第7話

ぴりぴりとした空気と少しだけこもった熱気。独特の雰囲気をかもし出すこの会場は、いつどんな時でも切迫した緊張感に包まれている。すでにウォーミングアップのための練習が許されている会場内では、各道場に分かれてそれぞれの方法で刀が振られている。木刀で基本練習から始める道場もあれば、最初から竹刀で打ち合いを始めるところもある。

そんな会場(じつは町の総合体育館だが)内を見渡していると、ふとある人物が目に留まる。白の道着に紺袴、長い髪を一つに結い上げた楚々として凛々しい、小柄な少女が一人。見慣れすぎているはずの俺が見ても、なるほど清楚で美しく見える。

六月のとある日曜日。今日は七月に行われる全市大会の予選会……ああ、もちろん剣道のだ。今回のこれは高校には関係なく、道場のほうの大会だった。

鳴新館道場。古くは薩摩示現流の流れを汲むこの剣道場は、小学、中学、高校、それから社会人まで、全年齢を教えるボランティア道場だ。俺の住んでいる地区には鳴新館の他に三つほど違う道場もあるが、他の三つが本格的に区の体育館を借りて練習しているのに対し、鳴新館は終末の誰もいない小学校の体育館を借りて細々と活動している。指導している師範の方々も、殆ど無料で教えてくれていて、年会費として取られる二万数千円は、体育館の借り費と大会費などに当てられてほぼ無くなるらしい。しかし、だからといってこの道場、決して中途半端な稽古をしているわけではない。いや、逆に厳しい。

俺が小学四年生のとき、友達の勧めでこの道場を見学し、師匠のスパルタっぷりに惹かれて教えを請うことにした。俺はそこから剣道を始め、色々な人の剣を、技を見てきたが、うちの道場の師匠よりも強い剣は見たことが無い。剣の腕だけは、超一流だ。

姫凛が剣道を始めたのは、その一年後。そのころ姫凛の中では、俺の真似をするのがマイブームだったらしく、その勢いではじめたのだと思う。だが、なんでも器用にこなす才能と負けず嫌いな性格のおかげで、女子の部では道場でもトップクラスの実力を誇れるようになった。ホント、なんでもできるんだよ、こいつは。

いつもはお袋か親父が来る(特に親父は会社を休んでまでも来る)のだが、親父は出張、お袋もどうしても抜けられない仕事があるというので、俺が来た。まぁ、時間が空いている限り来るつもりだったのだが。

開会式が始まり、選手宣誓、そして、優勝杯の返還がなされる。ちなみに、前年度優勝は姫凛なので、優勝杯を還すのは姫凛だ。

正直、俺はあまり心配していない。姫凛の実力なら、突飛でもないダークフォースがいない限り、優勝はそう難しくないだろう。高校生では初の大会だが、問題はない。万が一、二位に終わっても、出場枠は三位までの三人あるから大丈夫だ。姫凛がその結果を納得するとは思えないが。

「それじゃ、行って来るね」

 高校一年生女子の部が次に控え、姫凛は俺に言って試合場の横に向う。剣道は試合場の手前のスペースで面と篭手を着け、試合に臨む。

「おう、頑張ってこいよ」

 俺が言うと、彼女はニッとわざと歯を見せて笑った。

 やがて、姫凛の番が来る。

 相手の女子は姫凛よりも背の高い選手だ。体も大きい。

 だが……。

 本来日本の武道には、体重差は関係ない。ストロー級とスーパーヘビー級の戦いは無理にしても、ある程度の対格差なら互角の勝負を出来る技が山ほどある。特に身体のみを武器とする体術でない剣道は、体重さも体格差も殆ど関係ない。もしこの竹刀が真剣であったら、何処を切ったって血が出る。多少手ぬるいルールに縛られた現代剣道であっても、その根本は変わらないのだ。

「篭手!」

 良く徹る高音の声が上がり、それと同時に打撃音、その後で審判三人の旗が一斉に上がる。色は赤。姫凛のたすきの色と同じだ。早くも一本先取。相手の出頭の手元を狙う、出篭手である。この技は、相手が動くようにわざと誘い、それ以上の速さで出鼻を挫く俊足の技。俺の得意技でもあった。

 程なくして、二本目も取る姫凛。初戦だし、当然か。

「どうだった?」

 ニコニコ顔で、姫凛が聞く。

「ああ、良かったぞ」

「もっと、なんか感想ないの?」

「いや、楽勝だったし、悪いところもなかったし」

 俺が言うと、姫凛は「ふぅん」と言って、袴を翻した。

「じゃ、また行ってくるね」

「おう、頑張れよ」

 その日、姫凛は優勝した。当然、一位通過。本戦は一ヵ月後だ。またきっと、特訓につき合わされるに違いない。俺は引退したんだって、ホント。

 姫凛のメダルや表彰状の数も、もうすぐで俺に追いつく。そうしたら、俺の取って置きの技を教えてやろうと思う。それまでは、お預けだ。

「ねぇ、お兄ちゃん」

大会の帰り、二人で歩いていると突然姫凛が俺を呼ぶ。

「なんだ?」

「お寿司」

「分かっているよ。予選だから、並な」

「うん」

 姫凛は嬉しそうに頷いた。

 我が家では大会で優勝すると、寿司を取る決まりがある。それは大会の規模によって並、上、特上、となっていき、姫凛はまだ上までしか勝ち取ったことが無い。俺も姫凛も寿司には目が無いので、つまりは頑張ったご褒美に食べさせてくれるということだ。出費こそしているものの、便乗して食っている親父とお袋はどうなんだろう、という考えが頭をかすめもするが、それはあえて伏せておこう。

「なぁ姫凛」

「なぁに?イクラの軍艦巻きはあげないわよ」

「別に取らないよ。そうじゃなくて。そのさ、お前はなんで、『お兄ちゃん』って呼ぶんだ?」

 俺が聞くと、姫凛は不可解だ、と言う顔で、

「なんで?お兄ちゃんだから、お兄ちゃんでしょ?それとも何?実はお姉ちゃんだったとか?」

「違うって。だから、ほら、もう高校生にもなると、兄貴のことを『お兄ちゃん』って呼ばない妹が殆どだろ?恥ずかしかったりしないのかって思っただけだ」

「お兄ちゃんは、恥ずかしいの?」

「いや、お前がだってば」

「わたし?う~ん、どうかな……。確かに、友達とかはなんとなく照れくさいっていって、あにき、とか、名前と混ぜて、~にいとか、あとは名前を呼び捨てなんてのも聞くけれど、わたしは、あんまり気にならないわ。昔から、『お兄ちゃん』だから、今さら変えようと思わないし」

 そうか。ならいいんだが。

 実をいえば、呼ばれるこっちも少なからず恥ずかしかったりするんだがな。

 姫凛はずっと、俺のことを『お兄ちゃん』と呼んでいる。名前で呼ばれたことは、記憶している限りない。機嫌の悪い時でも、『兄さん』になるだけ。当然と言えば当然だが、俺は姫凛のお兄ちゃんであり、お兄さんであり、兄なのだ。

「それよりも、お兄ちゃん、また剣道始めればいいのに」

話題を変えて姫凛は言う。

「それは無いな。却下」

「そりゃ、あのことは十分わかっているつもり。でも、やっぱり兄さんは剣を握るべきよ。だってお兄ちゃんは千人に一人の……」

「姫凛」

 少し強めに俺は姫凛を制した。

「いいんだ。俺の剣はあの時に終わった。死んだんだ。死(しに)剣(けん)は、何も斬ることは出来ない。うちの道場でも習う理だろう」

 俺は言った。

「もったいないよ」

「それでもだ」

「わたし、剣道強くなって、兄さんとも練習するようになって、なお更気付いたの。兄さん剣は特別だって。誰も真似できない剣なんだって」

 姫凛は地面を見ながら言った。

「それは少し買いかぶり過ぎだ。俺の剣は、あの人の剣を真似たものだ。あの人の剣に憧れて、必死に真似をしただけのニセモノだ」

「そんなことない。兄さんの剣は、兄さんだけの、本物だよ」

 真剣な口調だった。こんなに強い物言いをする姫凛はなかなか見られない。でも、俺の気持ちは揺らがなかった。

「どちらにしても、だ。もう剣を持たない俺には、関係のない話だ」

 俺が言うと、姫凛は諦めたように肩を落として、黙り込んだ。

「それより、今日は姫凛のお祝いだろ」

 俺が言っても、姫凛は何も喋らなかった。


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