第17話
真帆を失ってからの記憶は、実に曖昧なものだった。
通夜に出たのは覚えている。
しかし、そこからが分からない。覚えているのは、ずっと部屋に閉じこもって、暗い闇の中で泣いていたことだけだ。実際それしかしていなかったのかもしれない。母の話によると、一週間ろくに食事も取らず、ただ部屋の隅に向かってぶつぶつと何かを言っていたらしい。そして、ある日突然、覚醒したかのように机に向かい、受験勉強を始めたのだという。朝から晩まで、見ている両親が怖くなるほど、僕は勉強していたのだそうだ。そのおかげで、僕は無事大学に合格したのだが、自分にはあまり記憶がない。
大学に入って一ヶ月後、僕は一人暮らしを始めた。精神状態の安定しない僕を親は心配したが、よく話し合った結果、許可された。
僕は独りになりたかった。誰かに気遣われるのも、誰かを気遣うのも嫌だったのだ。ただ独りで、何も考えずにいたかった。
僕の自宅には、自宅の周辺には、あまりにも真帆の匂いが在り過ぎた。真帆が三回だけ入ったことのある僕の部屋。よく話したリビング。よく立ち寄った喫茶店、商店街。一緒に歩いた狭い路地。遠目に見える高校。病院の看板。それらから、自分を引き離したかった。
どうしてこうなってしまったのだろうなどと、明らかに結論の出ない疑問を胸に抱いては、それをしぶしぶ飲み込む。彼女が死んだことで、全てが壊れてしまった。あの半年前までの日々が嘘のようだ。真帆と過ごした二年半。町田や明、伊瀬、そして真帆。みんなで色々やって、盛り上がって、すごく楽しかった。毎日が宝石のように輝いていた。けれど、もう、あの頃には戻れない。
僕は今、大学に入ってから見つけた喫茶店で、読みたくもない本を眺めている。大学の図書館から借りてきた本だが、別に読みたい本ではなかった。題名は、『平均値論が世界を救う』だそうだ。活字を読むのが好きな僕は、こうして本の形をした何かを開いて、そこに書かれている文字を読んでさえいれば、それだけで気が安らぐのだ。
窓際のこの席は、いつも僕が座る場所で、どういうわけか大抵空いている。正面にもう一人座れる二人掛けの席なので、込んでいる時は極稀にではあるが、相席を頼まれることもある。それでも、広いテーブルなので気にはならない。
今日は、珍しくアイスミルクティーを頼んだ。生前はよく、真帆が頼んでいた飲み物だ。特に意識したわけではない。なんとなくである。
窓の外はまだ明るく、時折強くなる日差しが、ガラスに反射して眩しいくらいに光る。真帆はこういう景色が好きだった。そこに見える限定の光や輝きは、どんな宝石にも勝る美しさだといって、何よりも大切にしていた。彼女は形のないものが好きだったのだ。
いけない。
また、麻生真帆を思い出している。これでは、一歩も前には進めない。
僕の心は、どのくらい回復しているのだろうか。少しは回復に向かっているのだろうか。そうでなくては困る、と思う反面、いつまでも傷が癒えないことを望んでいる自分がいる。真帆を思い出しても胸が痛くなくなることは、彼女への裏切りであるように思えて嫌なのだ。そう、僕は彼女が死んだ今も、ずっと彼女を想い続けている。僕の時計は、半年前の観覧車の中で止まったきり、動いてはいない。
どれだけ多くの人に何を言われても、僕の心は癒えない。時は動かない。どこかでそれを確信しているだけに、僕には真帆の死を乗り越える気力が湧かない。堂々巡りの無意味な立ち直り『ごっこ』だ。
真帆のお母さんは、どうなっただろう。娘の死を受け入れられただろうか。
そういえば、真帆の家族とも葬儀以来会っていない。僕を見れば、真帆を思い出すから、合ってないのは当然だ。
そうは言っても、真帆の父親だけは一度、僕の様子を心配して訪ねてきてくれた。でもそれからは、何も連絡を取っていない。一周忌には、きちんと挨拶をしに行こうと思う。
僕は店内を見渡した。少し混んできたようだ。ため息をついて、本に目を戻す。特に今までの続きを探したりはしない。どうせ頭に入っていないし、内容も分かろうとして読んでいない。言ってしまえば、それを『読んでいる』と言えるかどうかさえ怪しいものだ。
『そもそも、この理論は、全ての事象に上限と下限を決定し、その平均を取ることで、それを自分の主観と比較するという、目的が容易であるところにその普遍性がある。そしてこれは……』
なんのこっちゃ、と思う。まあ、ここから読んでも分からないのは当然だ。
低い振動音と共に、ポケットが小刻みに震える。スマートフォンに着信のようだ。
取り出して液晶ディスプレイ画面を見て、僕はドキッとした。そこには、『真帆・自宅』の文字があった。スマートフォンのメモリーに関しては、特に消去したりはしていないので、そのままになっている。僕はとりあえず電話に出てみた。
「巧生君かい?久しぶりだね、私だ。真帆の父だ」
本当に久しぶりの声だった。
「こんにちは。こちらこそご無沙汰しております」
僕はそう答えた。
「今、時間はあるかい? 大事な話があるんだ。済まないが、家まで来てくれないか。今日が無理なら、明日でも構わない」
真剣な声が聞こえてくる。大事な話とはなんだろうか。想像もつかない。
僕は少し黙っていた。
正直言えば、真帆の家には行きたくない。しかし、そんな風には言えるはずがない。それに、わざわざ電話をしてきたということ自体にその重要性が窺える。
「いえ、大丈夫です。分かりました、これから伺います」
断る理由は見当たらない。だから僕は行くことにする。
真帆の家に行って、それで大丈夫なようなら少しは傷が癒えている。もし精神が不安定になれば、まだ僕は闇の底にいる。
後者の可能性が断然高いだけに、試す価値もないショック療法だが仕方ない。人は死を乗り越えて生きていかなくてはならないのだ。
僕の実家のある、あの地域。真帆と過ごした、あの町内。
大学の近くにあるこの喫茶店からは、少し距離がある。電車で四つほど駅を過ぎ、そこから五分ほど歩くと、見慣れた町並みが見えた。病院、学園、住宅街。
僕の離れたかった場所だ。
高校へと続く道を背にして、狭い路地に入る。四つ目の十字路を曲がると、随分とよく目にした風景が映る。
久しぶりに見る真帆の家は、何も変わっていなかった。家だけではない。路地も壁も、見える景色も、真帆の生きていた時のままだ。半年しか経っていないといえば当然だが、この辺を歩いたのはもっと前のことのように思えるので、懐かしさを感じる。
日は暮れ始めていた。茜色の夕日が、僕の羽織っている薄手のパーカーを染める。
僕は大きく息を一つ吐くと、意を決してチャイムを押した。
ドアが開くと、見慣れた、しかしいくらかやつれた温和な顔が出迎えてくれた。真帆の父だ。
「よく来てくれたね」
「こんちは。お久しぶりです」
頭を下げて、中へと進む。
僕の心臓が、嫌な鼓動を刻み始めた。僕は真帆のことを極力考えないようにした。
リビングのドアが開かれて、入る。僕はソファを見て、そこにいた先客に驚いた。
「伊瀬、なんでここに?」
僕は思わず言った。
「彼女も呼んだのだ。二人に話したいことがあるんだ」
テーブルを挟んで、対面式のソファ。僕は促され、そこに腰を下ろした。こちらに伊瀬と僕、向うは真帆の両親だ。
「何から、話すべきかな。ああ、最初に断っておくが、かなり衝撃的な内容だ」
ゆっくりと、真帆の父が切り出す。目の前に置いてある紅茶には、誰も手をつけようしない。
「なんでしょうか。一応、覚悟をして聞きます」
僕は答えた。何を聞いても、あまり驚かない。はずだ。
真帆の父親は、一度隣に座っている自分の妻を見て、僕たちに目を戻す。やがて、重々しい動作で言った。
「うん。じつは、真帆は生きている」
聞き間違えた。僕はそう思った。
「はい?」
聞き返したのは、伊瀬も同じだった。
「今なんて……?」
真帆の父親は、静かに瞬きをして、もう一度口を開く。
「真帆は生きている」
僕の耳がおかしくなったのだろうか。僕が眉を顰めて見つめたまま黙っていると、横での伊瀬が呟いた。
「どういう……ことですか?」
「黙っていて済まない。あの通夜の翌日。君たちには遠慮してもらった告別式の日にね、心臓が微弱に動き始めた。心停止からもうかなりの時間が過ぎていたから、脳死状態は避けられなかった。万が一目を覚ましても、確実に重度の障害が出る。そう思ったら、君たちには伝えられなかった。許してくれ。特に巧生君。そうなってしまったあの子に縛られでもしたら、君の人生はめちゃくちゃになってしまう。薫ちゃんもそうだ。死人と化したあの子でも、君たちは変わらずに接してくれるだろうから、それを見るのは辛くてね」
落ち着いた口調だった。言うことを予め決めていたかのように自然で、落ち度の無い説明。それが、かえって不自然な感じさえする。
僕の頭は、働いていなかった。言っていることが理解できない。真帆が生きていて、でも、脳死状態?それを今まで、僕たちのことを思って、言わなかった?言葉自体の意味は分かっても、それがいったいどういうことかを考えられるほど、僕の頭は冷静ではなった。パニック状態だ。
ふと見ると、伊瀬もまた、目を見開いたまま話し手を食い入るように見ている。
「あの、それは、なんなのですか。ちょっと、待ってください。それじゃあ、真帆は生きているんですか?でも……その、じゃあ、真帆は今……」
僕は早くなる鼓動を抑えながら言った。混乱しているのが、自分で分かる。口の中がカラカラに渇いて、喉がくっ付きそうになる。
「混乱するのも無理は無い。真帆は三日前まで一応昏睡状態だった。ああ、誤解しないでくれ、今も生きているよ。それが一昨日、目を覚ましたんだ」
僕も伊瀬も、次々と与えられる予想もしなかった情報に、全く対応しきれていない。仕方なく、真帆の父親の言葉をひたすらに聞いているしかない。
「そして、奇跡が起こった。目を覚ました真帆は、どこも異常が無かったんだ」
ドコモイジョウガナカッタ。どこも異常が無かった。正常だった?
広いリビングが静寂に包まれる。真帆の両親は、僕たちに時間をくれているようだった。頭の中を整理する時間を。
十分すぎる沈黙を経て、僕の思考回路が動き出した。
「ということは、真帆は……」
「ああ。生き返った、とも言うべきかな。精密検査もしてみたが、脳に損傷は全くない。これは、奇跡的なことだ」
「本当ですか?真帆は、生きているの? おじさん、真帆はどこに?」
伊瀬が、身を乗り出して言う。
「まあまあ、落ち着いて。本当に生きているんだよ。まだ病院に入院しているがね。体調も安定している。一応全部の検査をしておくつもりだ」
真帆の父親は、ふっと優しく目を細めた。
「真帆が、本当に……」
僕はそこまで言って、黙ってしまった。
生きている。
真帆が、生きている。
あの時僕の腕の中で息を引き取った真帆が、実は生きている。
伝えられた信じがたい事実を、僕はじっくりと噛み締めた。
「巧生君、辛い思いをさせたね。こうなると分かっていれば、あの時点で教えられたのだが……」
「いえ、いいんです。真帆が生きているなんて、夢みたいだ。本当に、良かった」
言葉にした通り、夢みたいである。本当に夢のようで、まだはっきりとは信じられないくらいだ。
「よかった。本当に良かったね」
伊瀬は僕の方を向いて、手放しに喜んでいた。
僕は頷いて、もう一度前を見ると、あの頃のように優しく見守る恋人の両親がいた。真帆の母親は、僕と伊瀬の様子を見て目に涙を浮ばせていた。
「明日、見舞いに行ってやってくれ。あの子はもちろん会いたがっている。長い時間じゃなければ、話しても大丈夫だ」
僕らは大きく頷いた。
僕の反応は、終始薄いものであった。嬉しいという実感よりも、頭の中はクエスチョンマークやら、エクスクラメーションマークの方が広い体積をしめていたからだ。
それが単純に嬉しいことだと頭で認識したのは、久しぶりの自宅に帰って、その事実を家族に話したときだった。
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