第4話

良い天気だ。気温も寒すぎず、熱すぎず、丁度良い。

 真帆の読みは正しく、山の麓の遊園地は比較的人が少なかった。大半のカップルはもっと新しくて便利な場所に行っているのだろう。近場で済ませたい家族連れや、資金の少ない中学生カップルなどが主な客だと思う。あとは、昔を懐かしむ中、熟年夫婦か。

 今日の真帆は、白のハイネックのセーターに、黒のフワッとしたハーフスカートというシンプルかつ難しいファッションを、見事なまでに着こなしている。はっきり言って、可愛い。はっきり言わなくても可愛いのだが。

「よかった、いい天気で。これだと、夜は星が出るよね?実はね、ここに来たのは、あれがあるからなの」

 そう言って真帆はアトラクションの一番奥に聳え立つ、巨大な観覧車を指差した。

「観覧車、か」

 そういえば、この遊園地の観覧車は、かなり大きなもので、一周が二十分。頂上付近からの眺めは、街と海が見下ろせて最高だ、と何かに書いてあった気がする。夜になると、星空が近くに見えて何ともロマンチックなのだそうだ。

「うん。一緒に乗りたいなあ、って」

 僕は真帆の言葉の意味がよく分かっていた。

 真帆は、観覧車が好きだ。それも変わっていて、家族以外とは、男でも女でも大好きな人としか乗らないというのを、前に聞いたことがある。

『だって、一度乗ったが最後、その数十分間は何があってもそこから逃げることは出来ないのよ?そう考えると、大好きな人と以外だったら、嫌じゃない。逆を言えば、信頼している人となら、たとえ途中で止まっちゃったりしても、心強いでしょう。幸せの空間だわ』

 そんな風に彼女は言っていた。

 だから、真帆は特定の人としか観覧車には乗らないというのだ。そういわれれば、去年の秋の遠足でテーマパークに行った時も、その頃まだ何も知らない僕たちと四、五人で乗ろうと言ったら、パスしたことがあったっけ。その彼女が、僕と二人きりで乗りたいと言うことは、それだけ僕は真帆にとって、信頼できる存在であり、観覧車を『幸せの空間』に出来る人間だということになる。照れくさいけど、僕にしてみたら、これはかなり嬉しい。

「光栄です、姫」

 僕はふざけて、真帆の手をとって甲に軽くキスをした。

「うふふ。では参りましょう」

 真帆もそれに乗る。普段は親しみやすい雰囲気なのに、こうして冗談でも気取ったフリをするとどこかの令嬢のような気品が漂う。真帆なら、ピンクグラデーションのフリフリ付きドレスを着て、ティアラなんか付けても、何の違和感もない立派な『お姫様』に仕上がるだろう。

 僕たちは、空いているのをいいことに、観覧車以外のモノを片っ端から乗り歩いた。一日フリーパスの元をとろうかという何とも色気の無いセコイ考えが、多分二人とも心の隅に、約1ミクロン位あったのは否定できない。否、ただ僕らは精一杯遊びまわっただけと言い張っておこう。

 真帆は本当に元気いっぱいだった。最初から観覧車からの夜景を見るつもりで来たので、いつもなら真帆をきちんと送り返す時間を過ぎても、気にせずに僕らは遊んでいた。許可されていることとはいえ、辺りが暗くなっても、手なんか繋いで余裕で過ごしているのは、何かイケナイことをする前兆みたいで、新鮮な緊張があった。いつものように、日が落ちるのを惜しむのではなく、逆にこうしてそれを待つことが、こんなにも楽しいとは思わなかった。

 よく考えてみれば、今時十七にもなる男女が、六時三十分の門限を死守しているとは、もはや笑い話である。

しかし、笑わないでもらいたい。僕は友達時代も含めてこの一年八ヶ月、一度たりともそれを破って彼女を家に送り届けたことなどないのだ。

もちろん僕にはそんな厳しい門限なんてない。夕食までには一度帰れとか、何かあるならきちんと連絡を入れろとか言われる程度で、他は特にない。それでも、真帆にある以上、それを自分の一存で破らせることなどできないし、するべきじゃない。

何も、真帆の両親だって頭ごなしに厳しくしているわけではないので、予め言っておけば、大抵の場合は許可される。わざわざ親の承諾を取るのが面倒くさいとか、それが子供みたいで嫌だとか、本来なら言いたいことはたくさんあるのだろうけど、僕はこれに関して、不満を感じてはいなかった。

別に、深刻に困ることがないからである。行き先を必ず言ったからといって親が付いて来る訳じゃなし、たかが十七歳のガキが「子供じゃない」と言ったところで、一人じゃゲームソフト一本、リサイクルショップに売ることさえ出来ないのに、なにをどう不満が言えるのだろう。ましてや、持病のある真帆だ。それでなくても可愛い一人娘を心配する親の気持ちを考えると、酌んでやるのが筋だと思う。また、ここでわがままを言い通したら、それこそ『子供』のすることである。

 それに僕は、律儀に門限を守ってやることに、やはり美学を感じている部分もあった。大切にされている彼女を、一緒になって大切にしたい気持ちもあり、両親の好感度アップと信頼を得るという下心もあり……。まあ、つまりは僕なりの意地でもあるわけだ。

「もう少しだね」

 太陽が眠りに就こうとしている空を見上げて、真帆が言う。途端に少し咽た。

「大丈夫か?」

「平気よ、ただのせき。ちょっと唾が器官に入っちゃっただけ」

 真帆は優しい笑みでそう言った。

 僕は最近、せきに敏感になっている。彼女の発作は大抵せきから始まるからだ。だから、真帆のセキを聞くと、だれよりも早く反応してしまう。あまり嬉しい癖ではない。

「くしゅん!」

 次はくしゃみだ。

「寒いんじゃないのか?」

 僕は真帆と組んでいた腕を離すと、羽織っていた薄手のパーカーを脱いで彼女に掛けてやった。実はこの機会を巧みに狙っていたりもしていたんだけどね。

寒い時に、自分の着ている物を上にかけてあげる。どうでもいいことではあるが、これは僕の『恋人してやりたいこと』のベストテンの八位にランクインする項目だ。

「えっ、大丈夫よ」

「いいから。別に暑くはないだろ?」

「だって、巧ちゃん寒くないの?」

 まるでシナリオがあるかのような会話だ。真帆の言動は、天然記念物級である。いつ小説世界に飛ばされても、十分にやっていけるくらいのポテンシャルがある。計算かと思いきや、力いっぱい天然だったりするので素晴らしい。

「ああ、大丈夫。むしろ暑いくらいだ」

 さすがにそれは嘘だったけれど、本当に寒くはなかった。まあ、例え寒くてもここは気合で乗り切るけどね。

「ありがと。本当はね、ちょっと寒かったの。上着を持ってこなかったから」

 真帆はあのクスッととした微笑を見せた。袖を通すと、再び腕を絡めてくる。

渋い茶のパーカーなので彼女の白セーターとの色合いは良いが、やはり大きさはちとブカブカであった。それもまた似合っていて良い。

「だいぶいなくなっちゃったね」

 辺りを見回して、真帆が言う。日が出ていた頃から比べると、明らかに人が少ない。上空からの夜景が見物なので夜になると逆に人が増えるかと思ってもいたが、そうでもなかった。

 時計の針は午後七時を回ろうとしている。園内もライトアップされ、観覧車の装飾にも明かりが灯った。

 僕は隣に、いや、腕にくっ付いている真帆を見た。

「そろそろか?」

「うん。乗ろうか」

 彼女の腕に、少しだけ力がこもる。

 近くで見ると、つくづく巨大な観覧車であった。下から見える一番上の個室の大きさの縮尺から考えるに、てっぺんはかなり高いことが分かる。その分眺めは最高なのだろう。

 僕らは僅か一組のカップルを待って、それに乗り込んだ。向かい合って座るべきか、隣同士で座るべきか迷ったが、腕を組んでいる関係もあって結局後者を選んだ。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、景色が変わっていく。今までいた地上から、だんだんと視界が高くなっていく。窓枠を気にせずに外を見ると、まるで少しずつ宙に浮いているような感じさえする。

「観覧車って、密室だよね」

 不意に、隣にピッタリと密着して座っていた真帆が言った。

「前にも言ったけど、私ね、観覧車に乗ると、いろいろ考えるの。もし今地震が起きたら、とか、故障で急に止まっちゃったら、とかね。そういう時って、一緒に乗った人がすごく重要だと思わない?」

 僕はそれに、軽く頷いた。

「嫌いな人……とは乗らないけど、あんまり好きじゃない人も何とも思ってない人も、結局、みんな同じで嫌だと思う。この閉鎖された空間では、好きな人とじゃない限り、不安で不安でしょうがなくなるだろうって。好きな人達と乗れば、何が起きても平気な天国。それ以外だったら、逆に何を言われても安心できない地獄。だから、私にとってのここは両極端なのよね」

 外を眺めたまま語る真帆。それでもさっきから、僕の右膝の上でしっかりと手を繋いでいる。

 密室。そう言われると、何だか緊張してくる。確かに、今ここには僕と真帆しかいなくて、例え何が起きようと、数十分は逃れることの出来ない運命共同体であるのだ。

「じゃあ、今は天国?」

 僕はわざとイタズラっぽく聞いた。

 真帆は僕に視線を移して、うふふっ、と優雅に微笑んだ。上品な笑顔なのに、頭を撫でたくなるような人懐っこさがあるのは、何度見ても変わらない。

「うん、天国」

 言いながら、僕の肩にウットリともたれ掛かる。繋いでいた手を離して、代わりに肩を抱いた。まるで、ドラマや小説の一シーンみたいだ。

「あ、ほら、見えてきたぞ」

 視界の隅に数々の光りを捕らえ、僕は言った。

 真帆も窓を見る。

「わあ……素敵……」

 漆黒の闇に、家々の多種多様な明かり。道路を行き交う赤いテールランプ。僅かに変化を見せる夜の光は、ミニチュアのイルミネーションみたいで美しい。遠くには、闇とは少し違った暗さが広がっていて、強い電球色がちらほら見える。恐らくは海と、波止場の明かりだろう。

 そのまま目線を上げていくと、今度は星が見えた。頂上まではまだなので、半分しか視界に入らないが、それでも綺麗な星空だった。あと数分で、星はもっと近くなるはずだ。

「幻想的な光ね」

「ああ。もっと鋭く見えるかと思ったけど、結構優しい光りだな」

 いつも近くで見ているランプやライトや電光掲示板は、くっきりしっかりと映るのに、ここからのそれは、ぼやっとしていて、心地良い。

「ほら、星。ここがほぼ頂上か」

 さっきまでに比べて、空の比率が多く、星に手が届きそうなほど近づいていた。

「手を伸ばせば、触れそうね」

 真帆は大きな瞳を輝かせて、満天の星空を眺めていた。

 夜景に星空に密室に二人きり。なんともロマンティックではないか。

「来てよかったな。この時期の星は綺麗だって聞いてたけど、こんなにとはね」

 僕の言葉に頷きながら、真帆はこちらに向き直った。依然密着したままなので、こうするとしっかり見詰め合う体制になる。

 鼓動が高鳴る。

 真帆は切なそうな表情をして、じっと瞳を逸らさない。多分、彼女がこんなにも熱っぽい眼で見るのは、世界で唯一僕だけであろう。そうあって欲しい。そう思うと、痛みにも似た感覚が胸の奥から滲み出るように広がってくる。

「大丈夫。真帆の方が綺麗だから」

 空いている左手で彼女の頬に触れながら言ってやる。キザだけど、それでいい。恥ずかしいセリフにも慣れてきた方だ。

 真帆は返す代わりに薄く満足そうに笑って瞳を閉じた。

 時間が止まる。

唇に伝わる柔らかい感覚だけが、止まった時間の中を支配していた。

 細かいことなど何も考える余裕などないはずなのに、真帆の呼吸を聞き、彼女の香りを感じている冷静な部分がある。人間とは面白いものだと思う。

 早足で、五秒ぐらい経っただろうか。ゆっくりと、僕らは顔を離した。

「やっぱり、天国じゃないかも。だって、こんなにドキドキして苦しいもん」

 真帆は、少し下を向いて再び僕を見上げた。頬も耳も真っ赤になっているのが、何とも初々しくて良い。まあ、それは僕にも言えることだけど。

「苦しいけど、クセになるから、厄介だな」

 僕はもう少しだけ彼女を抱き寄せた。

「巧ちゃん、顔、赤いよ?」

 自分のことは棚に上げて、真帆はそんなことを言う。この間がすごく照れくさいので、どうでもいいことを口走りたくなる気持ちはよく分かる。キスのあとも無言で見つめ合っていられるほど、僕たちは慣れていないのだった。

「真帆だって、真っ赤だろ」

「え?そう?」

「ああ。真っ赤だよ」

 またもや沈黙のまま見つめあった。多分、もうこの部屋は降下しているのだろうけど、外の景色を確認しようなんて、微塵も思わなかった。

 緩く波打つ髪、栗色の大きな瞳。綺麗な桃色の唇に整った鼻筋。それらを囲む細い輪郭は、驚くほど小さい。

 恐らく、何時間見ていても、何日見ていても、何年見ていても飽きることはないだろう。

 この時のこういう気持ちを本当に知っている人間が、いったい何人いるだろか。こんなにも幸せな鋭痛を味わったことのある恋人が、何人いるだろうか。

 みんな、きっと恋することを、愛することを解かった気分になっているに過ぎないのだと思う。もちろん、この感覚を知っている人だって沢山いる。けど、僕たちの年代のそれは、ほとんどが勘違いなのではないかと、最近僕には思えてきた。

 実際僕も、今までに恋したことはあった。深い意味じゃなくて、一応『お付き合い』と呼べる関係だってあった。その時は本当に真剣にその娘が好きで、胸が苦しくて、悩んだりもした。でも、違ったのだ。喉もと過ぎれば熱さを忘れるとか、勘違いの上塗りとか言う人もいるだろうけど、そうじゃない。

 言葉では言い表せない次元で、根本的に違うのだ。真帆を好きになって、初めて解かった気持ち、感覚。今までも誰とも、どれとも異なる、『誰かを愛する』ということ。僕だって、彼女に出会わなければ、知るのはもっと先だったかもしれないし、もしかすると、知らないまま一生を終えた可能性もある。

 愛は見返りを求めないと誰かが言っていたが、本当にその通りだ。ただ、自分の注いだ愛情でその人が喜んでくれたら、またその人も自分と同じ気持ちで愛情を注いでくれたら、それはもはや奇跡にも似た幸福なのだ。

「もう他の誰とも観覧車には乗れないなあ」

 ようやく視線をはずした真帆が、先程と同じように、ぴったりと持たれ掛かりながら言った。

「そうすれば、これはずっと、二人だけの幸せな乗り物」

 僕は、「ああ」とだけ答えて、さらに身を寄せた。夜だから、この中までは誰にも見えないだろう。少しぐらい大げさにいちゃついても、かまうことはない。

 彼女の言葉は、頭の中で何度もリフレインを繰り返していた。特別な勲章をもらったようで、嬉しかった。

 見返りを求めない僕の愛情は、事実上しっかりと受け止められて、報われているようだ。

 そう、それは奇跡にも似た、喜びだ。

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