第13話

五日前のことだ。

それを聞いた時、初めは何を言っているのか理解できなかった。いや、きっと僕の思考回路が、もしくは防衛本能が理解を拒絶したのだろう。

 夏は終わり、僕たち受験生もいよいよ大詰めとなる頃、そろそろ木々の葉も頬を染める季節だった。

 僕は耳を疑った。現に五日過ぎた今も、あれはちょっと強めの警告、もしくは十分に注意しろという往き過ぎた心配だと思いたい。しかし、それと同時にフラッシュバックする真帆の父親の厳かな表情が、僕の現実逃避を拒む。

「真帆の心臓はかなり危ない状態に来ている。いつ発作が起きて、それが致命的なるか分からない」

 本人の居ないところで、彼女の父親から特別に話をされた。感情を必要最低限にまで抑えて一つ一つ噛み締めるように言った彼の言葉を、鮮明に覚えている。

「ここまで来ると、入院しても……治るものではない。よくもならない。だから、せめて最後の時が来るまで普段通りの生活をさせたいと思っている。真帆はそれを一番望んでいる。あの子が最も嫌うのは、自分が普通と違うこと。病気のことで特別に扱われることだ。だから、なるべく巧生君が側にいてやってもらいたい。こんな話をして普通でいろというのは、無茶なのは十分承知だ。でも、この我ままを聞いてもらいたいんだ」

 真摯たる面持ちの父親は、「無理を頼む」といって深々と頭を下げたのだ。

 僕はそれに驚いてしまった。いくら娘の恋人だといっても大の大人が、日本でも名高い内科医がこんな十七、八の小僧に真面目に頭を下げるなんて完全に予想外のことだった。されたこちらが意味も無く申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「そんな、止めてください。大丈夫ですから。今までどおり、きちんと娘さんの側で見守っています……いや、僕のほうこそずっと真帆の側にいさせてください。それを聞いた今でも彼女の病気は必ず治ると信じています。医学的にどうであれ、僕はそう信じて疑いません。そうでなくちゃいけないんです」

 僕はそう返すのが精一杯だった。もちろん本当の気持ちではあったが、そう口に出さなければおかしくなりそうなほどにショックを受けていたのかも知れない。

 それから色々と話したが、よく覚えていない。

 自分を落ち着けるのに必死で、頭が錯乱していたのだろう。

 端的に言うと、こうだ。

『真帆の死期が近い』

 残酷だ。

 心臓が痛くて、胃がムカついて、内蔵ごと吐き出してしまいたくなるような感覚。家中の窓を割って、学校中の窓を割って、ドアを壊して体力が尽きるまで校庭を走り回って、もう体が動かなくなってから大声で泣きたい気分だった。

 その日、帰ってきた僕の顔色の悪さに母は本気で心配した。事情を話すと、母は何を言ってよいものか分からない様子だったが、やがて歩み寄り、静かに僕を抱きしめた。

 突然のことで驚いたが、その途端、僕は泣き出してしまっていた。ずっと我慢していた悲しさが込み上げてきて、どうすることもできなかった。母は何も言わず、僕の頭を撫でた。こんな時、親の偉大さが分かる。そして同時に思ったのだ。もし彼女が死んでしまえば、真帆の両親はどんなに娘を抱きしめたくてもそれが叶わなくなるのだ。それも永遠に。

 そんなことを考えたせいで、余計に僕の涙は止まらなかった。親の前で泣いたのも、こんなに大声で泣いたのも、大きくなってからは初めてだった。

 神様でも仏様でも、誰でもいい。

 真帆を助けて欲しい。

 そう思った。

 あれからも、真帆は変わらず学校に来ている。入院はしなくても、自宅で安静に療養するべきだと思うが、自分の体のことに気付いている彼女のことだ、無理をしてでも普通に過ごしたいのだろう。

 一時期卑屈な考えをし始めたこともあった真帆だが、最近はとても明るくなった。きっとそうすることで自分のテンションを保ち、自分の正常を保っているのだろう。

 僕は僕で、一応いつも通りに振舞うことができている。……つもりだ。

 仲間内には、最近特に顔色の優れない真帆を心配する者も現れたが、事情を知っている伊瀬と僕が何とか上手く誤魔化している。丁度受験もあるし、好都合だ。

 進路先の大学のことも、ほぼ決定の段階を迎えた。真帆と僕、そして伊瀬は同じ大学を第一志望に選び、他の友人達も全員大学進学を選択しそれぞれの志望を決めた。

 平常授業も少しだけ割合が減り、受験のための自習時間も増えた。

 僕はそんな時、窓の外を見ていることが多い。空を見て、教室内を見渡して、深く溜息をつくのだ。

 特に天気の悪い日の午後の授業が自習になると、僕は憂鬱で仕方なかった。しんと静まり返った、冷たい蛍光灯のみが照らす室内。外を見てもどんよりと暗い。そうなれば、考えたくないことまで考えてしまって、その場から逃げ出したい衝動に駆られる。

「ね、帰ろっ」

 この泥沼のような気分を紛らわしてくれるのは、やはりと言うべきか、毎日聞ける真帆の元気な声だ。受験生なので、今までみたいにベタベタはできないが、二週間に一回は一日勉強を忘れて二人で会うことにしていた。十分すぎる制約だ。それで無くても学校では毎日会えるので、文句は言えないし、言うつもりも無い。

 実際これは全く会わないより効率がよく、次の会える日までの二週間を恐ろしいほどやる気と集中力に満ちたものに変える。

「ねぇ、ちょっとお茶していかない?」

 今日は珍しく真帆がそんな風に誘う。

「たまにはいいじゃない。ずっと頑張っているんだし、そんな長い時間じゃなければ、ね?」

 まあ、それもそうだ。何事もやりすぎは良くない、というのが安曇家の教えにもあるし。

 僕たちは学園の周辺から少しはなれた所にある喫茶店に入った。初めてではないはずだが、ほとんど利用したことは無い店だ。コーヒーの味もお勧めのメニューも思い出せない。

 席に座る時、真帆のブレザーが揺れてウェスト付近にある四角い小さな物体が目に入る。

僕はそれが何かを知っていた。見た感じ、タバコの箱くらいの大きさのそれからは、線が何本か出ていて、真帆の体の一部と接している。

 生命維持装置といっては大げさだし、語弊があるが、役割はほぼあっている。発作がおきたり、真帆の心音に異常が出ると、自動で最善の処置をする最新式の医療器械だ。彼女から説明されて、僕は単純に凄いと思ったが、『万が一止まったときは電気ショックで蘇生をする機能も付いている』と聞いたときはさすがにぞっとした。昨今は心臓のみに電気ショックを与えることができるため、隣に居て感電するということはないが、それでも目の前でいきなり電気蘇生を行うというのはある意味怖い気がする。

「なんかさ、久々だよね。学校帰りに寄り道して喫茶店なんて」

「そうだな。受験生は無駄な外出禁止、寄り道禁止、みたいな無言の圧力があるからな。うちの高校は進学校だし」

 僕らはそれぞれ、ブレンドコーヒーとミルクティーを注文した。喫茶店では、決まって僕はその店オリジナルのブレンドコーヒーを頼む。それは、大概の喫茶店の売りは特製のコーヒーであり、それにはほぼ間違いなく『ブレンド』の名がついているからである。つまりそれを飲むことで『店の味』が分かるというわけだ。地味ながら喫茶店めぐりを隠れた趣味としている僕の評価の基準でもあった。

「あ~あ、早く終わって楽になりたいよ。なんか毎日がこう、息苦しくてな。ぱあっと遊び倒したい気分だ」

「仕方ないわよ、こればっかりは。受験生だもん。夏休みに、温泉行ったりお祭り行ったりできただけで十分よしとしなきゃだめよ。その分これからは頑張らないとね」

 いつになく反論の余地の無い正論を述べる真帆。しかし、その温泉計画と夏祭り計画を発足したのはどこのどいつだっけ、と思う。

「でも、最近巧ちゃん、ぼうっと外見てること多いよね。集中力が切れてるって感じで」

「そうか?あ、まあ、単に自習が退屈ってこともあるな」

「確かに。学校に来てまで、家での勉強と大差ないことはしたくないわよね」

 真帆は運ばれてきた紅茶にミルクを垂らしてかき混ぜる。

「ねぇ、巧ちゃん」

 と、一口飲んでから続ける。

「うん?どした」

 僕もブレンドをブラックで飲んで、そのあとついてきたミルクとガムシロップを入れた。

「あのね……あ、ミルク入れてるんだ。珍しい」

 真帆は僕の手元を見て言った。

「ああ。ま、たまにはな」

 彼女の言うように、僕はホットのコーヒーは大抵ブラックで飲む。アイスコーヒーにはシロップもミルクも入れるが、ホットのブレンドに何かを入れて飲むのは本当に珍しいことだと、自分でも思った。特に理由などなく、それこそ、「たまには」である。

「変な意味にとらないでね」

 真帆は表情を固くして言った。

「うん」

「巧ちゃんは、幽霊とか信じる?」

「え?いや、いるかもとは思うけど、どっちとも確信めいたことはいえないな。見たことも無いし」

 唐突な質問に、僕はそう答えた。

「どうして急に? お化けでも見た?」

 言うと彼女は首を振って、

「ううん。そうじゃなくて、その、死んだら魂ってどうなるのかなって思って。あのね、例えば、クローン人間とかが出来たとするじゃない? そうしたら、宿る魂もクローンなのかなって思って」

 そこまで聞いて、なんとなく分かった気がした。少し前だが、そんなような映画を真帆と見に行ったのだった。彼女の父は医者だし、複製臓器をはじめとして、人体の部分的な複製を作る研究もしている。きっと、真帆にとってあのクローンの映画は現実みがあったのかもしれない。

「実はね。昨日、そのことでお父さんとちょっと言い争いになっちゃって。いずれはクローンをつくることも十分可能だ、なんていうから、そうしたら死んだ人の代わりを作るの? ってところから意見が食い違って……」

 なるほど、確かに難しい話である。万が一、クローンなんてモノが出来たら、正真正銘その人なわけだから、社会的には問題ない。いや、表面的に考えると、生きている人間にとっては問題ないのか。あとは、それこそ魂論である。失われたオリジナルの魂を尊重して、それを唯一、他に代わりは存在しないと定義して死者への冒涜とするか、死んだ人間によって出来た生者世界の穴を完璧な形で補充し、生きている人間の絶望、悲しみの解決を尊重し、よしとするか。ま、仮にそうしても、ある程度まで生きた人間なら、その人の老衰で他界するまでの寿命をほぼ正確に知ることが出来る現代だ。それによって人が増えすぎる心配はない。

 だが……。

「私は、嫌だな。自分の愛する人が死んじゃって、クローンができたとしても。私は素直に喜べない。だって、最初に死んだその人の魂はどうなるの? 蔑ろになるわけでしょう?そんなのって切ないわ」

 真帆はそう言って、とても苦しそうな顔をする。これは、自分が死ぬ立場になったときにもそうされたくはないという感情の表れなのだろう。

 僕も彼女と同じ意見だ。やっぱりクローンなんてものは、死者への冒涜でしかない。人命は蘇らないからこそ、尊いのだ。

「そうだよね。よかった。巧ちゃんが同じ意見で」

 僕の見解を話すと、真帆はホッとした表情で言った。

「あ、ごめんね。突然変なこと言って。それも、お父さんとのけんかのことなんて」

「いいや、なんか、真帆の家のことが垣間見られて良かったかも」

「え?そう?なんか恥ずかしい」

 彼女はそう言って笑った。

「そうだ、この前薫がね……」

 そこからは、本当い他愛も無い話だった。いつもと一緒だ。これでいい。僕はこんな些細な日常しか望まない。他に欲なんかない。生活環境や時代は少しずつ変わっても、こんな感じで生きられればそれでいいではないか。いや、それに越した幸せなどない。

 でも僕は、僕たちは結局気付かないふりをしていたかっただけなのだ。『生』という名の砂時計が、どんどんと下に落ち積もっていることに。

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