第21話

「ここ数日の安曇、変よ。どうしたの?」

 大学の庭園の中心、植物に囲まれたベンチに座っていた僕に、いつものように後から顔を出した伊瀬薫が不服そうに言った。

「そうか?別に普通だと思うけど」

 僕は誤魔化した。実は真帆がクローンだったことで色々考えている、なんて、言えるわけがない。

「普通に見えないから、言っているんでしょう。大学にいる時は特にね。このベンチに座って考え事している時点で、普通じゃないのよ、安曇は。真帆となんかあった?あの子は何にも言ってなかったけど……」

 僕が答えずにいると、伊瀬は僕の正面まで来て覗き込んだ。

 半年間僕をじっくりと観察していただけに、鋭く分析されている。大学構内だからと気を抜いていたことを少し悔やんだ。

「まあ、安曇が悩むのは、九十九パーセント真帆のことだから、きっとあの子のことよね」

 僕は目だけを合わせて、やはり何も言わなかった。

「まさか、ほ、他に好きな娘ができたとかじゃ……」

 勘違いしている彼女に、僕はやっと口を開く。

「違うよ。真帆以外に好きになんかならないよ。そうじゃないんだ」

 そう、真帆以外は好きにならない。今の真帆は、『真帆』だろうか、それとも、『真帆以外』だろうか。

 彼女がクローンであることを知ってから、数日が経過した。僕の頭は、未だに何をどうしていいのか迷っていた。クローン告白は、素直にショックを受けた。何にショックを受けているのかは、よく分からない。僕が近頃、明確でない何かに悩んだり、苦しんだりすることが多いのは、あまりに急激な状況変化のせいなのか、はたまた、彼女を失った時の心の傷の影響なのか、これもまた分からない。随分と優柔不断な悲観主義者になったものだ。

 真帆とは、いつも通りに会っている。つい昨日も一緒に図書館に行った。彼女は来年、一年遅れで大学を受験することにしたので、そのための勉強を少しずつ始めている。僕はそれに付き合ってやるつもりだ。変わらずに、真帆過ごす時間は楽しいし、僕にとって幸せな時間だ。ただ、ふと彼女がクローンだと考えた時、彼女を想う愛しい気持ちに、常識や正論などといった生真面目な認識が、足を掛けて転ばそうとする。感情と理性のバランスがうまくいってないに違いない。おまけに、結論を出せない弱い意志。最近の僕は自己嫌悪の回数も増えた。

 目を上げると、伊瀬の不機嫌そうな顔が見える。後方からの陽射しで、輪郭が光っている。あと二日で夏季休講に入るという今日は、気持ちいいほどの快晴だ。太陽の光が木々の葉に反射して、半透明な緑色にきらめく。他よりも幾分酸素の多いはずのこの場所の空気も、今の僕にはさして吸いやすくは感じない。

 伊瀬は、何も気付いてはいないのだろうか。きっと、クローンであることは知らないと思うが、何かしら感じるものはあるのではないだろうか。

「なあ、伊瀬は、真帆を見て何も感じないか?」

「感じるって、何を」

 そう聞き返す伊瀬。聞かれると、困る。僕には答えようがない。

「いや、何も感じないならいい」

「何よ。じれったいわね。真帆がどうしたって言うの。なんであっても、あの子は真帆よ。それでいいじゃない」

 急に声を荒立てて言う。

 伊瀬の言っていることは変だ。『なんであっても、あの子は真帆』?僕はそんなこと、一言も言っていない。

「お前、そのこと知っているのか?」

 僕は聞くと、伊瀬は自分の失言に気付いたようで、気まずそうに口を噤む。目を逸らして黙り込んでしまった。この様子だと、彼女も真実を知っているようだ。

「どこで、気付いた?」

「……この前、ショッピングした時に水着を選んだの。その時、真帆の体に移植手術の痕がどこにもなくてね。おかしいなって思って、その後で真帆のお母さんに聞いてみたら、教えてくれたわ」

 普段よりも早口で彼女は言った。

「真帆のお父さんの研究内容は知っていたしね。後はもしかするとっていう勘よ」

 そこまで言うと、そっぽを向いたまま、再び沈黙する。

 結局、二人とも気付いたのだ。それもそのはず、両親を除けば、最も真帆の近くにいたのは僕たちだ。些細な違和感も、見逃す可能性は低い。

 しかし、現在の麻生真帆が世界で初のクローン人間であることは、両親と僕と伊瀬の四人しか知らない。半年間、僕らは他言をしていないので、その他大勢は、真帆の死すら知らないだろう。ならば、真帆の両親の考えた作り話は、何よりも信憑性の高い『真実』となる。それで辻褄は合うのだ。

「そのことで、少し考えてたんだ。今の真帆って、最初に死んだ真帆の魂とは違うものだろ?そこが、気になってさ。悩んでたんだ」

 僕は正直な気持ちを言った。そして、伊瀬の思っていることも、聞いてみたかった。クローンだと知った伊瀬の気持ちは、どうなのか。僕とは違うのか、それとも、同じなのか。単純に聞きたかったのだと思う。それを聞いて、少しでもこの解けない悩みを答えへと導くヒントになり得たらと考えていた。

「真帆がクローンだから、何だっていうの」

 聞き取れないくらいの小さな声だった。

 僕が伊瀬を見ると、彼女はパッと顔を上げて、

「真帆がクローンだったら、なんなのよ。あの時死んだ真帆と違うから、なんなのよ!中身も外見も、どこ一つとして変わらない、あたしたちの知っている真帆よ?安曇の言うように、確かに、魂は違うかもしれないわ。けどそれで、何が変わるわけ?あたしはまた真帆と遊べるのが嬉しい。一緒にいられるが嬉しい。安曇は、違うの?嬉しくないの?それとも何?今の真帆はクローンだから、本物じゃないから愛せないっていうの?」

 途中からは、涙声だった。構内に人はほんどいないが、それでも周りに聞こえないよう、気を付けている音量だった。しかし、その口調からは、怒鳴られているにも匹敵する重さがある。

 僕が真帆を愛せない?

 そんなことはあり得ない。真帆は大切な人だ。

 嬉しいのは、真帆が笑うこと。悲しいのは、真帆が悲しむこと。

 彼女を想う気持ちは、変わっていない。むしろ、死ぬ前より大きくなっている。今の真帆がどうとか、そんなこと、これっぽっちも思っていない。ただ、その……なんなのだろう。

「安曇は、真帆がどれだけあんたを好きか分かっていない。あの子は照れ屋だし優しいから、そういう心の奥底にある思いや、相手が聞いて重荷になるようなことを進んで言うタイプじゃないわ。でも、安曇が思っている以上に、真帆は安曇を必要としているのよ。だって、死ぬ前の真帆だもん。本人だもん。それなのに、今更、意味も分からず安曇が拒絶するような態度取ったら、あの子は……」

 痛かった。細くも鋭く、強靭な刃で胸を貫く。伊瀬の言葉は、僕の愚かさを浮き彫りにした。僕はどうかしていたのだ。こんな大事で単純なことを、伊瀬に言われるまで気付かないなんて。真帆が目覚めたどころの話ではない。目が覚めていなかったのは、僕の方ではないか。僕は、事実を知った自分のことしか考えていなかった。クローンだとか、魂だとかいう以前に、彼女は真帆なのだ。そして、彼女が真帆である以上、僕が抱く気持ちは一つ。誰よりも愛しているということだ。その他の面倒くさいことなど、今までだって見向きもせずにやってきた。今更、何を気にすることがあるのだろう。あるはずがない。

 しばらくかかりっぱなしだった霧が一気に晴れた気分だ。

 しかし、そんな僕の内心など分かるはずもなく、

「付き合う時に言ったはずよ。真帆を悲しませたら、あたしが許さないって」

 唇を噛み締めて、僕をキッと睨む。

 不謹慎だが、伊瀬は本当にいい娘だと思った。さすが、真帆の親友だ。僕は素直に尊敬してしまった。伊瀬は同性の親友として、僕とはまた違った視点で真帆を愛しているのだ。だから、僕の気付かないことに気付いていたのだと思う。僕は伊瀬に、助けられたと思った。

「当たり前だ」

 僕が言うと、怖い顔をしていた伊瀬が、不可解そうに表情を緩める。

「真帆を悲しませるやつは、伊瀬より先に俺がぶっ飛ばす。それが、誰であっても。例え、自分であってもな」

 僕は伊瀬の目を見据えて言った。迷いのない言葉だった。何か、本来の自分を取り戻したような感覚がある。

「安曇……」

「俺は血迷っていたらしい。すまないな、伊瀬。助かったよ」

 伊瀬は僕を見たまま、キョトンとしている。

 きっと、僕の表情はさっぱりしていたと思う。それほどに、僕の気分はカラッと晴れていた。もう、少しの曇りも、陰りもない。そうなると、次に何をするべきことが、はっきりと見えた。

 僕は伊瀬に、真帆への伝言を頼むと、早々に校門に向かう。

 その途中で、腕時計を見る。しかし、見たのは時間ではなく、日付の方だった。

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