第7話
物事が起きるには必ず前兆があるものだ、と倫理の先生は言っていたが、とかく人生においての事象のほとんどは、何の前触れも無い事の方が多い。
今回のこともそうだ。今の今まで何とも無かったのに、真帆は倒れた。よくなっている前兆も無ければ、とりわけ悪化も様子もなかった。はずだ。
僕たちは三年生になっていた。新学期の始業式では、すでに受験の話をしっかりとされ、本格的に受験が始まることを実感した。それ以外は、悲しいほどにいつも通りだった。普通に学校に行って、普通に過ごす。
友達と下校時に寄り道もしたし、頻度は減ったが遊びにも行った。もちろん真帆との仲も順調だった。まあ、恋人同士だから、多少のケンカはあったりもしたが、それは以前もあったことで、結局は仲直りしてきた。
そう、すべてはいつも通りだったのだ。
しかし、五月の中間テストの最終日、開放感とじゃれあいながら真帆を待っていると、ふらふらとやって来た彼女が突然胸を押さえて倒れこんだのだ。
僕はすぐさまスマートフォンで、いつもの病院と真帆の家、そして真帆の父の病院にも連絡をして、なんとかその場を持ちこたえた。救急車が来るまでの応急処置は、主治医から聞いていたので手順どおりに行い、車の到着を待った。
近いせいもあって、数分もしないうちに救急車は到着し、彼女と僕を乗せて病院へと向かう。車内で僕の呼びかける声にも、真帆は反応しなかった。
緊急外来の特別入り口から真っ直ぐに、真帆は集中治療室に運ばれていった。
自分が何もできないという無力感に襲われるのはこんな時だ。
僕が集中治療室の前で待っていると、やがて真帆の両親が血相を変えてやってきた。
「真帆は、真帆は?」
真帆の母は慌てきっている。それも当然だろう。
「今、治療を受けてます。素人判断で、発作の酷いものかと思いますが、解かりません」
僕は真帆の倒れた状況をなるべく正確に話した。
真帆のことだろうから、具合が悪いのに無理をしてテスト勉強をしていたのだろう。いつも一緒に勉強する英語は一日目の教科だったので、校外で共に過ごしたのは二日前ということになる。もしも昨日夕方以降に一緒に居れば、今日こうならないように何らかの手が打てたかもしれないと、どうしようも無い後悔をしたりもした。
「……ありがとう。君が居るから、少し体調が優れない日に学校へ行かせても、それほど心配しなくて澄んでいるんだよ。それはきっと、あの子自身もそうだろう。いつも感謝している」
真帆のお父さんは、待ち時間の間に真面目な顔でそう言った。
「いえ、とんでもないです。俺には、絶えず気に掛けることぐらいしかできませんから」
謙遜もあったが、本心だった。もし僕が、何か大変な試練を乗り越えることで真帆の病気は治る、と言うのなら、何の迷いも無くそれを実行するだろう。例えば、指を一本切り落としたら、とか。そうだ、現実的に言って腕の一本くらいまでなら、平気で差し出すだろうと思う。僕の命までと言われたら、多分悩む。それは、命を真帆に捧げるのが嫌なのではなくて、僕が死んだら、例え真帆は体が健康になっても、悲しみに暮れて精神的に傷ついてしまうからだ。
自惚れかも知れないけど、それで万が一後でも追われたら何の意味もない。いや、追わなくとも、真帆のことだ、罪の意識で気が変になってしまうだろう。それじゃ誰も救えないことになる。
多分僕なんかよりも、今目の前に居る彼女の両親は、もっと自分の命と引き換えに娘の病気を治してもらいたいと思っていることだろう。
僕たちは待っていることしか出来なかった。
真帆の容態が安定した時は、もうすでに日は暮れていた。僕は真帆の眠っている様子を窺って、今日のところは帰ることにした。それでなくても面会時間はとっくに終わっているのに、真帆の両親が関係者だといってくれたおかげで今まで一緒に待つことが出来たのだ。医者でも本人にでも、実際の安否を聞きたいところだが、ここは真帆の無事だけ確認したら大人しく帰るのが筋だろう。
僕はまたしても歩きなれた病院の廊下を進み、集中治療室を後にした。
(ちょっと、根を詰めすぎただけだよな?)
僕は心の中で、真帆に語りかけていた。
(疲れから来る、いつもの発作だよな?)
不安だった。何もかも……。
よく怪我や病気を持っている人のことを『爆弾を抱えている』と表現するが、その通りだと感じた。まさに、いつ爆発して、木っ端微塵に吹き飛ぶとも知れない命。なるべく考えないようにしているから、普段は気に留めないが、こういう時にはそれを思い知るしかない。そして幾度と無く思考してきたことを改めて悔やむのだ。
どうして、真帆が。なぜ、治らない。彼女に限って……。堂々巡りの絶望感はいつでも僕を、僕たちを重く縛りつける。
真帆のあの顔色。苦しそうな仕草。
見ているだけでも、辛い。
しかし、これも考え方一つでいくらでも変わることだ。と、最近は思うようにしている。
原因不明の病なら、死ぬとも限らない。何も分かっていないならば、その可能性だってある。具合が悪くなるのは心配だけど、時々発作が起こるだけで死に至ることはないのかもしれない。
前向きに都合よく考えれば、真帆は『少し体が弱い人』であって、他にはなんの問題も無いといえる。そう思いたい。いや、そうでなければ困る。悲しい慰めだった。
それでなくても寂しい夜道は、沈んだ気分のせいで余計に暗く、不気味に感じる。昼間よりも幾らか冷たい風と、照明の少ない路地。どこか遠くで、猫の鳴き声がした。
考え事をしながら歩いていたせいか、気付くと自宅の前に差し掛かっていた。危うく通り過ぎる所だった。
家族には真帆のことを伝えてあるので、このドアを開けて家に帰ればきっといろいろと聞かれるだろう。
もちろん父も母も僕と一緒になって真帆を心配しているので、倒れたとなれば事の詳細を知りたがるのは当然だし、それは悪いことではないのだが、今の僕はどうしても説明したい気分ではなかった。
『急に倒れて、病院に運んで、集中治療室に入ったけど、今は何とか落ち着いたみたい』
こう言えばいいのだ。簡単じゃないか。
頭では分かっていて、段取りさえこうして考えられるのに、それを誰かに言うという行為自体が、無意味に面倒くさく感じられた。
正直、誰とも話したくない。何も考えたくない。何時間かでいいから、僕を無視して素通りして欲しい気分だ。
僕は五分くらい自宅の前で立ち止まっていたが、やがて意を決し、ドアを開いた。
「ただいま」
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