87 アニマルセラピー

 静熊神社の石柱が見えてきた。

 扱いが不慣れなせいで、身体に巻きつくリードに苦労しながらも、なんとか神社に戻ってきた。

 途中で突然、人の言葉で鈴音に話しかけられ、誰にも聞かれなかったかとドギマギしたりもしたが、何のトラブルもなく無事にたどり着いた。

 いつものように、お辞儀をしてから鳥居をくぐる。


 リードを外してやると、鈴音は笑顔で頭を上げ、わんっとひと声吠えてから裏庭の方へと走って行った。

 その姿を目で追っていると、巫女姿の三藤さんが、竹の熊手で掃き掃除をしているのが目に映った。

 平日の朝だ。授与所を開いておく必要もないので、雑用をしてくれているのだろう。閉じられた板戸には、用があれば声をかけるようにと張り紙がされているし、呼び鈴も置いてある。

 近づく俺に、三藤さんが声を掛けてきた。


「おかえりなさい、栄太さん。鈴音ちゃんのお散歩、お疲れ様でした」

「ただいま……って言うのは、何か変な感じだな……」

「ただいまでいいと思いますよ。栄太さんも神職さんなんですから」

「まあ、そうだな。三藤さんも朝からご苦労さん」

「はい。今日もしっかりご奉仕しちゃいますよ。任せて下さい」


 笑顔で力こぶを作る仕草をする。なんとも頼もしい限りだ。

 見ているだけで、こっちまで元気になってくる。


「ちゃんとリード、買ってきたんですね」

「いや、知り合いの爺さんから、首輪と一緒に頂いた」

「そうなんですね。良かったです。それがないと、お散歩に行けませんからね。首輪には、ちゃんと名前や連絡先を書きましたか?」

「いや……。爺さんなら描いてそうだが、後で確認してみるよ」

「迷子になったら可哀想ですからね」

「……そうだな」


 鈴音に限って迷子になるってことは考えられないが、ちゃんと飼い犬っぽくしておかないと、野良犬と間違えられて連れて行かれたら面倒なことになる。

 非常識なことだらけで抜け落ちがちになるだけに、そういう常識的な指摘はすごく助かる。

 お辞儀をして、家の中へと入る。


 雫奈は鈴音と一緒に裏庭前の部屋にいるようだ。

 俺が持っていても仕方がないので、リードを渡しに行く。

 だがそこは、前に来た時とは別空間のようになっていた。


「栄太、おかえりなさい」

「ただいま。……って、ここ俺の家じゃないんだがな」


 みんなが当たり前のように「おかえり」と言ってくるので、つい反射的に「ただいま」と答えてしまう。

 まあ、いつも勝手に上がり込んでいるから、そう思ってもらった方が気が楽なのだが。それに、今さら常識人ぶったところで、滑稽なだけだろう。


「なに言ってるの。ここは神社関係者全員の家なんだから、栄太も遠慮しなくていいわよ」


 だったら、何とも大家族になったものだ。

 ……それはいいとして、問題はこの部屋だ。


 たぶん豊矛神社だった頃は、裏庭も立派で、床の間にも掛け軸や壺、生け花なんてものが飾られたりして、客をもてなしたり雑談してたりしてたんだろう。そう思えるほど立派な部屋だった。

 だが今は、裏庭は更地にされて俺たちの運動場になっており、部屋は鈴音ペットとの触れ合い場所スペースになりつつある。

 部屋の一畳分ほどにカーペットが敷かれて犬の領域スペースになっており、境界にはフェンスが立てられているが、隙間だらけなので犬も人も自由に出入りすることができる。

 食器や給水機、トイレや小屋まで設置され、偽造工作カモフラージュも完璧。

 飾り棚には、伝統工芸品や人形などの代わりに、ペット用品が並んでいる。

 この分だと、地袋だとか天袋にも、ペット用品が収納されているのだろう。


 さっきまでここにいる気配がしたのに、鈴音の姿が見当たらない。……と思ったら、裏庭にあるご神木の苗のところにいた。


「よう雫奈。豊矛様から頂いたリード、ここに置いておくぞ」

「散歩用品は右の棚かな。でもそれ、首輪に付けたままでもいいって聞いたけど?」

「そうなのか? いちいち取り外さなくていいなら便利だけど……」


 とはいえ、こんなものが首からぶら下がっていたら、鈴音も邪魔だろう。爺さんのことだから、そんな不自由を許すはずがないし、きっと何かの仕掛けギミックがあるんだろうけど。


 ふと、カーペットに四角い切れ込みがあるのが気になった。

 長方形で、幅が六十センチ、奥行きが三十センチぐらいだろうか。


「雫奈、カーペットのコレ、なんだ?」

「あっ、それね。……たぶん、すぐに分かると思うよ」


 犬といえば、穴を掘って宝物を隠す習性があると聞くが、まさかこんな分かりやすい場所に、鈴音の宝物が眠ってたりするのだろうか。

 ……なんてことを考えていると、いきなりその切れ込みが、パカッと下に落ちた。

 短い方の一辺が蝶番か何かで止められているのか、カーペットの床が斜めになって落ちている。

 そこから、ぬぅっと鈴音が顔を出した。


「やっほー、エイ兄。今日はありがとね」


 そう言いながら、鈴音が坂を駆け上ると、パタンと自動的に穴が閉じられた。

 なるほど、外につながる鈴音専用の出入り口のようだ。


「ここが鈴音の部屋になったんだな。良かったな」

「うん」


 嬉しそうにうなずいた鈴音だが、すぐに寂しそうな表情を浮かべる。

 いやまあ、俺に犬の表情が分かるのかって言われれば自身がないけど、なんとなくそう感じた。


「……だけど、みんなと一緒がいいな。ボクもあっちの部屋に行っちゃダメ?」


 鈴音の視線が、俺たちの住むアパートへと向かう。


「別に構わんが、犬の姿でうろうろして、大家に見つかったりするなよ」

「うん、分かった。エイ兄、大好き」


 飛びつく鈴音を抱きしめ、頭を撫でてやると、嬉しそうに尻尾を振りながら、俺の顔を嘗め回してきた。

 犬の姿だから許されるものの、本当の姿を知る身としてはかなり複雑な心境だ。

 とはいえ、なんだか不思議と心地いいし、気分も高揚してくる。

 そうか、これがアニマルセラピーなのかと気付き、その効果を身をもって知った。

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