第14話

 電話が鳴った。

 自室にいた僕は、スマートフォンの液晶ディスプレイ画面に表示される『公衆電話』の文字に動揺する。僕の電話に掛かってくる公衆電話といえば、ほぼ確実に真帆の入院する病院からである。それも、恐らくは急ぎの用に違いない。

 一月にしては、妙に暖かい日が射していた。

 恐れていた真帆の発作がおきてから、丁度一週間経った日のことだった。

真帆の両親が容認してくれたおかげで、伊瀬と僕は出来るだけ側にいてやることができた。受験勉強もラストスパートという時期ではあったが、もちろんそれどころではない。真帆は本当に死にそうだった。顔色は蒼白く、もともと華奢な体は更に細くなってしまい、何とか微笑むものの、その笑顔も辛そうだった。

 この日の午後から、真帆は退院だった。この退院は、治って通常生活にもどり受験をするためのものではなく、彼女がこの世に悔いを残さないためのものである。

 自分でも残酷なことを言っていると思う。しかし、今は変に着飾った状態で胸に留めるよりも何百倍も辛くなるので、ありのままの事実を認めるしかない。

 打つ手がないのは、もう分かっていた。『頑張れ』だとか、『信じる』だとか、まして『奇跡』だとか、そんな夢のようなことを言っていられる余裕はどこにもなくなっていた。僕は今でも、『真帆は死なない』と信じている。伊瀬だって、真帆の両親だって、それは同じだ。だが、目の前の真帆の状態がそれを容易に否定する。内蔵がほとんど飛び出して、全身血まみれの人間がピクピクと痙攣していても、その人は死なないと信じることができる人間がいるだろうか。状況は違えども、同じことである。

 病院からの電話で、僕は真帆の自宅に呼ばれた。天気が良くて、気温も高い。風はまだまだ冷たいが、散歩に出るには丁度良い日だ。

 通り慣れた道をゆっくりと進む。

 今頃みんなは家で追い込みだろうな、と思う。受験生の三学期は僅か数日で終わり、それからは自習期間となり授業はなくなるので、学校に行く必要がない。よって三月の卒業式の日まで高校には行かないのだ。

 実際それで良かったと思う。通常通り授業があったら、真帆の欠席と僕や伊瀬の態度で周りに悟られてしまう。そもそも、僕自身が平然と登校できるか疑問である。

 しばらく歩いて、『麻生』と表記されている門のチャイムを押す。

 家の扉が開かれ、中へと招かれた。

 真帆は、自分の部屋のベッドにいた。上半身だけを起こして、僕に微笑みかける。

「よっ、真帆。元気じゃないだろうけど、大丈夫か?」

「うん、呼吸が少し安定しないんだけど、平気」

 そう言いながら、胸に手を当てる。

「ゴメンね。勉強追い込みなのに、わざわざ呼び出しちゃって」

「いいさ。勉強もウンザリしてたところだ」

 僕は言って肩を竦めた。

「一昨日はね、薫が来てくれて久しぶりにいっぱい話したんだ。なんだか凄く楽しくて……。薫の悩みも分かったしね」

 真帆は少しはしゃいだように言葉を弾ませる。

「なんだったんだ?」

「それは秘密よ。女の子の秘密。いくら巧ちゃんにでも言えないわ」

 それに僕はわざと唇を尖らした。

 それに、彼女はクスクスと笑う。

「明日、時間もらえる?行きたいところがあるの」

「明日? そんな調子なのに?」

 治ってからにしろ、といつものように言いかけて、ぐっと飲み込む。こんな状態でここまで来ていて、そんなことを言えるほど僕は強くもないし、逆に無神経でもない。

「うん、平気……じゃないのかもしれないけど、どうしても行きたいの」

「う……ん、何処に?」

「遊園地。観覧車、乗りたいの」

 胸が苦しくなる。

 分かっていた。真帆が行きたいところ。きっと、最後に僕と行きたいところといったら、遊園地しかない。もっと言えば、観覧車しかない。

 心のどこかで、違う場所を言って欲しいと思っていた。他の場所を言うならば、真帆にとってはまだ『最期に行きたい場所』ではないのであって、つまり真帆はまだ元気であるといえる。だが、それと反対に観覧車を指定したということは、彼女の中でも自分の最後を悟ってしまっているということだ。

 僕は歯を食いしばった。

『元気になったらいくらでも連れていってやる』

本当にそう言いたかった。僕がそう言うのを、万が一彼女は待っているのかもしれないが、それだけが宙に浮いてしまった時のことを考えると、その可能性が高いだけに言えない。

「どうしても、今っていうか、明日なのか?」

「うん。ごめんね、無理言って。でも、お願い」

 真帆の一言は、なによりも重く、そして明快だった。

 もう、覚悟を決めなきゃいけないところまで、実質的に到達しているのだ。

「わかった。お父さんたちは、許可しているのか?」

「うん。一応付き添うけど、園内は二人だけで過ごしていいって言ってくれた」

 了解の意を込めて、僕は微笑んだ。いつもの、真帆に向ける眼差しと変わらない笑顔。きっと、僕のできる一番優しい顔だ。前に真帆にそう言われたことがある。

「私、もう駄目なんだ。自分でね、分かるの。命の炎がどんどん弱くなっていって。全然卑屈にはなっていないのよ。これは、客観的な判断。ほら、約束でしょ?言い難いことでも、巧ちゃんにだけは何でも話すって。だから、言っておくの。いつ、その、うん……」

 そこまで言って、言葉を詰まらせる。

「いいよ、その後は言わなくて。分かってる。今更『大丈夫』なんて軽口にしか聞こえないようなことは言えないけど、皆心の中では今でもそう信じているし、信じたい。だから、真帆は何があってもそれだけは口にしちゃ駄目だ。いいね?」

 僕が制すように言うと、真帆は目を伏せてゆっくりと頷いた。

「よし、じゃ、何時から行こうか? 夜景がいいんだろうけど、その体で夜はちょっと無理だから、それは我慢な。明日は天気いいみたいだし、昼間にしよう」

「うん、残念だけど、お昼の観覧車で我慢する」

 いつもの素直で無邪気な態度にも、なんだか覇気が感じられない。それが物悲しくて、僕はベッドに椅子ごと近づき、真帆の頭を撫でた。

 指で二、三度髪を梳いたあと、その白く、今は限りなく弱々しい頬を半分包む。僕の手に自分のそれを添えて、彼女は目を閉じて頬を寄せる。真帆の手は、細く小さかった。普段よりも断然冷たくて、儚さそのものが五本の指と掌に成り代わっているかのようだった。

 目前の死をより鮮明にイメージできる。

 それでいて僕には、彼女がこの世からいなくなってしまった後のビジョンが、唯の一つも予想することはできなかった。麻生真帆の死に至る病は、未だに僕の中では『信じられない事実』でしかないのだ。

 僕は開いているもう片方の手で真帆の前髪を掻き揚げ、そこにキスをした。真帆は目を閉じたまま、僅かに表情を綻ばせて笑った。

 それからしばらくして、僕は真帆の部屋を出た。そう長い時間は起きていては辛いだろうし、明日のこともある。そう言って説得したら、彼女はしぶしぶ眠りに着いた。

 僕は階段を降りて一階のリビングに顔を出す。真帆の両親と話すためである。

「明日のことなんですけど、本当に大丈夫でしょうか?」

 僕が切り出した。テーブルを挟んで二つのソファがあり、テーブルには紅茶の入ったティーカップが三つ。目の前には彼女の両親が僕と同じく座っている。

「大丈夫とは言い切れない。でも、私は行かせることにした。それが、あの子の望みだからね。巧生君、私たちはずっと考えていた。残り僅かだと判断された時から、どうしてやるのが真帆にとって幸せか。それで、本人に聞いたんだよ。そうしたら、あの子は君と一緒がいいって言ったんだ。何が何でも、もう一度君と観覧車に乗りたいってね。だから、許可した。はっきり言っておくが、あの子はもう本当に長くない。明日かも、明後日かも知れぬ命だ。あんな若さで逝ってしまうのだ。せめても今現在に置いて悔いを残して欲しくはない」

 僕は真っ直ぐに真帆の父親を見つめて話を聞いた。涙が出そうなのを必死に抑えて、それでも僕は目を逸らすことは一度もしなかった。

「本当なら絶対安静にして、この家で私たちが静かに見取ってあげたいのだけど。あの子の気持ちを優先させてあげたくて」

 視界の隣から、真帆の母親が言う。

 もう深刻に日にちがないのだろう。それは、真帆自身も気付いているに違いない。

確かに、現在の医療では、余命をほぼ正確に割り出す技術がある。幾つかのパターンを推測して、そのどれかで最期を迎えるという所まで分かるらしい。よって、余命も幾つかのパターンで知らされる。その一つが明日であり、明後日なのだ。とは言え、予測は絶対ではないで僕は信じたくない。

「分かりました。明日はご両親も一緒ですよね?」

 僕は言った。誰がどう望んでいても、真帆とその両親を引き離しておいてはいけない。真帆からも聞いたように、両親もそのつもりではいるだろうが、確認の意味も込めて僕は念を押す。

「ああ、そのつもりだ。そうは言っても、二人で過ごしてもらいたい……いや、応急処置は心配ない。ライフチューナーが全部対応してくれるはずだ」

 例の如く、生命維持処置装置だ。それは心配していない。

「はい。彼女の希望とは言え、この時期に僕が側にいることを容認してもらって感謝しています。僕にとって彼女は、掛け替えのない、もっとも愛すべき人です」

 僕が言うと、二人は優しく微笑んで頷いた。

「確かに真帆も巧生君も、普段見ていればただの十七歳。まだまだ子供にしか見えないが、君たちの気持ちは、なによりも純粋で、深いものだと私は思う。信頼できる。だから、君の側にいさせてやりたいんだ」

 僕の身尻には、涙が浮んでいた。何で涙したのか、正確には分からない。真帆のことを想って泣いたのか、彼女の両親の言葉に感動をうけて泣いたのか。

 僕は無言で深々と頭を下げた。

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