第10話

「夏だね」

 伊瀬の呟きに、それとなく答えることにする。

「ああ、夏だな……」

 何とも生産性のない会話である。

「なんか、暇よね」

「いや、受験勉強とかあるだろう」

「何まともなこと言ってるの?」

「俺、最近勉学少年だし」

 僕がいうと、伊瀬は笑った。

 今日は七月某日、夏休みの一日前。つまりは終業式だ。

 しかし、その式もすでに三十分前には終了し、ホームルームも完了してほとんどの生徒は下校したはずである。

 なのに、どうして僕は伊瀬と二人で夏の青空を見上げているのかといえば、答えは単純で、真帆とその他の人々を待っているからだった。ちなみに今僕たちがいるのは、学生食堂の延長にある野外カフェテリアである。

 明日から夏季休校とはいえ、受験生は派手に遊ぶわけにもいかないが、数日ぐらいはみんなで何かするか、ということになった。そしてその計画をみんなで練ろうとしたのだが、お人好しの真帆は担任の書類伝達に使われ、榊は科学部の引継ぎのため部活に顔出し、他は運悪く掃除当番だった。それでもめげない僕たちは、カフェテリアで落ち合うことにしてそれぞれの用事へと向かった。僕としては、真帆と一緒に書類を届けに行くつもりだったが、伊瀬を一人で待たせるのも気が引けたので大人しくカフェテリアで皆を待つことにした。そういうわけで、僕と伊瀬は珍しいツーショットでアイスコーヒーを飲んでいるのだ。

「確かに、最近頑張ってるよね。真帆と同じ大学行くんだって?」

 伊瀬はコーヒーのストローをくるりと回しながら言った。いつものように少しばかり伸びたミディアムストレートが僅かに揺れる。さすがは我が高校の人気を二分する美少女の一人だ。何気なく足を組んでティータイムを楽しんでいるだけでも、かなり絵になる。

「まあな。その方がいろいろと便利だしな」

「別々の大学に行って、変な虫がつかないか心配しなくてもすむしね」

 イタズラっぽい眼差しで伊瀬が言う。僕は伊瀬と話すたびに必ず、真帆に関してのことで茶化されているような気がする。その内容は全部事実だから、反論のしようもない。

「何でそんなに真帆一筋なの?」

 伊瀬は涼しい顔で結構深いことを聞いた。

「何でって、本気で好きになったら当然じゃないのか、こういうのって」

「あんた、恥ずかしいことを堂々と言うわね。そうね、そうなのかも知れないけど、男って面倒くさいような付き合いを嫌うじゃない? あ、誤解しないで。真帆は病弱だから気をつけることも多いだろうって、それだけの意味よ」

 自分で言った言葉に少し後ろめたさを感じたような伊瀬は、すぐさま説明を付け加える。

 説明を付け加えてもらわなくても、僕は最初から伊瀬の言いたい意味は分かっている。そもそも僕たちの仲間の中には、真帆を病気の面で特別な目で見ている人間はいなのだから、深い意味なんてないに決まっている。

 しかし、伊瀬がわざわざ言うのも、実際に真帆と付き合って、真帆を絶えず気に掛けている僕に、「大変だろう」とか、「よくマメに気が付くな」とか言う人間が多くいるからだろう。真帆の本当の病気なんて知ってもいない連中なのに、校内で倒れたことや定期的に入院していることだけから憶測して、僕が彼女について気に掛けていること、心配していることを勝手に「面倒くさいこと」と考えてくれるようだ。ご親切にどうも。

 でも、バカを言っちゃいけない。僕はそれを面倒くさいなんてことはおろか、ほんの少しも嫌だと感じたことさえない。僕が気に病んでいるのは、いつだって真帆の体調であり、真帆を気遣うことそのものではない。その時点で、論点がずれているともいえる。

「それは人それぞれだろ? まあ、俺だってややこしいのは嫌いな方さ。面倒くさがりだしな。けど、それとこれとは違うんだよ。俺はそもそも、面倒だなんて思ってないから、考え方の入り口から違うんだろうな」

 僕はアイスコーヒーのグラスの汗を指で一筋拭いながら言った。

 伊瀬も解っていないな、と心の中で冗談半分に首を振る。真帆を気に掛けて、世話を焼いて、自然と頼りにされることが、僕にとってどれだけ幸せか解るまい。

『君がいるから、多少体調の優れない時でも安心して学校に行かせられる』

いつだったか、真帆のお父さんに言われたことがあった言葉だ。その時は真帆が倒れた直後だからそんなに感じなかったが、あとから考えるともの凄く嬉しかった。

 真帆はいつも僕に迷惑を掛けていると心のどこかで思っているみたいだけど、そんなことは全くない。頼られ、そういう意味において甘えられることが、僕の誇りでもあるのだ。

「真帆は幸せ者だねえ。こんなにも想われているなんて」

 伊瀬はそう言って大げさに笑った。

「そう思ってくれてるといいんだけどな」

「ううん。これは私の、第三者の視点からの意見。相対的に真帆は幸せ者よ」

 自信満々に言って、腕組をする。

「やっほ、お待たせ」

 心地のよい旋律の声が、僕の後方から聞こえた。

「なんの話してたの?」

 真帆だ。

 そそくさと回り込んで、僕の前の席に座る。僕と伊瀬がいたテーブルは円卓の五人掛けなので、真帆が座ってもまだ二つ空きがある。

「ん~ナイショ」

 僕の方をちらりと見て、思わせぶりに伊瀬が言う。

「む~。あ、私の悪口言ってたんでしょ?」

「違うわよ、もっと、秘密なこと」

「ええ~なになに?」

 からかう伊瀬に、真帆は知りたがりの子供のように聞く。こういうときの真帆は、非常に幼く見える。

「なんてね、本当になんでもないのよ。安曇が真帆を溺愛してるから、真帆はさぞかし幸せ者ねって言ってたの」

「なぁに? そんな恥ずかしい話をこんなところでしてたの?」

 あら、まあ、といった感じの仕草でおどけたあと、何だか満足そうに笑いながら真帆は言った。

「でもね、自分で言うのも変だけど、実際私は幸せ者だと思うよ」

 その小春日和のようなぽけぽけとした表情に、伊瀬は深い溜息を返した。

 僕は僕で、何となく照れくさくなってしまって、解けた氷のせいで幾らか薄まったグラスの中身を吸った。

「あんた達って、けんかとかしないの?」

 体制を崩して、伊瀬が頬杖をついた。

 けんか。

 そりゃあね、あるさ。

僕たちはドラマの中の無意味にハッピーなカップルでもなければ、小説内の都合の悪いことを一気に省いた恋人同士でもない。

多少、アホみたいに仲の良いことは認めるが、それだって意見の食い違いはあるし、すれ違いだってある。しかし、どんなにその時本気で怒っていても、数時間としないうちに声を掛けたくなる。話がしたくなる。お互いに、どんなにぷんすか頬を膨らせても、それで相手を本気で嫌いになんかなれはしないのだ。だから僕たちはどちらからともなく仲直りする。そして決まって、あとから考えてみれば、何ともくだらない理由でけんかしていることに気付くのだ。

「そりゃ、あるわよ。ね?」

 真帆は即答して、僕に振る。僕は伊瀬の視線が自分に移るのを合図に、「まあな」と答えた。

「ウソぉ? あんたたちが?万年幸せムード全開、何年経っても新婚当時のままで時が止まっている夫婦のような、永遠に進歩することのない化石カップルの安曇、麻生ペアが?」

 誉めているようで、結果的にはなかなか酷い中傷を交えながら、伊瀬が言った。

「伊瀬、それは現在進行形でけんか売っているのか?」

「ゴメンね、ついつい本音が出ちゃってさ。でも、意外ね。あんたたちがけんかしてるなんて。してるとこ想像付かないもん」

 そういえば、僕らのけんかが二日以上続いたこともあったが、学校のみんなが気付くような露骨ないがみ合いは、校内でしたことはない。まあ、けんかしている最中とはいえ、二人ともどことなく仲直りの機会を窺っているわけだから、目に見えるほどの仲の悪さはないのだろう。そうなると、伊瀬の言うように僕たちの間にはけんかなんて存在しないと勘違いする人間が出てきても可笑しくはない。

「すみません、アイスミルクティーを一つ」

 近くまで来たウェイトレスの学生に、真帆が注文をする。

「ねえねえ、どんなことでけんかするの?あ、それは秘密?」

 今日の伊瀬はいつになく興味津々で僕たちのことを詮索してくる。常日頃から抱いていた疑問や関心が募りきった結果だろうか。

 僕と知り合う前は、ずっと伊瀬が真帆の体調の面倒を見ていた人物だから、そういう意味では、この二年余り、何となく手持ち無沙汰な感じがあるのかも知れない。娘を嫁に出した父親の気持ちとでも例えるべきだろうか。とは言っても、真帆と伊瀬は親友だから校内、外は問わず一緒にいることも多いし、結局何かと気に掛けていることでは、僕も伊瀬も変わらないのでそれがどうということもない。はずだ。

『なんか、あの子見てると危なっかしいじゃない?だから、面倒見てあげなくちゃって思って、一緒に色々するようになったのが、友情の始まりだったのかもしれないわ。だから、今は安曇に横取りされたって感じね、正直言うと』

 真帆と僕が付き合い始めてしばらく経った頃、伊瀬はそんなことを言っていた。半分は冗談だっただろうけど、もう半分はきっと本心だと思う。それだけ伊瀬は真帆を大事に思っているのだ。伊瀬はあまり詮索しては悪いと思っているらしく、僕たちのことについて、最低限当たり障りのないこと以外、率先しては干渉してこない。それもきっと、結構我慢しているのだろうから、こうして聞きたくなるのも無理はない。

「う~ん、そうね。後から考えると、くだらないことなんだけど、その時は妙に腹が立ったりして、それでけんかすることが多いのよ」

 のんびりとした口調で、真帆が答える。

「そう。俺が真帆の話を聞いていなかったり、俺がちょっと違う娘を、部分的に見ていたり、俺が……」

「つまり、ほとんど安曇が悪い、と」

 僕のセリフを遮って、呆れたように伊瀬が言った。

「まあ、真帆も真帆でヤキモチ焼きなところがあるから、余計にって訳ね」

伊瀬は言って、うんうんと納得したような仕草をした。

真帆は口を尖らせている。

「まあ、そんなとこ」

 僕は少し適当に答えて、再び空を見上げた。

 青い。 

 白い雲から時折漏れる日の光が、僅かに眩しい。

 遠くに鳥も飛んでいる。あれは……とんびか。珍しいな。

「それで、薫はどう? 好きな人とかできないの?」

 今度は真帆が伊瀬に聞く。

 女子の大得意とする恋話が勃発したようだ。

「何言ってるの。真帆、仮にもあたしたち受験生よ? 今更、恋がどうのって言っている場合じゃないでしょう。付き合っていたカップルだって、しばらく会わないようにするってのに、新しい恋なんて論外よ」

「あ、そうか。でも、恋しているが故に、勉強が捗るってこともあるでしょ」

 真帆は少し考えたが、持ち前の独創思考で反論する。

 伊瀬の一般論はご尤もだが、真帆の意見も極めて正しい。だって、その『故に勉強が捗』っているのは、この僕だ。驚くなかれ。真帆と病院での勉強を始めてから僅か三ヶ月、僕の偏差値は十四も上がった。五十一から六十五。まだ点数に波があるものの、得意科目は常に八割から九割正解することができる。どうだ。人間、何がきっかけで頭が良くなるか(嫌いなものに対してやる気がでるか)分からないものだ。真帆の成績の伸びは、何となく悲しくなるから言いたくない。僕は僕なりに必死でやっているのだが、彼女は特に勉強時間を増やしているわけでもなく、病室の勉強会の時間が増えただけなのに、この前の校内模試で学年三位。もともとできの良い頭が、受験だってことで気合い入れただけでこれだ。切なくなる。今更自分の彼女のおつむの良さに驚いたり、めげたりするのもバカらしいので気にはしないが、実際凄いものは凄い。

「そうだけど、あたしはね、もともとそういうの苦手だからいいのよ。ひとまず様子見」

 伊瀬は言いながら手をパタパタと振った。

「ってことは、好きな人いるんだ」

 すかさず、鋭い切込みを入れる真帆。彼女の時折各所で見せる鋭さには、驚くことも多い。

 伊瀬はこれ以上の失言はしまいと、ワザと口をムンズと一文字に閉じた。

「おう、集まっているな、諸君」

 やっと残り二人の登場だ。

 明も町田も用事とはいえ遅く来たくせに、妙に偉そうな登場の仕方だ。

「待ちくたびれた」

 そんな僕の言葉に見向きもせず、二人はそれぞれ開いている席に腰を下ろした。

「それで、何をするか?ってことだが」

 町田が本題を的確に切り出す。大概この手の話し合いで司会をするのは町田である。いないときは仕方なく僕になるけど。

 町田の質問に、各々がそれなりに思考をめぐらせたり、思考をめぐらせる振りをする。真帆なんかは、確実に真剣に考えているのだろうな。

「海じゃないか、やっぱり」

 いつもは率先して意見する方ではない明が、ぼそりと呟いた。

「賛成」

「いいんじゃない?」

「うん」

 町田を除く全員が、それぞれ賛同を述べる。

「そんじゃ決定……って、早っ」

 総括した町田が、微妙なツッコミを入れた。

「いや、いいことだろう。早めに決まると言うことは、それだけ後の時間を有効に使えるということだ」

 明らしい意見である。

 一方、さっさと決まりすぎて肩透かしを食らったような町田は、つまらなそうに、アヒル口になっていた。

「で、他は?」

 気を取り直して、町田が続ける。

「温泉なんてどうかしら?」

 こういう突飛でもないことをいうのは、真帆しかいない。

「のんびりと温泉って良くない?」

「いいけど、日帰りは逆に疲れるわよ?」

「そうかなぁ……。じゃあ、泊りがけで」

 まあ、そうくるとは思っていた。

 この子はホントに危険な発言をなんなく言うな、と感心してしまう。

「あのね、真帆。この時期に学生だけで、しかも男女で泊りがけの温泉旅行に頷く親がいると思う?宿なり温泉なりツアーコンダクターなりに知り合いでもいない限り……」

 諭すように言う伊瀬が途中で何かに気付いたように考え込む。

「ね?よ~く考えると、いないでもないでしょう?」

 伊瀬の思考を悟ったらしい真帆は、人差し指を優雅に立てて言った。

 僕たち男三人には、なんのことだかさっぱり分からない。

「そういえばあたしの伯母さん、旅館やってるんだったわ」

 なるほど。だが初耳だ。

「そうなのか?」

 町田が尋ねる。

 聞くところによると、伊瀬の父方の伯母が、旅館を経営しているようだ。小さい時はよく行っていたが、最近は新年の挨拶ぐらいしか顔を合わせていないのでほとんど忘れていたらしい。そんなインパクトのあることをうっかり忘れられる伊瀬は、真帆に引けを取らない大物だと思う。

「そうだね、頼んでみる。きっと大丈夫だとは思うけどね」

 よく覚えていた、と真帆は伊瀬に誉められていた。その光景はなんとなく、犬と飼い主を思い起こさせる。とまあ、それはどうでもいいことである。

「わあ、温泉。楽しみだなあ」

 瞳に星を輝かせて、真帆は言った。

 ふと友人に目をやる。少しばかりにやけている町田は、きっと真帆のそれとは違うことが楽しみでありそうだ。明はいつも通りの納得顔で返すだけだ。

 こういうことは、仕事が早く、勢いのある仲間の誰かに決めてもらうのが一番良い。イベントは好きだが、原案を出すより出された案を成功に導くことの方が僕は得意だし好きである。遊びの計画も同様で、ちゃっちゃと決まった後が僕の出番だと思っている。

「それじゃ、日にちを決めるか。温泉は伊瀬の叔母さん次第だからとりあえず保留。そんでもって海だけど、場所と時間帯、日にちによって込み具合も違うだろうから……そうだな、まずはみんなの予定から聞こうか。休み中ダメな日を言ってくれ」

 僕は学ランのポケットから常時装備している手帳とボールペンを取り出して言った。

 高校最後の夏は、勉強だけで終わる気配は全く無さそうである。


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