【前章1】とある男子高校生の1日

a-01.太刀洗 絢人



「お兄ちゃん、起きてる?」


 ドアをノックする音とともに妹の声がして、それで太刀洗たちあらい絢人けんとは目を覚ました。

 枕元の時計を確認すると時刻は朝の6時15分。目覚ましをセットした起床予定時間からもう15分も過ぎていた。


「ん……。柚月ゆづきか。

うん……起きる……」

「もう朝ご飯できてるから。早く食べちゃって」


 扉の向こうの妹の気配は、それだけ言うと扉から遠ざかり、階段を降りていった。それを確認してから眠い目をこすりつつ、もぞもぞとベッドを抜け出して、パジャマを脱いで制服に着替える。今日からは高校二年生だ。

 まあその二年生の初日に新一年生に起こされるのもどうかと思うが、ここは学校じゃなくて家だから問題ない。

 問題ないと思う。たぶん。


 リビングへ顔を出すともうすっかり食事の用意が整っていて、部屋着にエプロン姿の母・さくらと真新しい制服姿の妹・柚月が食卓に着いて待っていた。


「お兄ちゃん、顔洗った?」

「……まだ。」

「も~、早く洗っておいでよ。早くしないと冷めちゃうよ?」

「……わぁかったよ」


 言われるままに渋々と洗面所へ向かい、ザッと顔に水を当てる。別に肌に気を使う必要はないので、冷たさに意識がシャキッとすればそれでいいのだ。これが妹だったら、やれ乳液だの化粧水だの何だのと、きっと色々と面倒くさいのだろう。男で良かった。

 ……いや、最近の男子は女子以上に化粧するヤツも多いって聞くけど。でも俺は化粧のことはよく分かんないや。


 顔と一緒に手も洗い、タオルで顔と手を拭いて、それからリビングへと戻る。改めて席につき、3人で頂きますを唱和して、できたての朝食を口いっぱいに頬張る。

 今朝はご飯と味噌汁、それに焼き鮭とお新香。日本ならではの純和風の、これぞ朝ご飯、といった朝食だった。



 自分で言うのも何だが、太刀洗家はごく普通の一般家庭……だと思う。

 母さんは普段は近所のスーパーでレジ打ちのパートをやっている。大学の准教授をやってる父さんの稼ぎだけじゃなかなか苦しいみたいで、毎日一生懸命頑張ってくれてるから、それにはいつも感謝している。

 まあ恥ずかしいから口には出さないけど。

 今年40歳だけど、まあ友達の母親なんかと比べても若い方だし美人だとよく言われる。でも毎日顔を合わせてる俺としては、美人かどうかはよく分かんない。普段は優しいけど悪さしたら怒るし、怒ったらめっちゃ怖ぇし、心配かけたら泣くから、なるべく心配かけないようにはしているつもり。ただでさえ今は父さんが長期の海外赴任で留守してるから、家の唯一の男手としては頼りがいのある所を見せなきゃ、と思ってる。

 柚月は年子の妹で、うちは2人兄妹の4人家族だ。兄バカと言われるかも知れないけど、妹はまあまあ可愛い方だと思う。性格も明るく社交的で友達も多いし、料理以外の家事全般が万能で女子力ってやつは高めだと思う。

 ……いやまあ料理はねえ。あればっかりは才能ってやつだから。うん。


「ゆづきちゃんもいよいよ今日から高校生ねえ。こないだ産まれたと思ってたのに、もうこんなに大きくなって…」

「お母さんそれ昨日も言ってたよね?

てか中学の入学式の時も言ってたよね?」

「あら、いいじゃない。我が子の成長を喜ぶのは親の特権なんだから」


 相変わらずうちの母さんは親バカだ。柚月だけじゃなく、去年の俺の高校の入学式の時も、4年前の中学の入学式の時も言ってたもんな。そりゃ喜ばれないよりかは喜ばれた方がいいに決まってるけど、なんかこう、むず痒いっていうか気恥ずかしいっていうか。

 覚えてないけど、多分小学校の入学の時も言ってたんだろうなこの分だと。


 そんな事を内心思いながら、絢人は手早く朝食を喉に掻き込んで、口の中で咀嚼しながら立ち上がる。


「あら絢人、もうちょっとよく味わって、しっかり噛んで飲み込んでから席を立ちなさい?」

「在校生は色々と忙しいんだよ今日は。

母さんは後で柚月と来るんだよな?」

「そうだけど、もう行くの?」

「うん。一年生は今日が入学式だけど俺らはもう部活も始まるし、朝練は顔出さないと先輩に怒られるからさ。

じゃ、準備して行ってくる」

「そう、行ってらっしゃい。気をつけてね」


 ちなみに二年生と三年生の始業式は昨日だったから、我が剣道部は早速今日から通常通りに部活をやると、昨日主将から直々に通達があったばかりだ。昨日の今日で顔出さなかったら何言われるか分かったもんじゃない。

 ということで、今日は朝7時には部員全員で武道館に集合し、朝練のあとに新入部員勧誘の作戦会議ということになっている。


 部屋に戻り、学校指定の学生鞄を持って剣道の胴着袋を背負い、玄関へ直行して靴を履き、ドアノブに手をかけてから、絢人は「行って来まーす」とリビングに向かってもう一度挨拶をする。行ってらっしゃい、気をつけて、と母の声がして、それを聞いてから絢人はドアを開けた。



  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇



 県立沖之大島おきのおおしま高校は、沖之島おきのしま市に二校ある高校のうちの公立校のほうだ。各学年とも定員は280人、8クラス構成で、地方の一都市の公立高校としては比較的規模の大きな高校になる。文武両道の校風で運動部系の部活動が盛んであり、剣道部、野球部、サッカー部などは県大会の常連にもなっている。ただ全国大会への出場はどの部活もまだ果たしたことはない。

 太刀洗絢人はその沖之大島高校の新二年生だ。新二年生ながら剣道部のレギュラーのひとりに抜擢されていて、ゆくゆくは次期主将になるのではないかと同級生部員たちに囁かれる程度には実力も人望もあった。


 絢人の住む本町地区は古くからの住人の多くが住んでいる沖之大島おきのおおしまという島の平野部、北側に聳える潮見山しおみさんの南山麓に広がる住宅街だ。絢人の家は麓からやや登った本町の北寄りにあり、絢人の通う沖之大島高校はその彼の家から見て海よりの、島と本土とを唯一繋ぐ沖之島大橋と港のちょうど中間ほどの位置に所在するので、家を出て目抜き通りの緩い坂道をずっと下っていけばおよそ20分ほどでたどり着く。

 高校は自転車通学を許可していたが絢人は普段は徒歩で通学していた。自転車通学の申請は出して許可も取っていたが、よほど遅刻しそうな時にしか使わない。自転車は登校時は楽でいいが帰りはずっと坂道を登ることになるし、どうせ帰りに押して歩いて登るのなら最初から徒歩で登下校した方がまだ楽というものだ。

 スマートフォンで現在時刻をチェックすると6時30分を少し過ぎていた。少し遅くなったが早歩きでまだ充分間に合うだろう。歩いている間には朝食で膨れた腹もこなれてくるはずだ。



 火曜日の朝はよく晴れていた。眼下には本町の街並みと、小学校、中学校、高校、港、市役所、それに島と本土を分かつ狭い海峡とそれを越える沖之島大橋、さらには本土側に広がる新町地区まで一望できる。

 ずっと昔は市街地も島の部分だけだったというが、今ではすっかり本土側の方が人口が多くなっていた。本町の人口が4万人をやや下回るのに対して、新町は郊外も含めるとそろそろ10万人に届こうかというところだ。開発が進み、増え続ける人口を吸収するために、本土との海峡部分も江戸時代から少しずつ埋め立てられての現在の景色なのだという。


 絢人はこの眺めが好きだった。春の朝の穏やかな眺めも、夏の夜のキラキラした夜景も、秋の夕暮れのほの寂しい景色も、冬空の薄ら寒い銀世界も、みんな好きだった。

 そして今は春。絢人が一番好きな季節だ。



 絢人の見下ろす視界の先に映り込んだ人影がある。

 それは同じ高校の制服を着た女子生徒だった。遠目に後ろ姿を視認しただけだが、絢人にはそれが同級生だとすぐ分かる。黒森くろもり紗矢さやという名のその女子生徒は、ある意味で学校一の有名人だったからだ。


 だが絢人は彼女に声をかけるつもりはなかった。こんな早い時間に行きあうとは思わなかったし、一緒に登校するほど親しくもなかったし、何よりも声をかけるのは気恥ずかしかった。なにしろ彼女は学校一の秀才で、去年の学園祭で一年生にしてミス沖之大島を勝ち取ったほどの美少女で、毎日山のように押し寄せる告白を全て袖にしてきた“高嶺の花”だったから。

 ただ、このまま坂を下っていくと彼女に追いつき追い越す事になる。さすがに追い越す時に無視するのも憚られたので、絢人は少し迂回することにした。迂回するなら走る必要が出てくるが、トレーニングの一環だと思うことにしよう。

 そうして次の大きな十字路に差し掛かったところで絢人は右手に曲がる。今の絢人の位置からは左後ろが山、右手前が港になるので、港の近くまで下りてから学校まで走ろうと決めた。


 絢人が角を曲がって姿を消す直前、気配に気付いたのか彼女が振り返ったが、絢人は気付かずそのまま角の向こうへと消えていった。彼女は少し首を傾げたが、特に気にする風もなくそのまま坂を歩いて下りていった。






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