第8話
心の虚を埋めたくて、ふらふらと部屋の中を彷徨ってエリスの面影を探した。彼女の椅子に座って机を摩(さす)ったが、カサついた木の感覚しか得られなかった。
でも、天板の下の引き出しを開けたらそこに羊皮紙の巻物があって、広げてみると魔法陣が描いてあった。
これがきっと、彼女が言っていた卒業課題なのだろう。でも魔法を通しても動かない。未完成で、まだ何か足りない。
術式をざっと見て、足りない魔導回路をいくつか書き込んだ。これで動くはず。そっと魔力を通すと、一瞬で部屋が闇に包まれた。
目の前には一本の古木が光り浮かんでいて、その太く無骨な幹から伸びる枝々は、淡い紅(くれない)の小さな花をいっぱいにつけていた。そしてその花びらが、漆黒の中で光を湛えながら静かに散り落ちている。音もなくハラハラと。
これが”サクラ”なのだとすぐに分かった。彼女は卒業課題で、この魔像を作ろうとしていたのだ。
胸が鋭く痛んだ。彼女は宝石のような赤い瞳を持って生まれた。ただそれだけなのに、人々は誰も目を合わせず、彼女を見ようともせず、疎外して虐げて、そしてその挙句、こんなお屋敷に閉じ込めて、ただ死の訪れをじっと待つ事しか許さなかった。
だから人を恨んでも良かった。人々を呪って、世界の破滅を望んだとしても仕方がなかった。でもエリスはこんなものを・・・ただ、こんなにも静かで美しく、そして寂しい景色を見る事だけを望んだ。ルーン文字を覚え、魔導回路を習い、一生懸命になって魔道具のことを学んだ末に。
聞いたことも無い音がして、それが自分の喉から洩れる嗚咽だとわかったら、心の鎖がバチンと弾け、溢れ出る悲しみに一瞬で心を占められた。アルは声を上げて泣いた。
気が付いたら屋敷を出て、新年を祝う華やぎに満ちた街を彷徨っていた。泣き顔でフラフラと歩くアルを、街の人々は怪訝そうに見ていた。
やがてどこかの橋まで来て、放心したまま川面を見つめていたら、欄干を掴む手に指輪が見えた。あの時の探し人の指輪。
でも探すべきあの人は居なくなった。死んでしまって、もうこの世から消えてしまった。
乱暴に指輪を引き抜き、川に投げ捨てようと握りしめた手を振り上げたら、彼女の笑顔が脳裏を過った。
これと対の指輪をあげたとき、本当に嬉しそうに、指にはめたそれを見て微笑んでいた。
そのまま動けなくなって、振り上げた腕を力なく降ろしたら、また涙が溢れ出した。
***
どのくらいこの橋の上にいたんだろう。泣き疲れて動けないでいるうちに陽は翳り、夕焼ける空を背に橋を渡る人々の影は、石畳の上に不自然なほど引き延ばされていた。
今でもまだ涙がジクジクと沁み出して、掌(てのひら)を広げたら、ずっと握りしめていたあの指輪が滲んで見えた。だから摘まみ上げようとしたら、捕まえ損なって指から逃げた。もう一度摘まもうとしたら、やっぱり逃げて掌から落ちた。その指輪は、失せ物を悲しむように石畳の上でカタカタと震えていた。
それを見て一瞬で涙が引いた。
拾い上げてもう一度掌に載せると、どこかに引っ張られるように、指輪は掌の上をコロリと転がった。
間違いない、対の指輪は消えていない。どこかに在って、この指輪を引き寄せている。この世界の何処かに居て、見つけてもらえるのを待っている、エリスと一緒に!
アルは指輪を握りしめ、そして屋敷へと歩を進めた。ここまで来た時の彼とは全くの別人に見えた。
***
あれから二年半が経った。
アルは今、深い森を抜けた平地の入り口に居た。この島に来てすぐにこの森に入ったが、それを抜けるのは長く過酷なもので、森に入ったのが寒さ厳しい時期だったのに、今ではすっかり春めいている。
目の前の平地の先に土壁に囲まれた邑が見えて、朝餉の煙が幾筋も上がっている。
首に掛けたチェーンを引き出すと、そこに通された指輪がその邑を指し示した。極限まで疲弊しきっていたアルは、それでも力強い足取りで邑へと歩き出した。
邑では人々に取り囲まれた。言葉が全く通じず、何を言っているのか分からない。
「エリスという少女を探しています。奇麗な白い髪で、瞳は宝石のような赤い色をしていて・・・エリスです。エリスという名の女の子です。ここに居る筈なんです。」
彼女の名前を連呼して、身振り手振りで伝えようとするのだけれど手ごたえは無い。それでも彼女の名前を連呼し続けた。
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