ったシルエットと正反対なほど幼くて、僕は思わず顔を緩める。

「怒ってなんてないよ。真帆は悪いことなんて何もしてないんだから、怒るわけないだろ?むしろ、生き返ってくれて感謝している」

 そう言っていて、気持ちが暖かくなる。しばらく感じていなかった感覚だ。ふわふわの綿を触っているような、心地よい気持ち。

 真帆がこちらを向いたので、笑って頷いてやる。

「まあ、だから、この話はこれでおしまい。それで、俺は修行に出て何をしていたかというと、これだ」

僕は空気を明るく変えて、持っていた紙袋からリボンのついた木箱を取り出した。一辺が、七、八センチの桐の立方体だ。

「ハッピーバースデー真帆」

 僕が渡すと、真帆は不意をつかれたように驚いたあと、嬉しそうに目を細めた。

 今日は真帆の誕生日だ。そのために、僕は弟子入りしたのだ。今回のミッションは、本当に難しかった。

 真帆は、いつかのように「開けていい?」と聞く。

 それに頷いて答えて、僕は真帆の反応をしっかりと見届ける。

 木箱の蓋が開けられて、ゆっくりと中身を取り出された。

「きれい……これ、巧ちゃんが作ったんでしょ?すごい……」

 ポゥッと見とれながら、真帆は呟いた。

 それは、風鈴だった。真帆の手に納まるような小さな風鈴。うすい蒼の硝子に、デフォルメ化された親子ペンギンが描かれたものだ。ペンギンの着いたグッズを集めるのは、真帆の密かな趣味であるのを僕は知っていた。それでも、なかなかないものにしたくて、考えついたのが、風鈴だった。売っている風鈴に絵柄をつけるという手もあったが、それでは僕のペナルティがあまりに無さ過ぎる。そこで、風鈴職人の先生にどうしても、と頼みこんで、何日もかけて作り方を教えてもらったのだ。しかし、思っていた以上に困難で、完成したこの作品も、よく見ると歪んでいる。これが、自分の限界であり、素人の限界だと、先生も言っていた。

「なかなか上手にいかなくて、それが精一杯だった。一応、作品にはなっていると思うけど……」

「すごくうれしい。ありがとう」

 真帆は言って、歓喜のため息をついた。

 立ち上がり、風鈴を吊るす。

 チリン―。

 涼しげな音が小さく響く。

 真帆は無邪気な顔で嬉しそうに微笑む。そして、すぐにはずしてしまった。

「どうした?」

「部屋に飾るの。ここじゃ、落ちて割れちゃったりしたら、困るもの」

 大事そうに両手で包み、再び縁側に座って眺める。

 僕は、その真帆の様子を見て、心底良かったと思う。彼女は、僕を喜ばせる天才だ。彼女の仕草すべてが、僕をこんなにも幸せにするのだ。

 クローンかどうかなど、くだらない問題だ。いや、問題というにも値しない。この世界に、一人の麻生真帆が居る。それで十分だ。僕は彼女を愛していて、きっと彼女も、僕を愛してくれている。それ以外に、なにが必要なのだろう。

 彼女はもう、不治の病には侵されていない。真帆は持病で苦しまない。そんな都合の良い願いまで叶ったのだ。

 奇跡。

 全てを理解し、納得するにはその一言で事足りる。それ以上の説明を、僕らは求めていない。必要ないのだ。

「巧ちゃん、ありがとう」

 真帆は風鈴を木箱に仕舞い込み、もう一度僕にそう言った。

 そして、ニッコリと笑う。そう、僕の大好きな笑顔だ。独り占めしたい、真帆の笑顔。

 彼女は、僅かな間を詰め寄ってきて、ゆっくりと僕の頬にキスをした。微かに触れる髪の毛がくすぐったい。

「やっぱり、ちょっと子供っぽいかな、こういうの」

 恥ずかしそうに、真帆は言う。お礼に、頬にキス。いいじゃないか。僕は好きだ。

「俺は、嬉しいけどな」

 穏やかな風が吹いた。彼女の長い髪が揺れて、いい匂いがする。

「最近、巧ちゃんと会えない時間が増えたでしょう?今までこんなことなかったから、時々寂しくなっちゃうことがあるの。不安になって、大学の友達に綺麗な娘がいたら、とか、巧ちゃんが他の娘を好きになっちゃったら、とか、どうしようもないことまで考えちゃう」

 そこまで聞いて、僕の胸はキュウッと締め付けられた。

 思えば、彼女を一人にしたことなど一度もなかった。高校生だったので、毎日のように顔を合わせていたし、長期休校の間もお互いの生活状況を予測するのは容易だった。しかし、今は少し違う。僕は大学に通い、一人暮らしをしている。真帆の生活している近辺からいくらか離れた場所で、真帆の知りえない僕の生活がある。

 一方彼女は、一年遅れの受験生ということもあって、予備校や図書館といった、社会生活の場として成立しにくい所で生きている。僕も短期講習を受けたことがあるが、予備校は決してそういう雰囲気の所ではない。伊瀬と僕以外の人間関係が希薄しているのも、彼女の置かれていた状態を考えると、仕方のないことである。そうなると、真帆は、その孤立感に寂しさを感じている部分も大きいはずだ。半年間の空白の影響は、こういうところにも出てきていると、初めて気付く。

「真帆」

 僕がそう呼んで、真帆がこちらを見る。真帆の不安は、僕が拭い去る。それがどんなに困難でも、振り払ってみせる。ずっと、心に決めていることだ。真帆の憂いを撲滅できるような言葉を探す。が、出てこない。

「それで、そんな時にね、『あ、私、こんなに巧ちゃんのこと好きなんだ』って、改めて気付くの。巧ちゃんがいないと、駄目なんだって」

 そう言った彼女が、恥ずかしいような、嬉しいような、くすぐったい表情であるのを見て、僕は思考をゼロにする。真帆は不安を口しているのではなく、なんというか、僕に気持ちを伝えようとしているのだ。早とちりして、余計なことを言わなくて良かった。せっかくの、貴重な真帆の愛の言葉が聞けなくなるところだった。

 黙って、彼女の柔らかで大きな瞳を覗く。

 僕たちは近距離で見つめあった。

 照れているような表情がすうっとひいていって、その整った愛らしい顔がより一層近付いてきた。

 真帆は切なそうに眉を寄せて、片手を僕の頬に添える。何かを言おうとしているのか、開きかけている唇が凄く色っぽい。彼女の瞳には、僕が映っていた。

「あなたの瞳には、いつも私を映しておきたい。ずっと、私だけの巧ちゃんでいてほしい……」

 こんなに艶やかな表情の彼女は、初めて見た。なんて、綺麗なのだろう。さっきの幼さは何処かへ消えている。反則だと思った。こんな顔をされたら、落ちない男はいない。

 僕は応えるように、彼女を抱きしめた。潰れてしまうほど強く。

「あっ……」

 途端に、真帆から小さくしぼられたようなため息が出る。

 今までのどの瞬間よりも激しく、彼女を欲しいと思った。

 僕の胸に体重を預けてくる。両腕の力を少しだけ抜いて、僕は形の良い彼女の耳に軽くキスをした。彼女はぴくっとして、おずおずと僕を見上げた。

 腕の中の愛しい人に、僕は言った。

「どんなことがあっても、俺は真帆を愛している」

 この想いは、尊く、強い。

 それが、唯一絶対の真実だった。


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