第15話
その日の天気を僕は一生忘れないだろう。
季節外れの暖かい風を、控えめで柔らかい日差しを、そして眩しいほどに輝く彼女の笑顔を、僕は決して忘れないだろう。
平日の遊園地は開園しているのが不思議なほど空いていた。客は両手で数えられる程度しかいなく、停止しているアトラクションも幾つかあった。
ふと見上げて、大観覧車が動いているのを確認し、少しホッとする。これが動いていないのであれば、ここに来た意味はない。
同行してきた真帆の両親とは、受付を入ったところで別れることになった。真帆自身が、僕と二人きりのデートを望んだからである。彼女の体力が著しく低下していることもあったが、移動は常に真帆の両親が見失わない程度の速度と距離を保った。
激しい乗り物にはもちろん乗れるはずは無く、普通に歩くだけで辛そうな真帆だったが、彼女の表情は心底嬉しそうに笑っていた。僕の片腕にぶら下がるように、ピッタリとくっ付いて腕を組んでいる。
今日の彼女は、お気に入りのダークブラウンのハイネックセーターに白のジャンパースカート、上には薄い茶色のフード付きセミハーフコートを着ていた。胸元に見え隠れするのは、去年のクリスマスに僕が贈ったヘッドの付いたペンダントである。服装から見ても、彼女の今日という日に対する想いが痛いほど分かる。
すっかりやつれてしまった頬と色を無くしつつある唇を、笑顔と薄く引いた桃色のリップで彩っている。まだ幾らか元気であった頃の、あのお日様のような輝きも、今はもう殆ど失われていた。
僕は真帆の手をしっかりと捕まえ、歩いている間は一時も離さなかった。体制からして、彼女の体重の大部分が僕の片腕に掛かっているはずなのに、それはとても軽かった。そう、驚くほどに。
「ゴメン、もう食べられない」
まだ半分以上のキャラメルパフェを残して、真帆が言う。
「なんか、すごぉく甘いんだもん」
そんな風に言って舌を出す。
僕はいつもと同じく、「食えないようなもんを頼むなよ」と笑って言って、仕方なく残りを食べる。
ずっと、変わらない。何も変わらない。僕の日常。
永久に続くことを祈った、一ページ。
「ちょっとちょうだい。うわっ、苦い……」
僕のアイスコーヒーを一口飲んで、口をうにうにさせる。
「シロップ入れてないの……?」
「入れたよ。これが甘いから、そう感じるんだろ」
水を飲み直して、少し照れ笑いする真帆。
「ん、ホントにくどい甘さだな」
ホイップクリームとソフトアイスにこれでもか、とかかったキャラメルソース。僕はキャラメルよりチョコレートソースの方が好きな味なのだが。ま、仕方ない。
「もう少し食べろ。俺がきつい」
「うん、じゃもうちょっと」
スプーンを再び手にして、アイスの山を削る。
三口としないうちに、やっぱり僕に回ってくる。こうなれば、水とコーヒーを駆使して何とかするしかない。甘味の重層を目の前に、悪戦苦闘する僕を真帆はとても楽しそうに見ていた。僕の目には同時に、今にも消え入りそうな薄い笑みにも映る。きっと今でも、かなり苦しいだろうと思う。
何とか食べ終えて、アトラクションゾーンに戻る。まだまだ日は高かったが、彼女の体が疲れるには十分すぎる時間のようだった。
いつの間にか足取りも覚束無くなりつつあり、呼吸も辛そうだった。
僕たちは迷わずあの場所に向かった。
ここに訪れた目的。真帆の最も望む場所。
来客が少ない上に昼間であることも重なって、観覧車に乗るは僕たちだけのようだった。
真帆の両親も近くにいたので、一緒に乗ってはどうかとも考えたが、真帆の確固たる意思によって当初の予定通り二人きりで乗ることになった。
「真帆……」
真帆の母親は何かを言いかけたが、父親がそれを制した。真帆自身もその先の言葉を分かっているかのように、笑って頷いただけで返す。
「お父さん、お母さん、それじゃ、乗ってくるね」
両親に告げた一言で、僕は何となく理解した。彼女が何を望んでいるのか。僕は何をすべきなのか。
観覧車は一昨年に来た時と何も変わっていなかったが、昼と夜との差があるので、目に映る景色はまるで別物だった。ゆっくり、ゆっくりと高さを増していくボックス。繋いでいる小さな手を改めて掴みなおすと、向うからもそっと力がこもる。
この前と同様に僕と真帆は、隣に並んで座っていた。
二分にも満たない沈黙。
いつもの、幸福を楽しむためそれとは違う静けさだった。話したいのに、何を話せばよいか分からない。いつもと違うのはむしろ僕の方かもしれない。
雲の掛かってきた空を眺め、どんなことを言おうかと考える。考えれば考えるほど、不自然くらいに話題が見えなくなっていく。
「なんか、いっぱいわがまま言っちゃった」
隣でくすりと笑った一言が、その沈黙を破った。
「こんなにお母さんたちのことを考えないでいろんなことを言ったの、きっと生まれて初めてだと思う」
軽めな口調とは反対に、彼女の表情は寂しげなものだった。
僕は何も言わずに聞いていた。
「本当なら、大人しくベッドで寝ているのが一番いいのよね。でも、最後なんだし自分の望みをそのまま言ってもいいかなって、思ったの」
「最後って、そんな……」
反射的にそう言っていた。「最後」なんて、言って欲しくない。
「うん、ごめん。でも、ね。私はなるべく悔いを残したくないから。言い出したらきりがないけど、少しでもできることはしておきたくて」
彼女は外を見たまま語った。
「それでね、私は結局どうしたいのかなって考えたら、やっぱり私は巧ちゃんと一緒にいたいのが一番だった。だから、どうしても来たかったの」
僕は真帆の綺麗な横顔を見ながら、軽く唇を噛んだ。
言いたいことはたくさんあるのに、どう話してよいか悩む。それでも僕は口を開いた。
「愛は無償だ。けど、報われると嬉しい。皆それを望むし、時には強制したがる。でも強制して得ても、何の価値もない。だから、両思いは奇跡にも似た幸福だと思う。俺は、真帆のこと好きで、本気で愛している。いや、違うな。そんな言葉じゃ全然追いつかないくらいに惚れているっていうか、とにかく、好きだ。本当にこんな気持ち真帆が初めてで、自分で自分が可笑しく思えるほど幸せで、浮かれていてさ。なんか上手く言えないけど、ただ、ありがとうって言いたい。こんな気持ちをくれて、ありがとうって」
今ひとつ噛み合わない会話だったが、僕の本心だった。普段は冷静を気取ってしっかりしているつもりなのに、こういう時になると上手い言葉の一つも浮んでこない。対話や呼応の法則は何処かへ行ってまっている。支離滅裂な持論を好き勝手言っているようで、聞いている方はさぞ難解であると思う。
「巧ちゃんの喋り方、物の言い方っていうのかな。私好きだな。いつものキザなセリフも、理屈っぽさも、独特な冗談も全部好きだけど、今みたいに、本心を語るときのあなたが一番好き。純粋で優しくて暖かくて、凄く安心するの」
僕の方を向いて、しっかりと見つめてくる。
そして、
「ありがとうって言いたいのは、私の方よ。好きになってよかった、好きになってくれてよかった。あなたに出会ってから、本当に楽しかった。あなたはきっと、私の運命の人。私はそう信じてる」
言って、僕の大好きな笑顔を見せた。透明な雫を目に浮ばせながら。
「泣かないで、真帆」
そう言ったが、実際僕の目じりにも熱いものを感じた。もちろん、僕はそれを必死で抑えた。
涙が流れても構うことなく、彼女は食い入るように僕を見つめていた。
繋いでいた手を離し、僕はポケットからハンカチを取り出して、彼女の頬を静かに拭ってやった。瞬きをするたびに、雫がこぼれて新たな跡を残す。それを一つ一つふき取る。
愛しい。
僕は無意識に真帆の肩を抱き寄せていた。腕の中の彼女は、僕に半身を預けてピッタリとくっ付いた。
そして、弱々しく息をつく。
「ねぇ、覚えてる? 告白してくれた時の言葉」
僕の肩にもたれて、目を閉じながら言う。
「忘れるわけないだろ」
僕も首を傾けて頭を寄せる。
「『君の笑顔を見ると、幸せな気分になれる。今度、俺だけの為に笑ってくれないか。付き合ってください』」
二年前に言った言葉を一字一句違うことなく言う。当時、一週間考えた末にやっとできた力作だ。
「うわぁ、今聞いても恥ずかしいセリフだね。でも、凄く嬉しかったんだ。素敵な告白だと思うわ」
僕もそう思う。本当に恥ずかしい内容だ。キザにも程がある。
「考えに考え抜いて、傑作がこれだったんだよ。なぜか確信してさ。これなら、イケルって」
僕が言うと、真帆は目を閉じたままで笑った。雲の隙間から、午後の緩やかな陽光が指し、彼女の黒髪に彩りを照らす。
気が付けば、もう頂上辺りまで来ていた。景色なんて、ほとんど見ていない。
「あんまり、けんかはしなかったね」
「そうだな」
「必ず、巧ちゃんから仲直りしてくれたよね」
指と指を絡めるように手を握りながら、彼女が言う。ゆっくりとした物言いだった。
「そうだったっけ」
「うん。私が悪い時も、巧ちゃんの方が折れてくれて、きちんと話そうって言ってくれたもん」
それは単に、真帆と話したくなるからだ。どっちがどう悪いかなんて問題より、僕にとっては彼女と口を利けないほうが深刻なのである。そしてその程度の些細な理由でしか僕らはけんかしたことがない。ヤキモチとか、勘違いとか、そんなものだ。
「巧ちゃん、ありがとう。私はあなたから素敵なものをいっぱい貰ったわ。すごく大事にされて、すごく優しくされて。私は、幸せだった……」
大きく息を吐きながら、真帆は言った。
彼女を見やると、薄く目を開けてどこか遠くを見ている。
「俺もきっと、同じか、それ以上のものを真帆から貰っているよ。だから……」
だから、ずっと一緒にいたい。死なないで欲しい。生きて、これからも僕の隣にいて欲しい。
僕は言葉に詰まった。
途端に、腕の中の小さな体が揺れて咳き込んだ。
「大丈夫か?」
問いかけに、彼女は首を上下させて答え、苦しそうに呼吸を整えている。数秒で落ち着くと、思い出したかのように、ぽつりぽつりと話し始める。
「昨日ね……夢を見たの。みんないるんだけど、きちんと、した格好していて……」
途切れ途切れに、言葉を紡ぐ。
「どうしてかな、って、思って、ふと鏡を見たの。そ……したら、私、ドレスを、着てたの。真っ白な、ウエディングドレス……。それで、ね、そのあと、タキシード来た巧ちゃんが、私の手を引いてくれて……。幸せな、夢だった」
薄幸に嘆く顔を、精一杯に変えて、彼女は笑った。
「そうか、いい夢だったな」
彼女の髪を撫でながら、僕は穏やかに言う。どんなに苦しんでいても、僕にできることはない。肩を抱き、少しでも安心させることが、唯一の処置であろう。
「うん」
僕の手を更に強く握り、彼女はまた目を閉じた。
「少し、疲れたのかな……。眠く、なっちゃった……」
寄り添うようにして、再び僕に真帆の体重の半分が掛かる。聞こえている吐息が、小さく弱くなっていった。
彼女の手から、力が抜ける。
「真帆……」
僕は静かに呼んだ。
反応はない。
見たくはなかったライフチューナーをそっと覗くと、いつも点いている赤い豆ライトが、二、三回点滅して消えるところだった。
小さく一回、『ピッ』と鳴って、何も反応を示さなくなる。
「真帆、もうすぐ着くよ。起きないと……」
僕は彼女の頬を撫でて、そのまま前髪を掻き揚げた。
気付く様子も、起きる気配もない。ただ、僕に寄りかかったまま微動だにしない。
今までよりも、もう少し真帆の方に体を捻り、両腕で包み込むように抱いて顔を見つめる。
眠っている彼女は、天使のような穏やかな表情だった。僅かに笑んでいて、安らぎと慈愛に満ちた、聖女のような美しさで瞳を閉じていた。
イタズラして鼻を摘めば、ぼや~っとした寝ぼけ眼で僕に「おはよう」と言いそうだ。
それでも、彼女の胸は、呼吸の為の上下運動をしていない。
「おはようのキスは、これが始めてだな」
僕はそう言って、彼女の瞼に口付けた。
彼女は目覚めない。
「……おやすみの、キスかな」
呟いて、痛いほどに僕は歯を食いしばった。
彼女のコートに水滴が落ち、小さなしみをつくる。僕は涙を堪えようとした。それでも目頭が熱くなり、どうしようもない悲しみが雫となって降下する。
動かない華奢な体を、もう一度しっかりと抱き寄せた。
もう地上が近い。窓の外には、真帆の両親の姿が見える。僕が彼女の父の目を見て、静かに首を横に振ると、深く頷いて、口を「分かった」と動かした。それから隣に何かを呟くと、聞いた真帆の母は顔を押えて泣きついていた。
僕はそちらの方に向かって頭を下げると、真帆に目を戻した。
やがて到着し、係員がドアのロックをはずしてくれる。
降りようとしない僕らを見て、何かを言いかけた係の人に、
「もう一周、いいですか。お願いします」
と言った。
順番を待っている人もいないので、了承され、扉が閉められる。
もう一周したい。
真帆と二人で、真帆の一番好きな場所で。
彼女の手はまだ暖かく、生きていた影だけがそこに残っていた。
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