11/18 角田光代『ロック母』


 瀬戸内海に浮かぶ故郷の島に帰省した「私」が直面する母親の変化を描いた「ロック母」など、現代日本を舞台にうまく立ち行かない家族関係が主題の作品と、タイが舞台の「緑の鼠の糞」や上海が舞台の「爆竹夜」などのようなアジアの風土と旅行者の出会いが主題の作品と、二種類に分かれた計七話の短編集。

 それぞれの短編には、タイトルと発表された年が書かれているのだが、一番最初に収録された「ゆうべの神様」は一九九七年発表で、一番最後の「イリの結婚式」は二〇一二年発表と、十五年の時を隔てている。それは、芥川賞の候補にもなった「ゆうべの神様」は、角田さんにとって「未熟な一作」だったために、ずっと単行本収録を見送られていたという。それがどうして収録されることになったのかは、あとがきに詳しく書かれていた。


 毎晩喧嘩している両親と監視し合うムラ社会との女子高生の板挟みな状況が心苦しい「ゆうべの神様」や、日本人来訪者としての洗礼を主人公の青年が浴びる「爆竹夜」など、色んな意味でドキドキする作品が多いが、一番好みなドキドキは「カノジョ」という短編だった。

 こちらは、奥さんのいた男性と関係を持った主人公の若い女性が、彼を奪い取った末に元々は奥さんも住んでいた彼の家に引っ越してきたのだが、理不尽で不気味な出来事に直面する話。言わば、略奪愛のその後を描いていて、一見あらすじだけだと「ざまあ系」に思えるかもしれない。


 最近人気のあるフィクションの方向には、「悪いことをした人物が因果応報に遭って、読者はすっきりする」という流れがある。しかし、「カノジョ」は、そんな話とは大きく異なる。確かに、主人公は妻から夫を奪い取った「私」は悪女ではあるのだが、そんな「悪VS善」の分かりやすい構図の話ではない。

 主人公と前妻とは、だんだんと対立の構造を解いていく。考えてみれば、二人の女性は年齢や経歴や趣味や金銭感覚など、何もかも異なっているのだが、同じ男性を愛したという共通点がある。そういう、分かりやすくて読者がすっきりする展開とは外れたラストを迎えるのだが、そんな物語も描けるのが、小説という表現方法の良いところなのかもしれない。


 本作を読んでいて感じたのは、各々の主人公がまあまあわがままだな、という所だった。聖人君主でも極悪非道でもない、普通の人だからこその、視野の狭さ、自意識の高さを読み取れてしまう。

 そういうのを否定しないし、もちろん私の中にもあるのだが、第三者目線で物語を読んでいる上では、「もうちょっと、こう、他人の気持ちに寄り添えない?」とか考えてしまう。そして、その思いはきっと、そのまんま自分にも返ってくる問いでもあるのだった。




















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