第9話

真帆の病気は、一時期安定の様子を見せた。よくなるでもなく、悪くなるでもない。今までもそういった状態に変わりはなかったのだが、今回の違う所は、学校へは来ていても帰るのは家ではなく、病院であるということだった。もちろん毎日ではないが、三日おきから酷いときは一日おきだった。こんなことは始めてである。つまりは、学校へ行きつつ入院しているようなものだ。

 病院の病室は静かで、空調も調整さえているため絶好の勉強スペースである。僕は最近、真帆と一緒に病院に寄って数分で終わる彼女の検診を待ち、そのあと病室で、二人勉強するというのが日課になっていた。

 幸い僕と真帆は得意分野が違うので、お互いの弱点を補い合える。きっと僕の人生において、こんなに真面目に勉強するのは最初で最後に違いない。勉強が大きらいな僕ではあるが、そんなことは言っていられないし、二人でする勉強はそれほど嫌ではなかった。しかし、こんなことを毎日欠かさず何時間もやる習慣のある人間の精神構造は、決して理解できる世界でのものではないと思った。きっとそういう人々とは、生物レベルでの決定的な違いがあるのだろう。

「なんか早いね」

 英語の問題集を自己採点し終えた真帆が、夕暮れの空を窓越しに眺めて言った。

「ん?何が?」

 僕はまだ問題の解説をじっくりと読んでいる。

「だって、あと少しで球技大会でしょう。それが過ぎたら期末試験で、夏休みよ」

「まあ、言っちゃうと早い気もするけど、実際は一ヶ月弱あるんだからそうでもないさ」

「う~ん、そうかな。今年は夏祭り、行こうね。きちんと浴衣着て、美味しいものいっぱい食べて、花火見て。ちょっと夜遅くまで遊ぶの」

 去年は入院で行けなかったから、特に気にしているのだ。それでなくても『祭り』の好きな真帆だ。そんな彼女が二年連続で夏祭りを放棄するのは、最早沽券関わる問題なのかも知れない。こんな時、決して受験のことを心配しない真帆の精神に僕は尊敬する。すごい度胸だな、と。

「おう、そうだな。で、そこら辺にいる家族やカップルにさりげなく見せびらかしてやるのな。俺の彼女美人だろ?って」

「もう、またそんなこと言って。私としては、他の人になんて見られたってどうしようもないのに……」

「まあ、俺だって、他の男なんかに見せたくはないさ。見せたくない、けど、見せびらかしたい。二律背反の矛盾があるんだよ」

 赤ペンをクルリと回しながら僕は言った。

 真帆のことを他の男がじろじろ見るなんて許せない、と思うにもかかわらず、見てくれよ、可愛いだろ?俺の彼女なんだよ、と自慢したいのも事実。だって、偏りの無い目から見ても可愛いんだからしょうがないじゃないか、と言い訳してみたりもする。

「でも、その気持ちも何となく分かるかな。私も自慢したくなる時あるし。私の彼氏は、世界で一番優しい人よって。誠実で真っ直ぐで、恥ずかしいこともしっかり言える、最高に格好いい人なのよって」

 ものすごく照れながら言っているのが表情から見て取れる。それでも、そう言う真帆の瞳はどことなくキラキラと輝いているように見えた。

 僕は、嬉しいのやら恥ずかしいのやら態度に困ったが、気分がいいことは確かだった。

「いや、それは誉めすぎ」

「そんなこと無いわ。知ってる?今まで黙っていたけど、巧ちゃんのこと好きって思っている子結構いるのよ」

 僕は思わず、『へ?』を顔全体で表してしまった。

「ホントよ?」

 黙っている僕の態度を、疑っていると勘違いした真帆が念を押すように言う。

 真帆がそのような本人の評価に直接関わることについて、例え相手を喜ばせるためでも、こんなウソを言うような娘じゃないのは知っているから、少しも疑ってはいない。でも、実際は疑いたくなるようなほど突拍子も無い話ではある。

「俺が?全然知らなかった」

「うん。一年生の頃からよ。みんなでそういう話になった時に、誰がいいか噂し合ったの。最初は、榊くんとか無難な名前が出ていたんだけどね、ある子が巧ちゃんの名前を出したら、みんな『実は……』って言い始めて。普段は『女にはさして興味ありません』みたいな顔しているのに、ふとした時の優しさが何だか女心を擽るのがいい、ってね」

 そんなつもりは全くない。女に興味あるし、とりわけ優しいとも自分では思わないのだが、まあそのへんは結構相違があるものだ。

自分の、女子における評価なんて初めて知った。何だか違う世界のことを垣間見たようで、新鮮な感じだった。それにしても、榊は無難なのか。

「まあ、その言い出しっぺっていうのは私なんだけどね」

 真帆は顔を赤くしてもごもごと言った。恥ずかしいなら言わなくてもすむことなのに、正直に言ってしまうあたりが彼女らしい。

 それにしても本当に驚いた。女子とは別に気兼ねなく話すし、嫌われているとは決して思っていなかったけど、男として人気があるとは思いもつかなかった。告白などはされたことがないから、隠れファンが多いということらしい。

「いやあ、本当に全然知らなかったな。なんだ、もっと早く教えてくれればよかったのに」

 僕は何気なく言った。ただ、その手の話は知らないよりは知っていた方が、気分が良いと、それだけの感覚だ。

「それは、わざと言わなかったの」

 ぶつぶつと小さな声だったが、僕にはしっかりと聞こえた。

「え?」

「だから、わざと言わなかったの。それで、他の女子の方に気がいっちゃったら、いやだったから」

 言葉の出始めは威勢が良かったが、最後の方はやはりぼそぼそと照れたような声になる。

「あはは、そうなんだ」

「ゴメンね。私、結構陰湿な女なのかも」

 口調は明るいが、しょんぼりと俯く。きっと三割方本気で、軽い自己嫌悪に浸っているのだろう。こういう生真面目な所は真帆の良い所であり、悪い所でもある。

「別に、悪いことじゃないだろ?好きな人を射止めるために、不利になる要素を省く。それで誰が傷付いた訳でもないんだし、普通のことだろう。俺としてはかなり嬉しいしな」

 つまり、それを聞いた当時の僕が、他の誰かのことを好きになっては困る、と彼女は思って言わなかったのだから、素直な真帆がそうするほどに僕のことを思ってくれていたことになる。一年の頃は片思いだと思っていた僕だから、そういう話を聞くと凄く嬉しかった。

「でもね、多分一番最初に巧ちゃんの魅力に気付いたのは私だよ。一緒に週番とか委員とかやってる時に、『あ、いいな』って思ったの。さりげない所で、見せる優しさが妙に気になってね」

 壁の向うに過去を見ながら、真帆が再び頬を染める。それは見ているこっちが擽ったくなるくらいの、幸せそうな顔だった。そんな彼女が愛しくてたまらない。普段は露骨に言わないだけに、こういう時の言葉は内蔵にまで響き、危うく一発K・Oされる所だ。

「ねぇ、巧ちゃんは最初、私のどういうところがいいなって思ったの?」

 僕に目を戻して、興味津々な表情で聞き寄ってくる。

 僕は少しだけ考えた。僕の場合、完全に近い一目ぼれだったので『これ』というのを挙げろと言われると、悩む。彼女の全部が全部、良いのだから……あっ、思い出した。

「俺の場合は一目惚れだから何処がっていうの悩むけど、そうだな、あれかな、日誌渡した時のこと」

「日誌?」

「そう。俺が日誌を渡そうとして、偶然真帆の手に触った時の仕草」

 まだ、何処が好いといわれているのか分からない表情の真帆を見ながら、僕は思い出していた。

「軽い悲鳴を上げて身を引いただろ?その時の反応とか、身を引いた時の形とかが何か凄く純な感じがしてさ。ほら、最近あんまりそういうの気にする女子っていないじゃん。こういう時代だし。だからかな、それがやけに清らかに見えて、『あ、女の子らしいな』って思ったんだ」

 事実それで僕は彼女に二目惚れしたのだ。

「えへへ、ゴメンね。そうなのよ。私、男の人に対して潔癖症なところがあるの。ううん、『あった』のかな。まあ、男兄弟はもちろんいないし、男子の幼馴染もいないから。おまけに、うちは躾とか結構厳しくされてきたから、特にね。だから、告白されるのも苦手なの。よく知らない男子からとだと、何となく怖くなっちゃって」

 真帆は照れ笑いをしながら、「だから、何も考えずにとりあえず『ごめんさい』しちゃうの」と言った。

 彼女はそれを『潔癖症』と表したが、僕は違うと思った。ただ、高校生にしては酷く純粋でピュアで、微塵も男慣れしていないだけなのだ。それが悪いことだとは全く思わない。むしろ、僕としてはそうでなきゃ困る気さえする。

「いいじゃないか、結果として、俺はそれに惚れたんだから」

 僕が言うと、真帆ははにかんだように視線を落とす。顔は真っ赤である。

「でも、嬉しいな。真帆が一年の頃からずっと気にしてくれてたなんて、思いもよらなかったから」

 真帆が自分を好いているという感情を露にしてくれることは、過去のことであっても、ものすごく嬉しい。真帆は、いざ伝える時は素晴らしいほどストレートなのに、前述の通り、口にする機会が極端に少ないので、言葉からそれを確かめられることは珍しい。

正直、今でも僕は不安でいっぱいだった。大っぴらに人気のある真帆を常に振り向かせておくためには、それなりの頑張りをせねば、と、勝手に目標を決めて努力をする日々である。そんなことでどうこうと変わるほど彼女の気持ちは、人の気持ちは浅薄でないのは知っているが、これは単純に、少しでも格好いいところを見せたいと思う心の現われなのだ。

 勉強ができないよりは、できた方が彼女は喜ぶだろう。例えば体育祭の男子100メートルで、二位よりは一位の方が、彼女は鼻が高いだろう。真帆の友達に、「真帆の彼氏冷たくて怖そうだよね」とか、「何にもできない人よね」とか言われるよりは、「真帆の彼氏優しくていいよね」とか、「何でもできるから羨ましいな」とか言われた方が、真帆も気分が良いだろう。といった感じだ。

 見栄や世間体と言われればそこまでかもしれないが、この現代において『周りの目』というのも馬鹿にできなのは事実だし、結局は、少しでも相手がいい思いをするように、という一種の思いやりではないかと僕は思う。

「これで私が病気じゃなかったら、文句なしのベストカップルなのにね」

 突然そんな言葉を返す真帆。冗談交じりの軽い口調で言ったのだが、それがものすごく寂しそうで嫌だった。

「バカたれ。真帆が病気だって俺たちはベストカップルだぞ」

「でも、私がこんなんじゃなかったら、もっと色々な所にも行けるし、遊べるし……毎回巧ちゃんにお見舞いなんて、心配なんて掛けなくて済んだのよ?」

 いつしか、真帆の表情は暗いものになっていた。決して卑屈にならない彼女が、こんなことを言うのは初めてだった。

「心配は心配だ。それは、確かに気分の良いものとは言えない。でも、だから迷惑だとか、不満だとか、思ったことは無いよ。そんなこと思うくらいなら、俺は恋人でいる資格なんかない」

 僕は強い口調でいった。僕の思いが、考えていることが、誤解なく全部伝わるように。

「でも私は、私が巧ちゃんにしてもらっているように、逆にして上げられることはないわ」

 本心の叫びだろう。いつも心配して、見舞いに来る恋人。体調の変化に、常に気を配っている。そこに大きな引け目を感じているのだろうか。そんなこと、気にすることないのにと思うが、通常なら気にするなと言う方が無理な話ではある。

「その気持ち。何かしてあげたいって気持ちが真帆にあるだけで、十分なお返しだよ。それに、愛ってのは無償のものなんだから、それでいいんだよ」

 僕は優しく言った。何かをしてほしくて、真帆を心配しているのではない。見舞っているのではない。そこにあるのは、早く良くなって欲しいという、純粋な願いだけ。

「分かる。分かるけど、そんなの、あなたの勝手な言い分に過ぎないわ。私の気分は、全然収まらない……」

 その通りかもしれない。逆の立場でものを考えれば、その気持ちも痛いほど分かる。

 お互いを思いやっているだけなのに、気まずい空気が流れるのは、こういう時だ。

「じゃあ、こうしよう。真帆の病気の状態、俺には隠さず全部教えること。良くなったとか、悪くなったとか、言いにくいことでも絶対に言うことな」

 すると真帆は一瞬困った顔をしたが、すぐにうんうんと頷いた。

「それと、弱音を吐きたくなったら、今日みたいに俺に言え。俺はきっと、真帆のくじけそうな気持ちを取り払ってやるから。そして遠慮なく頼れ。頼りないかもしれないけど、男は惚れた女に頼られるのは嬉しいものだからさ。俺は、真帆が笑っていてくれるのが、一番いい」

 真帆は、喜びと悲しみを憂いで割ったような顔で、コクコクと無言で頷いている。くっと閉じられた唇が、微かに振るえていた。

「あと、そのうち二人っきりで、泊りがけでどこか行こう。そして、その夜はもちろん……」

 そこまで言うと、彼女が顔を上げて大きな瞳をこちらに向けた。

 僕はその続きを真帆に耳打ちしてやった。

 彼女はそれを聞いたあと、少しの間固まっていたが、みるみるうちに真っ赤になっていく。

「ふふ。冗談だよ」

 僕はその変化があまりに判りやすいことに可笑しくなった。

ストップ効果の切れた真帆が、口を尖らせる。

「もう、またそんなこと言って。でも冗談か。ちょっと残念」

「ぇえ?」

 彼女はそっぽを向いて、澄ましている。

 もともと、下ネタでも卑猥な話でもさらりと流す真帆だが最近はその腕もさらに上がり、何処までが冗談か分かり難いときがある。

「まあ、大学でも病気でも何でも、愛の力に不可能はないさ」

 僕はとりあえず総括した。

「巧ちゃん、言っていて恥ずかしくない?」

「ないね。本気でそう思っているから」

「うん、そうだね。愛の力に、不可能はない、か」

 真帆はそう言って、窓越しの空に微笑んだ。

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