第16話

それは、間違いようも無い絶望だった。

 その悲しみは、涙を流すことさえ許してはくれず、ただ、虚無感と失意だけが僕を支配していた。

 世界の終わり。

 確かに、その人の生きていた世界は、終わったのだ。

 人が各々に生きている世界は、その死によって消え去る。そう考えると、もう数え切れない世界が滅亡してきたことになる。

 しかし、一人の死が、一つの世界しか滅ぼさないのかといえば、そうでもない。事実、今こうして生きている僕の世界も、終わりを告げたようなものだ。

 所詮この世には神も仏もいなかった。救いなど無かったのだ。

 僕は決して信心深い人間ではないが、死者や神や仏の部類を邪険に扱ったことは一度もない。良い行いをしていれば、きっとどこかできちんと見ていて、どうしても助けが必要な時は、そっと慈悲を与えてくれると信じてさえいた。

 でも実際は、空虚な幻想でしかなかった。どんなに真摯な願いでも、それは届くことはない。祈ることや信じることでは、誰も、何も救えず、救われない。

 全く、笑えない喜劇だ。




 いつものように、大学の中庭にあるベンチに座り、僕は冷たい缶コーヒーのプルタブを押し込んだ。

 授業が午前で終わる日の午後は、大抵昼食を学生食堂で済ませ、この中庭のベンチでぼうっとする。もう半年近くも続けてきたこの行為は、僕にとって重要なリハビリであった。どういうわけか自分でも分からないが、こうしていることが一番安らぐのだ。

 キャンパスの中心に位置する異界、植物の生い茂った庭園の更に奥、草木の密集している地帯に置かれる二人がけのベンチには、なかなか人が座らない。周りは草木に囲まれ、日当たりは良いものの、何か独特の孤立感が渦巻いているようで、学生同士のカップルでさえ寄り付かない。この配置で、何のためにこんなベンチがあるのか、利用している僕も不思議ではある。

 腕時計を見ると、午後一時を三十分程すぎたところだった。

「また、ここにいたの?」

 聞きなれた高めの通る声が、青々とした葉を掻き分けて来た。

「ああ」

 僕はそれだけ言って、空を眺める。

「隣、座っていい?」

 そう言う伊瀬薫に、頷くだけで答える。

 彼女は何かを言いたそうにしていたが、結局無言のまま僕と同様に空を見上げた。

「もうすぐ、夏か」

 僕はぽつりと呟いた。

「そうね」

 伊瀬も一言しか返さない。

 何でも、しっかりはっきり言う彼女が単語で話すのは、きっと僕のせいだ。気軽に他愛の無い話ができるような雰囲気を、今の僕は持っていなく、またそれを拒絶している。

 麻生真帆の死は、公にはならなかった。大きくは大学受験があったせいだ。神経が過敏になっている受験生にクラスメイトの死を通告するのは、賢い行いではない。

また、真帆の母親の精神状態も理由の一つであった。娘を失ったことで、精神を病んでしまい、挙句、娘の死を認めないことで正気を保とうとしていた。その為、僕と伊瀬は、真帆のお母さんの状態が落ち着くまで、真帆の死を他言しないように頼まれた。そのまま時が経ったので、きっと真帆の死を知っている人物は、今でも片手で数えられる程度しかいないはずである。葬儀も密葬で、通夜にも家族以外では僕と伊瀬しか訪れなかった。僕の両親でさえ、内密にするため遠慮して欲しいと言われたのだ。

知らせていたら、きっと何十人もの人が訪れてその死を悼んだことだろう。彼女が多くの人に好かれているは、周知の事実だ。僕や伊瀬ほど親しくなくても、本来なら知らせるべきであり、知る権利がある友人はたくさんいた。それほど、麻生真帆という人間の死は大きな影響力がある。黙っていることだけで、どこまで周囲に漏れずに済んでいるのかは不安な所だ。どんなに隠していても、彼女自身の姿を見ることは永遠にできないのだから。

 僕たちの仲間は、おおよそ希望の進路を掴んだ。真実を話せないこともあって、卒業してからは、町田たちと連絡をとっていない。忙しいと誤魔化し続けて、なんとか会わないでいる。

僕と伊瀬は、第一志望の同じ大学に合格して、今でもよく話す仲だ。とは言っても、僕のせいでうまく会話が成立しないことも少なくないのだが。

「安曇は、午前で終わりだっけ?」

「うん」

 またも、短文だけの会話。

「ごめんな。いつも気遣ってくれてるのに……」

 僕は伊瀬を見やって言った。

 親友の明や町田にさえ真帆の死を嘆けない僕を、一番近くで支え、ともに悲しんだのは、必然的に伊瀬薫ただ一人だった。伊瀬は、僕よりもしっかりと真帆の死を受け止め、ショックに打ちひしがれていた僕を励ましてくれた。しかし、自暴自棄に陥っていた当初は、そんな彼女の言葉に、かなり酷く食って掛かったはずだ。僕は自分自身のことで手一杯で、他を気遣う余裕など全くなかったのだ。

 それにも関わらず、こうして今でも話し相手になってくれる伊瀬は、真帆の親友だけあって、やはり優しい女だと思う。いつかの言葉を思い出し、『類は友を呼ぶ』である。

「ううん。いいのよ。あんたの気持ち、よく分かるし。まだ、半年しか経ってないんだもん。仕方ないよ」

 伊瀬は比較的穏やかな口調で言う。

 僕は下を向いて二、三度頷いた。

急に風が出てきて、辺りの葉をいっせいに揺らし、カサカサと様々な高さの音を奏でる。

「でも、たまには、気晴らしも大事だよ」

 伊瀬が控えめに提案する。

 それに何とか笑って、「そうだな」と答え、コーヒーを一口飲む。そして、「気晴らし」から連想しそうになった「真帆」につながる単語、事象を振り払う。

 少しでも気を抜けば、僕は確実に真帆との思い出に浸ってしまい、抜け出せなくなる。もうそれで、悲しむことには飽きた。思っていても、思い出せば何度でも悲しみに浸る。『悲』のループに捕らえられてしまうのだ。

 真帆が死んだ日から三日後、僕に一通の手紙が届いた。差出人は真帆だった。

 彼女は自分の死を正確に予感していたのである。

 今でもそれはとって置いてあるし、それでなくとも、その文面を、僕は一字一句覚えている。そうできるほどに何度も読み返した。

『 巧ちゃんへ。

  まずは、ゴメンなさい。私はもうこの世にはいられません。残念だけど、仕方のないことです。

  きっと私のことだから、大事なことは一言も言えずにこっちに来てしまったことでしょう。だから、この手紙で最後に言いたいことを全部書いておきます。

  私は、とっても、とっても、と~っても幸せ者です。きっと、こんなに優しく、大切にされたカノジョは、世界中にたくさんはいないと思います。言いすぎかな?でも、私はそう思うんだから、いいよね。

  巧ちゃんにはたくさんのものを貰いました。形のあるものも、ないものも。どれも全部私の大事な宝物です。

それなのに、私が巧ちゃんにしてあげられたことは、とても少なくて、とても悔しいです。切ないです。私は、私があなたにしてもらったほどに、あなたを幸せな気持ちにできたか不安です。それを、怖くて直接聞けなかったほど、不安に思ってます。

  いつか同じような話をした時に、「その気持ちだけでいい」って、巧ちゃんは言ってくれました。それで、私は思いました。元気になること、ずっと健康で生き続けることが、今の私にできる唯一の頑張りだと。そして、巧ちゃんの大好きな笑顔で笑っていたいと……。

  だから、それさえできないことに、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

  いつまでも忘れないでなんて、言いません。早く立ち直って、私より素敵な人を見つけてください。

  勝手なことを言って、ごめんなさい。

  さようなら、大好きな巧ちゃん。 』         

そして、後日真帆のお父さんから受け取った、手紙の書き損じ。くしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱の横に、入り損ねてあったものだそうだ。

 それには、

『 巧ちゃん、好きです。私、死になくないです。巧ちゃんと、みんなと、ずっと一緒にいたい。もっといっぱい一緒にいて、いろいろなことをしたかった。巧ちゃん、私のこと、忘れないで下さい。ずっと、ずっと、せめてあなたの中で生き続けていたい。

私は……』

 とそこまで書かれて、ペンでぐしゃぐしゃとバッテンが引かれていた。涙の痕と思われるしみと一緒に。

 本来、僕は読まないはずの書き損じ。そんなもの読まなくたって、正規の手紙だけで、僕は彼女の本心なんて分かっていた。それでも、実際の思いが綴られたそれを見てしまうと、苦しさと悲しさでぺちゃんこに潰れてしまいそうになった。

 ふと、思い返す。

 僕の意識は、現実に戻ってきた。

「伊瀬、真帆は俺と付き合って幸せだったのかな」

「え?」

「最後の瞬間に側に居たのが俺で、真帆は幸せだったのかな」

「……」

 伊瀬は困った顔をして眉を顰める。肩に付くか付かないかくらいの、綺麗な髪がふわりと揺れる。大学に入ってからは、部活を辞めたせいもあってか、伊瀬は髪を伸ばし始めた。短めの髪しか見たことがなかったので、最初は新鮮な感じがしたものだ。

「幸せだったはずよ。最高に。あの子は安曇のこと、本当に大好きだったから……」

 微笑みとも、憂いともいえない表情で彼女は言う。

「そんな当たり前のこと聞いてどうするの?ほら、シャキッとする」

 口調を変えて、伊瀬はポンッと僕の肩を叩いた。

「そうだな、伊瀬の言うとおりだ。気晴らしでもして、少しずつでも、前に進まないとな」

 自分に言い聞かせるように言った。缶コーヒーを一気に飲み干して、近くのゴミ箱に投げ入れる。缶はどこにも当たることなく見事に収まった。

 今度、町田や明に連絡をとってみようかと思う。大学でできた友人との行動もいいが、あえて旧友と会うことで真帆の死を振り切らなければ、僕は前には進めない。今まで、真帆を強く思い出してしまいそうで、怖くてできなかったことをやるべきだと思った。

 しかし、実際にできるかどうかは、別問題である。

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