第18話

 救われる気持ちというものが明確にあるなら、きっと、あの時の心境を言うのだと思う。

 完全なる絶望に、光の亀裂が入り、徐々に闇を照らす。影は消え去り、全てが浄化されていく感覚。触れれば激痛を伴っていた傷は、魔法のようになくなっていった。僕の全ては救われたように思える。

 僕と伊瀬は、面会時間が来るのを待ちきれなかった。大学は午前からの講義があったが、全く頭から消えていた。それどころではない。一刻も早く、真実を確かめたい。彼女に会いたい。生きている姿が見たい。

 巨大な期待と同等の不安を抱いて、僕たちは病棟に足を踏み入れた。

 久しぶりの病院の廊下を進み、目的の病室にたどり着く。

 恐る恐るドアをノックすると、半年振りの声が聞こえてきた。実際、心のどこかで半信半疑だった。ドアを開けて、その姿を見るまでは。

 上体をベッドの上に起こして微笑んでいたのは、僕が何よりも望んだ少女の姿だった。

 一緒に入った伊瀬は、駆け寄って真帆に抱きついた。ひたすらに彼女の名前と「よかった」を連呼して、わんわんと泣いていた。

 当の真帆は、少し驚きながらも、泣き崩れる親友をしっかりと抱きしめる。

 僕も近づいて、一度は失ったと思った少女をじっと見つめた。彼女も伊瀬をなだめながら、僕を見つめてくる。

 間違いなく彼女だった。優しくて大きな瞳。控えめな唇。整った鼻筋と、白い頬。愛くるしい顔立ち。僕の恋焦がれた人。麻生真帆だ。

 急激に込み上げる嬉しさと、悲しさと、その他色々な感情がごちゃ混ぜになって、僕は腰が抜けそうな感覚になる。言いたいことがありすぎて、言葉や思考が対応できなくなる。

 僕はやっとのことで、一番口にしたかった単語を言う。

「真帆」

 それを聞いて彼女は、あの笑顔を見せてくれた。僕の大好きな笑顔。僕を無条件で幸せにする笑顔。そして、僕は耳にしたのだ。二度と聞けないと思っていたそれを。

「巧ちゃん」

 途端に、何かが頬をつたう。涙だった。流れ落ちるまで、気付かなかった。

「会いたかった……」

 僕は泣き止み始めた伊瀬が少し離れたのを合図に、真帆を抱きしめた。腕に残っていた、懐かしい感覚と合致する。

「真帆、本当に会いたかった……。よかった。本当に……よかった」

「ごめんね。巧ちゃん。私、寝坊しすぎだよね。ずっと、寂しい夢を見てた」

 真帆らしいことを言う。そういえば、心停止する直前に、彼女は「眠くなった」と言ったんだっけ。

「俺は起こしたんだぞ。おはようのキスして……」

 呆れたように言ったつもりが、涙声になってうまくいかなかった。大きく息を吸うと、真帆の匂いがした。本物だ。本当に生き返ったのだ。

「うん。ごめんね。本当にごめん」

「謝るな。ただの寝坊だ」

「真帆らしいけどね」

 伊瀬も頬を拭って言う。

 いつしか、真帆も泣いていた。

 三人で泣きながらも笑っていた。自然と口元が笑みの形になるのを、拒めなかった。

 まだ目覚めて間もないので、数十分しか話せなかったが、それでも僕らには十分だ。また明日来ることを告げて、病室を後にする。

 こんな嬉しい奇跡があるとは、未だに信じられない。僕は感謝した。彼女を救ってくれた何かに。神や仏を疑った自分を、僕は恥じた。世界には救いが確かに存在したのだ。

「よかったね。本当に真帆が。うん、よかった」

 少し前を歩く伊瀬は、軽快な足取りで言う。実際には僕もスキップしたい気分だ。

「奇跡って、あるんだな。まるで、作った物語みたいだ」

 僕は何気に言って、違和感を持った。それが何故なのかは見当がつかない。しかし、すぐにそんな疑問は何処かへ消えてなくなった。

 真帆が生きていた。僕にはそれだけで十分過ぎる。



「う~ん」

 この前と同じ喫茶店で、同じく図書館で借りてきた、さして読みたくもない本に仕方なく目を通している。単なる暇つぶしである。

「う~ん」

 呻いているのは、別に本の内容が解りづらいと言うわけではなく、全く別のことを考えてのことだ。

 僕には、物事を妙に追求するくせがある。普段は、大して細かく考えて生きているつもりはないが、気になったことや疑問に思ったことなどは、深く考えて結論を出したがるのだ。面倒なことが好きではない割に、変な所で面倒くさい自分の性格が、少し気だるく感じられる。

 今、首を傾げて唸っている原因も実はそれだった。

 些細な違和感。

 それは、真帆の生きている姿を確認した日に感じたものだ。真帆になのか、病院になのか、分からない。伊瀬や僕にということはないと思うが、それも確証が得られない。何と言っても、何がどう違和感なのか不明なのだから。次の日に病院へ行ったときも、薄れてはいたが、あった。何か、変な感じ。どちらかというと、直感みたいな……。

 僕は冷めかけのコーヒーを飲みながら、また唸る。

 真帆はもうすっかり回復して、退院した。あれから一週間と経たないうちの出来事だった。

 今日はもう少し後に、この店に伊瀬と二人で来ることになっている。今はまだ、女同士のたいして買うことなく見て歩く、特有の『お買い物』の最中だろう。

 真帆が回復してから、伊瀬は空白の半年間を埋めるように、真帆を連れ回して遊んでいる。伊瀬のことだから、無理はさせないにしても、真帆の体調は気になるところだ。しかし、真帆のお父さんに聞いたところ、どういうわけか、健康体に近い状態だという。これも奇跡だろうか。このまま、真帆の不治の病が消えてしまえば、もう何も怖くはない。心配はない。そんな風に思うのは、都合が良過ぎるかもしれないが、悪いことが続くように、良いことも続くものだ。一概には言えない。僕たちは何よりそれを望んでいる。

 それにしても、よく一日以上も心臓が止まって、死亡診断されたのに、再度動き始めたものだと感心する。しかも、脳には一切の後遺症が見られないなんて、本当に人外の力が働いているとしか思えない。医療には詳しくないが、それがどれ程不可能で、あり得ないことかは僕にも分かる。もしかすると、そんな奇跡的な一連の出来事が、違和感の原因かも知れない。

「う~ん。でもなんか、引っかかるな」

 僕は呟く。真帆を失ってショックを受けていた頃のくせで、考えたことを一人ごつ。

 腕時計を眺めると、まだ午後三時を十分過ぎた頃だ。時間は、かなり大まかにしか約束しなかったのだが、決めておいた方が良かっただろうか。

 本も粗方目を通し終えて、暇になる。ちなみに、今日の本のタイトルは『団子虫進化論』だ。

 ふと考えて、にんまりとする。傍から見たら怪しく思われるので、気をつけてはいるが、たまにやってしまう。先日真帆が生き返って(詳細をいうと、生き返ってから半年後に目を覚ましたわけだが)からというもの、僕は時々急激に、彼女が生きていた幸せを噛み締めて、にやけてしまうのだ。

実際問題、僕の認識としては、『死んだ恋人が生き返った』という、何ともファンタスティックな体験にしか思えないのだから、非常に貴重な体験をしたといえる。真帆と僕の絆は、死でさえ別つことはできないのだ、なんて、自惚れてみたりする。だって、そうじゃないか。最近の僕は浮かれていると、自分でも思う。

「あ、いたいた」

 後ろから声がしたので、僕は入り口の方を見ると、デパートやらブティックやらの紙袋を二、三個ずつ持っている二人の少女がいた。あの二人には、少女という言葉が似合う。子供っぽいという意味ではなく、無邪気で可愛らしいという意味だ。

「やっほ。遅くなってごめんね。けっこう待ってた?」

 僕の向かいに二人で座り、真帆が言う。

「いいのよ。安曇は、真帆を待っているなら何時間でも苦じゃないんだものね」

 僕より先に伊瀬が答える。図星なだけに、何も言えない。

「どうだった?半年ぶりのシャバの空気は」

「そうね。牢獄と違って、自由でいいわ……って、私、捕まってないよぅ」

「体は大丈夫か?」

「うん。意識不明が嘘みたい。前より元気になった感じかな」

「無理するなよ」

 本当に無理はしないで欲しい。もう二度とあのときのような思いはしたくない。そんな意味が自然と言葉に込められる。

「まあ、あたしが付いていて無理はさせてないわよ」

 伊瀬は言う。

「それはそうだけどさ」

 分かっている。伊瀬だって僕と同じく悲しんだ人間だ。

「ところで、どうして集合したんだっけ?」

 通りかかったウェイトレスを呼び止めて、伊瀬は真帆と自分の注文を告げてから、僕に言った。

 即答はできず、少し考える。

 休日に僕がここに来るのはパターン化していることだし、真帆と伊瀬が出掛けるならば、帰り際にでも寄れば僕はいるから、と言っただけなので、目的などない。

「これと言ってないけど、あえて理由をつけるなら、『俺のゴチで何かを飲み食いするため』とでもするか」

 僕は言った。たまには無意味に驕ってもいいだろう。そんな気分だった。

「ホント? ラッキー」

「じゃあ、抹茶白玉アイスも頼んじゃおうかな」

 真帆は早速メニューを持ち出して考え込んでいる。

「まあ、食える量なら何頼んでもいいぞ」

 アルバイトはしていないが、大学合格時に伴う臨時収入をそのまま残してあるので、余裕はある。なにしろ、この六ヶ月間は人としてまともな欲求がなかったため、必要最低限以上の支出は出ていないのである。

「フルーツ杏仁頼んでいい?」

 伊瀬の問いかけに「なんでもいいよ」と答える。

 一方、

「う~ん、どっちがいいかな」

 抹茶白玉アイスにするか、マロン白玉アイスにするかを真剣に悩んでいる真帆。小さな顎の下に拳当てて、首を傾げている様子は、実年齢より子供っぽく見える。可愛いな、と思いつつ、その元気な表情にほっとする。長い間、あの観覧車で見た、痩せこけて弱々しくなった彼女のイメージに支配されていたので、今目の前にいるにこやかで明るい彼女を見ると、自分が悲しい呪縛から解き放たれたことを実感できて嬉しい。

(ん?)

 ふと、違和感。

 何だろう。まただ。このほんの僅かにずれている感じ。

 こんな所で?これはいったい……。

「どうしたの?」

 真帆が僕を見て聞いた。

「いや、なんでもない。で、どっちになった?」

「ううん。まだ決まってない」

 おいおい。そんなに悩むことか。僕はため息をついて、

「分かった、じゃあ、真帆は抹茶のやつを頼め、俺がマロンを注文する。それで半分ずつ食えばいいだろ?」

 手っ取り早い打開策を出した。

「えっ、いいの?」

「ああ。別に甘いもの嫌いじゃないしな」

 甘やかしだが、仕方ない。半年振りだ、しばらくはそれでいい。

「ふふ、よかったね」

 幸せそうに微笑む真帆に、伊瀬が言った。

 復活した真帆は、低年齢化していないか?とか、思ったりもするが、もともとこうだった感も否めない。

 戻ってきた日常だ。

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