第8話

大抵の人には、生活の中心となる場所が存在する。それは仕事場だったり、家庭だったり、学校だったり、様々だがその人が一番重視している空間こそ、生活の中心となる場所なのだと思う。

僕にとってのそれは、真帆と過ごす時間である。別に他の場所を軽視しているわけではないが、家にしろ、学校にしろ、特に何も考えなくてやっていけるし、逆に考えることといえば真帆のことしかないので、結局彼女との時間が中心となるのだ。

少し前までは、『どれが生活の中心か』なんて意識さえしなかったが、最近はしなくてもよいような哲学を勝手にやる機会が増えたせいか、生活の場なんてことを真面目に考える。恋は人を詩人にするという言葉があったが、作詩は哲学を伴うのでその通りかも知れない。

とにかく、真帆が中心ということは、真帆が入院すればその舞台は病院になるわけだ。

真帆が倒れてからまだ二日しか経っていないので、彼女は当然、入院している。一般の個室に移ったとの連絡を受けたので、また暫くは彼女を見舞う生活が続くのだろうと思う。

「…………」

 僕は今日、いつもより少しだけ早い時間に病室へ来た。

開校記念日で休みなのと、天気がとてもよかったのが原因かもしれない。いや違うな。昨日は学校の関係で面会時間を過ぎてしまって来られなかったから、今日は絶対に会いに行こうと思って張り切っていると、自然と早く着いてしまったのだ。

「……すぅ……」

 病室をノックしたが、返事がないのでそのまま入ると、そこには真帆の姿は無かった……のではなく、珍しく彼女はしっかりと眠っていたのだ。

 僕はその姿に見入ってしまった。

 なんて綺麗なのだろう。ここ最近で伸びた長い髪、いつものとおり白い肌、控えめな口元。

例えて言うなら、眠れる森の少女である。美しいのに、どこか愛らしさのある寝顔だった。僕は思わず、起こさないように優しく髪を撫でた。

「……ん……」

 真帆が、多分無意識に少しばかり反応する。

おでこにでもキスしたかったが、さすがにここではいけないと思い、何とか留まる。ニ三度撫でて、手を引っ込めようとしたら、真帆の細い手に捕まってしまった。

起きたのかと思って、よくよく見ると、そうではない。これも無意識に起こした行動だ。それにしては、しっかりと手を握っているけれど……。

僕は掴れている手をスライドさせて、真帆の手のひらを握り直した。細くてしなやかな指。男の中でもとりわけ大きい方ではない僕の手だが、それでも真帆の手はすっぽりと納まってしまうほど小さい。

そういえば、こんなにしっかりと彼女の手を握ったのは、ニ、三週間ぶりだった。

「早く治しちまえよ。俺たち受験生だぜ?こんな正体不明の病気にかまってる暇は無いっての」

 僕は眠っている真帆に小声で言った。

 受験生。そうなのだ。自分で言って自ら再認識してしまった。大学受けるんだよな、と当然のことをいまさら思う。これといってなりたい職業はないから、大体の目安を決めて大学を選び、学部を選ぶことになるだろう。もともと、デスクワークなんて大人しくやっていられる人間ではないので、一般企業の道は向かないと思う。警察とか、救助隊とか、難しいけれど、弁護士とかもいいかもしれない。おおよそで思い描く職業はそんなものだった。となると、法科を専攻するのがまず第一歩かと思われる。まあ、法律学科は比較的融通の利く学問だから、丁度いいと思う。

 僕は窓の外を見ながら、そんなことを考えていた。良い天気だ。青い空に白い雲、決して強すぎない陽光は、見ているだけで心が安らぐ気がする。

「ふふっ」

 小さな声に目を戻すと、真帆は目覚めていた。

「起こしちゃったか?」

「ううん。眼が覚めたら、巧ちゃんがいたから少し驚いただけ。それも、なんか渋い顔して外見てるんだもの」

 空いている方の手で眼をこすりながら、真帆は微笑んだ。

「眼、腫れてない?」

「ん?大丈夫だ」

 僕は真帆の目を覗き込んで言った。

「手、繋いでいてくれたの?」

 真帆の視線が、僕の手と彼女自身の手に注がれる。そういえば、握りっぱなしだったことに気付く。僕はそれをゆっくりと離した。

「ああ。でも、先に掴んだのは真帆だったんだぞ」

「私が?」

「そう、頭撫でてたら、『がしっ!』ってね」

 少しオーバーに言うと、彼女は「ウソぉ」と言って笑った。

「それで、調子はどうだ?」

「うん、まだ歩くと眩暈がするけど、大分いいみたい。ごめんね、毎度ながら心配させちゃって」

 微笑が薄らいで、いつかのようなすまなそうな顔で言う。

 心配な状態なのは確かに気分の良いものではないけれど、それを真帆が気にする必要はない。どんなに心配させられても、結果として彼女が無事ならそれでいいのだから。

「バカ、そんなこと気にするなよ。でもそう思うなら、無理はしないことだな。また真帆のことだから、体調悪いのに遅くまで試験勉強してたんだろ?」

 真帆は幾らか頷いて、「気をつけるわ」と言った。

 この勉強に対する真面目な姿勢が、いつもの好成績を産むのだろう。彼女の学力ならば、入学試験を受けずに推薦で入れる大学も少なくない。

 そういえば、真帆はどの大学のどのあたりを狙っているのだろうか。僕は真帆からその手の話を聞いたことがなかった。進学するのは確かだとは思うが、彼女が将来何をやりたいか知らないので、それ以上はわからない。

「なあ、真帆は大学どうするんだ?」

 僕は何気なく思いついたので聞いてみた。真帆の将来の夢を聞きたかったし、彼女と将来について語ってみたくもあった。

「大学?そうね、今の所は国立の芸大と私立の大学を幾つかピックアップしておこうと思ってるぐらいかな。具体的はまだ考えてないの。ただ、インテリアデザインがやりたいから、芸術学部の良いところがいいな」

 少し、驚いた。こんなことをいうと失礼だが、比較的のんびり屋さんの真帆が、将来についてこんなに具体的にしっかりと考えているとは思わなかった。何かよく分からないけど、立派に思えた。

「へぇ。でも、結構しっかりと決まっているんだな。俺なんてとりあえず法科に入っておこうかって、安易に考えているから、ちょっと尊敬するかも」

 自分から話を振ったのに、今ひとつ困ってしまった。こういう時に、将来の夢がしっかりしていないと格好がつかないものだな、と今頃思う。

「ううん、違うのよ。私は、へそ曲がりなだけ。お父さんは医者だから、娘も頭良くて当たり前で、やっぱり同じような職種に就くのは当然だと思われがちなのよね。でも、私そこまで成績良くないし、勉強なんて本当は大嫌い。世間体もあるから今までは何とか頑張ってきたけど、もういいかなって。まあ、お父さんとお母さんはもともとそういうの気にしない人だから、言われたことは一度もないんだけどね」

医者の娘というのも大変らしい。彼女の言うように、両親、本人は何とも思っていなくとも、周りがあれやこれやと憶測し、噂を立てているうちに、それがあたかも当然の真実であるように思われてしまうことはしばしばある。そしてそれを勝手な噂と切り捨て難いのも事実だろう。

「だから、勝手な人達の期待をばっさりと裏切って、私は感性を生かした、偏差値じゃ出来ないものに携わりたいって思ったの。ただそれだけ。インテリアデザイナーって、響きがいいからそういっているだけで、ホントはそれに順ずる仕事なら何でもいいと思っているの」

 彼女は「模様替えとかデザイン考案が好きなのは本当なのよ」と付け足して笑った。

 確かに、日頃真帆を見ていて、『勉強に真面目だな』とは思うが、『勉強好きだな』とは思ったことがない。

偏差値の高さと頭の良さは同義ではない、と常に主張する真帆は、その辺の何かを達観してしまっているのだろうか。

「でも私、芸大は行かないと思う」

 真帆は突然そう言った。

「どうして?」

「だって、芸大じゃなくても、その分野は学べるから」

 確かにそうだけど、今ひとつ僕の質問の真意と噛み合っていない気がする。僕は黙って曖昧に頷いた。

「それとも、巧ちゃん芸大に入ってくれる?」

「は?」

 僕は思わず間抜けな返事をしてしまう。真帆が芸術大学に行くのと僕とがどう関係あるのだろうか。

 少し間をおいて、僕は理解した。いつもはここで気付かないから、女心に疎いと真帆に叱られてしまうのだ。

「ああ。そりゃあさ、一緒の大学行けたらいいと思うけど、こればっかりは学部とか、偏差値の問題があるからな。なかなか難しいんじゃないか?」

「え~、一緒がいいなあ」

真帆は手足をバタつかせ、ワザと駄々をこねる真似をする。

「でもね、実際誰かと一緒の方がいいのよ。ほら、体のことがあるから。あ、だからって気にしないでね。これは、私が誰かに合わせなきゃいけないって事なんだから」 

 少し切なそうな顔をして言った彼女だが、後半は『口が滑った』と言った感じで真剣に弁解する。

「そうかぁ。じゃあ、俺頑張ろうかな。真帆が行ってもいいと思えるような、そこそこいい大学」

「だから、気にしないでよ。そういう意味で言ったんじゃないんだから」

「違うよ。これは真帆の為にするんじゃないの。真帆を納得させたい自分の為に頑張るんだよ。それならいいだろ?」

真帆は「もう」といって呆れたそぶりをしたが、目が笑っていた。

実際、そのためなら僕は断然張り切るだろうし、勉強をサボろうともしないだろう。そうなれば、必然的にいい大学に入れる可能性も高くなる訳で、いいこと尽くめだ。やらない理由がない。

「今度どの大学あたりがいいか、二人で決めような。まあ、俺はコレといってないから、真帆の意見が重視されることになるだろうけど」

 真帆は黙って嬉しそうに頷いた。

 僕は帰り際に、少し悩んだ末、真帆のおでこにキスをした。

 何だか気分が良かった。真帆と共に将来の話が出来たからかもしれない。真帆の考える未来に、僕の姿がしっかりとあったからかもしれない。とにかく、久方ぶりに僕の気分は晴れていた。

 病気が何だ。ずっと僕が傍にいて、支えてやればいいだけの話だ。特別な見返りなんて、何にもいらない。真帆と一緒に毎日を過ごせるだけで、十分な見返りではないか。

 僕には覚悟があった。ずっと彼女と共に病気と闘っていこうと。真帆はみんなに好かれる良い娘だし、僕だって決して悪い人間じゃない。ひたむきに頑張っていれば、きっと神様も仏様も力を貸してくださるに違いない。そんな奇跡があったって、いいじゃないか。


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