第4話
例外もなく朝である。
昨日も順調に授業を済ませ、順調に帰宅。五時頃姫凛が帰ってきて、八時に両親が帰宅。うちは共働きであると同時に、二人とも同じ仕事場で働いている。どんな仕事か前に聞かされたが、よく覚えていない。どの道、海外に用事があるような仕事ではないようだ。
俺が作った夕飯をみんなで食べて、風呂に入って、寝た。そして現在に至る訳だが、時計があまりよろしくない時間を指している。
俺は飛び起きて、急いで支度を済ませ、一階に降りていった。勢い良くドアを開けると、そこには余裕の表情の姫凛が、優雅に食事を取っている。姫凛は俺を見て、少し驚いているようだった。
「おはよう、どうしたの?そんなに慌てて」
そう訊ねてくる妹に答えもせず、時計を見た。七時ちょっと過ぎである。なんだ、と思い、もう一度自分の腕時計を見てみた。八時ちょっと過ぎである。
はて?この時差は何だろう。まさか、俺の部屋とリビングで時差が生じているわけではあるまい。どちらかが間違いなのだ。
「なぁ、姫凛。時計は何時を示している?」
俺は聞いた。
「えっ?何時って、七時六分でしょう」
訝しげにそう言う。
「それで、俺の腕時計は八時三分を指しているんだが?」
「何?壊れたの?腕時計」
姫凛は、それは残念ね、的な顔をしてカップに口をつける。そして、ふと考えるように動きを止めた。恐る恐る、自分の腕時計を見る。途端に、急いで携帯電話を取り出し、時間を確かめた。
「きゃあっ、時間。時計、止まって、時間が、あれ?」
リビングに掛けてある大きな時計と携帯電話、細い手首に巻いてある腕時計を見比べて、いささか錯乱している様子だ。
「時計が止まっているんだ。本当の時間はさっき言った八時台だ」
それを聞いて、姫凛はグッと一気にコーヒーを飲み干し、ドタバタとしながら洗面所に向かう。歯磨き、身だしなみ、etc……のためにだろう。俺は沸かしてあるコーヒーをカップに注いで牛乳を混ぜる。一気飲み。朝食を食べている時間はどう考えても無いので、手荒で微々たる栄養摂取だが、仕方が無い。飲まないよりましだ。いや、空きっ腹に糖分の入っていないコーヒーというのは、飲まない方がいいのかな。とにかく姫凛が使い終わったら、俺も光の速さで顔を洗って、その他もろもろをしなくてはいけない。
「はい、お兄ちゃん、早く!」
バタンッ、と洗面所から帰還した姫凛が、俺を促す。
「先行ってていいぞ」
「ううん。待ってるから、早く」
俺は仕方なく三十秒で何とかする。今日はいつもに増してテキトーでいいや。
素早くガスの元栓と水道口を確認して玄関へ。姫凛はどういうわけか、比較的余裕の表情で俺のことを待っていた。
「ほら、行くぞ」
言って、ドアの向うを指差しゴーサインを示す。
「もう、どう考えても時間が間に合いません。では、どうすればよいのでしょう?」
俺の指示は全く無視された。演技掛かった口調で、手振りまでつけて喋り出す姫凛。何やっているんだか、頭に虫でも湧いたのだろうか、春だからな……。
「一つだけ方法があるだろう」
姫凛が今度は体の向きを変えて、口調も声を太くして男言葉になる。
俺はそれを聞いて、なんとなくわかった。分かったけど、自分からは言わない。
「なぁに?それは?」
女役、姫凛。
「ふふっ、それはね……」
男役、姫凛が言う一瞬手前で、俺はここぞとばかりに言ってやった。
「チャリな」
俺は絶妙の間で口を挟んだ。
一番いいところを先に言われて、ふくれる姫凛。その不満げな顔も可愛い。
「もう、なによ、直前まで言わせといて。ほら、行きましょう」
「よし、久々の我が愛車、ブラックアウト号の出動だ」
「ちゃんとお客も乗せて、ね」
姫凛はカバンを持ち直して、ニッコリと微笑む。
「重量オーバーの場合は、強制撤去な」
「そんなに重くないです」
言い合いながら、俺は車庫の片隅から自転車を出し、姫凛が家の鍵を閉める。タイヤの空気はこの前入れたから、大丈夫なはずだ。この自転車『ブラックアウト号』の由来は、高校まで坂道を、全力で扱ぐとあまりの辛さに視界がブラックアウトしたという事件があったことから来ている。それ以来、よほどのことがない限り高校へは乗っていかないことにしている。一人でもあの坂は辛いのに、今日は荷台に姫凛を乗せて行かなくてはいけない。春休み中に肺活量の落ちた現在の俺で耐え切れるからどうかは非常に疑問だが、そんなことを言っている場合ではない。俺がやらねば、姫凛も遅刻するのだ。
「乗ったか?しっかりつかまれよ」
横乗りした姫凛の腕が、俺の腰より少し上の辺りでしっかりと組まれる。
「大丈夫よ」
「よし、出発!」
ギリギリ、と音がしそうなほどゆっくりと走り出し、だんだんと加速する。坂に入る前までにどれだけ速度を上げ、勢いを付けられるかが重要なポイントだ。途中信号に引っかかるかどうかも切実な問題だ。誰も押すなよ、手押し信号。
俺は脚の筋力を十二分に酷使して、高校への道をひたすら走る。前方に、小さく生徒の群れが見えてきた。信号は青。問題は無い。
序盤で加速したせいもあって、しばらくすると、ギリギリ遅刻しない生徒の集団に追いつく。ということは、ここからは歩いて行っても間に合うということだ。もうすでに、正念場である地獄坂に差し掛かろうとしている。俺が辛いので姫凛をここで降ろすのも手だが、せっかく乗せておいて降ろすもの情けない。男として、兄としてのプライドが許さないのだ。
俺は覚悟を決めて心臓破りの坂を上っていく。必死になって扱いでいる最中、俺の後ろではお荷物が行く道々で、友人に朝の挨拶を交わしていた。
「おはよう」
「おはよう、姫凛。いいな、自転車かあ」
一人目。
「おはよう、木島さん。いいのに乗ってるね」
「おはよう。うん、人力だけど、結構早いのよ」
二人目。
その後も数人と朝のコンタクトを取る姫凛。最中、自分にかかる声もあったような気もするが、必死こいていた俺にはよくわからない。
そんなこんなでようやく校門にたどり着いた頃には、俺は少し視界が暗かった。恐るべし、ブラックアウト号。
「ご苦労様。アリガトね」
ストっと二台から降りて、スカートの裾を少し直す。姫凛は明るく笑って自転車の籠からカバンを取った。
「おう、この借りはきっと返してもらうぞ」
まだ息の整わない俺は、そう言って自転車置き場に向かう。
適当に空いている所に止めて、鍵をかける。最近は物騒だから、二重鍵は基本だ。ここで注意しなくてはいけないのが、考え事をしながらこの作業をすると、鍵をかけて、うっかりそのまま鍵をつけてきてしまうことだ。そんなバカな、と思いながらも、結構俺はやることがある。大抵は途中で気付くけど。
俺が駐輪所から出て、玄関に向かおうとすると姫凛が立って待っていた。
「どうした?忘れ物なら、お前一人で戻れよ。とはいえ、この時間から戻ったんじゃ、ホームルームには間に合わないが」
「違うわよ。お兄ちゃんを待っていてあげたんでしょ。乗せてもらって、一人だけ先に行くほど、私は無礼じゃありません」
そうか、えらいぞ。そういうことが大事なことだ。姫凛が良識ある高校生に育ってくれて、兄ちゃんは嬉しい。
俺たちはぞろぞろと下駄箱に向かう生徒にまぎれて、校内へと入っていった。
「グッ、モーニン、我が最愛の友よ!」
教室に入った早々に面倒くさいヤツが満面の笑みで俺に声を掛けてきた。
まず彼は、怪奇現象研究会に所属している。我が校に置いて、『研究会』は、『同好会』と同義なので、部活動として受理されていない。彼は、その活動内が不明確なクラブの部長である。そして、裏生徒会執行部の特派委員である。裏生徒会執行部とは、『部』とは名ばかりで、これも受理されていない同好会に過ぎない。だって、『裏』だもの。
つまり、そういう意味不明な同好会を掛け持ちしている時点で、かなり注意が必要だと分かる。だが、笹島の危険性は、そんなものでは納まらない。
アレは去年の学校祭。
ヤツは『第一回、輝け!四季森学園高等部、水着クイーンコンテスト』を開催したのだ。
なんていうか、もうタイトルだけで確実にアウトだろう。しかし、実際開催されたものは開催された。
開催されたということは、参加した人々がいたということだ。普通なら絶対参加しないだろうが、そこは笹島の戦略のなせる業だ。なんと、ヤツは上位入賞者に豪華商品を用意したのだ。それも二十万円相当の。もともと、学校祭に関しては規則が甘い四季森学園なので、生徒たちの方にも、軽い気持ちがあったのは否めない。教師陣の代わりに学校祭を取り締まる風紀委員も、祭り当日、ゲリラ的に行われたので阻止することは出来なかった。
それを指揮したのが、入学したばかりの一年生である笹島栄進であるという事実が、彼を危険人物にまで押し上げた最大の理由だった。
「聞いてくれ。オレは昨日、ついに世界の神秘を間近で体験してしまったのだ」
それは良かったな。どうかその感動はそっと胸に締まって墓まで持って行ってくれ。
「連れないな、友よ。聞きたくは無いか?この神秘の世界を!新しい感動を!」
とても嬉しそうな顔で言い放つ悪友を、俺は冷ややかな目で一瞥する。
「聞きたくないな。聞くときっと後悔することになると思うから」
「ふふん、いつに無く勘がいいな。しかし、お前には知る権利と義務があるので、オレはお前に教え、お前は聞かなくてはいけないのだ」
意味不明な義務と権利を持ち出すな。義務と権利に失礼だ。
「ほう……それが、木島姫凛のことでもか?」
そこまで聞いて、不覚にもピクッと反応してしまう。
「やはり妹のこととなれば、放っては置けないようだな」
嫌な笑いを浮かべながら、俺に詰め寄ってくる。こういうときの笹島の異様に生き生きとした表情が怖い。
「それはそうだろ。家族が神秘に触れたと聞かされれば、誰だって気になる」
「まぁ、いい。やっと聞く気になってくれたことを嬉しく思うぞ」
いいから、早く言え。
「木島姫凛といえば、この春我が四季森学園高等部の一年生になったほんわか妹系美少女であり、同じく高等部二年の木島龍秋の妹である」
分かっているよ。だから、どうした。
「うむ。そのアイドル的存在になりつつある美少女が、いかにも親しげに男子と歩いているところを目撃されたのだ!」
ズバン!という効果音と共に、背景に富嶽三十六景が光輝いていそうな勢いだ。しかし、ちょっと待て。
「あのな、姫凛が男子と親しげに歩いていると、どうして世界の神秘になるんだ?」
「ヴァカもん!これからみんなで可愛がろうとしているのに、彼氏持ちなのか?という所が世界の絶望を表しているのだろう」
いやいやいやいや、今の発言には色々と危険な所があっただろう。どっちにしても『世界の神秘』にはならないしね。
「人の妹を勝手に可愛がろうとするな。なんか、響きが危ない。それに結局、世界の神秘は関係ないだろ。そして最後に、恐らくあいつに彼氏はいない」
俺は言った。
笹島は片手で顎を掻いて、何かを考えているような形を取る。
「ふむ。『世界の絶望』の間違いだった。ケアレスミスだ、許せ」
そこなのか、言うところは。心中で突っ込んだが、口には出さない。きっと、こちらが乗ってくるのを待っているのだ。ここで誘いに乗ってしまえば、周辺にささやかな笑いを提供できるが、それをすると疲れるのでやらない。
「……そこで、彼氏がいないというのは、本当なのか?」
くそう、そっち食いついてきたか。
「知らん。兄が見る限りは、いなさそうってだけだ。あいつも十五だからな。正確には分からん」
真面目にそう答えると、笹島は面白く無さそうにため息をついた。そして、ヤツの目に『今日はなかなか手ごわいな』という無言メッセージが浮かぶ。そうそう付き合っていられるか、面倒くさい。
「そうよね。妹さんも、子供じゃないものね。お兄さんとしては、そういうのやっぱり寂しいもの?」
軽やかなで明るい声の主は、佐久間美奈子だった。君まで言うか、そんなこと。
「まあ、男と付き合うことは、隠す必要性の無いことだから、変にこそこそされるのは嫌なものだな。けど、だからって俺に断ってから付き合え、なんていわないよ。それって干渉しすぎだし、変だろう?」
「ま、そうだわね」
佐久間が、『納得』といった感じで頷いた。
散々理解ある返答をしてみたものの、実際のところ姫凛に彼氏がいるかどうかは滅茶苦茶気になる。それこそ、報告してもらいたい気分だ。剣道部は女子と男子で別れているし、あいつは最後まで残って稽古してくるから、他の部活の人間とも遭遇し難いはずだ。それなのに、親しげに歩いていたということはやはり……。と、そこまで考えて、別にいいじゃないかと思うことにする。素性が変な男でなければ、付き合うのは悪いことじゃない。健全なお付き合いをしてもらいたいものだ。なんか、親父の気持ちだ。
「ああ、ちなみにな」
笹島が俺の二つ前の自分席から振り返って、こう言った。
「さっきの話、あれは嘘だ。お前がどう反応するか試したのだが……つまらん結果に終わったな」
この野郎。
人を揶揄い倒すことで有名な笹島に『敗北』の二文字を背負わせることが出来るのは、もはや俺か立花真介しか居ない。いつかきっと、自分の行いを悔いる日がくるだろう、笹島よ。
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