第3話

全ての真実を知りながら、それらをなかった事のように振舞うのは、思っているよりも骨の折れることだ。何時、どんな時にも、言って良いことと悪いことの区別を瞬時に出来るようにしておかなければならない。間違って言ってしまった、では許されないのだ。

「なぁ、今度さ、おれに姫凛ちゃんを紹介してくれないかな」

 最近よく耳にする言葉だ。俺はそう言ってくる無数の輩に、仏頂面を決め込んで言うのだ。

「却下だ」

 そうすると、決まってこう返って来る。

「ええ、どうしてさ。いいじゃんよ。それとも、あれか? やっぱり妹美人だから、シスコンな訳?」

 はっはっはっはっ。面倒くさくて、答える気にもならん。

 確かに、あいつは可愛い。妹してではなく、女として。でも、だからどうという問題は、とっくの昔に乗り越えてきた……筈だ。

 もともとは幼馴染だった少女。淡い恋心さえ抱いていた女の子。でも今は、俺の妹だ。もう何年も、彼女は俺の妹なのだ。そしてこれからもずっと。

 俺は授業を聞くのも面倒になって、ノートを書き終えると教師の話の部分は机に突っ伏して聞くことにした。俺の席は後ろから二番目、しかも前の席はバレー部員で背がでかい。きっと隠れて見えないだろう。

 ヴヴヴヴヴヴヴヴ!

 ポケットから、振動が伝わる。ニ、三回断続的に振るえ、鳴り止む。すぐに鳴り止んだということは、メール着信か。のそのそとポケットに手を突っ込んで、携帯電話を取り出した。二つ折りの電話を机の下で開く。液晶ディスプレイ画面には『メール着信あり』となっていた。表示ボタンを押して中身を見ると、『題名』の欄に、『SOS!』とある。そして本文には『英和辞書持っている?次の時間貸して欲しいんだけど……どうかな?』最後に顔文字のウィンクマーク。姫凛からだ。まだ高校生になったばかりだというのに、もう忘れ物か。しかも、授業中にメールとは。まったく、どうしようもないな。後で少し注意しておかなくてはいけない、兄として。

 ばれない様に細心の注意を払い、何とか返信する。『次の休み時間に取りに来い』っと。

「では木島、有名なこの組織の局長の名前は何だ?」

 いきなり、社会科教師は俺に振ってきた。なぜ今日に限ってそういうことをするかな。いつもは自分だけ書いて喋っておしまいなのに。

「はい、ええと……」

 そう言って詰まると、隣の席から救いの合図があった。細い手がすっと伸びてきて、机に殴り書きをする。

『新撰組』

 なるほど。

「近藤勇です。ちなみに彼の愛刀は『兜割り』の異名を持つ名刀虚鉄で、流派は平晴眼で有名な天然理心流……」

「ああ、いい。そこまで。聞いているならいいんだ。よくできた」

 俺が嫌味交じりにペラペラと答えると、社会科教諭は手を翳してそれを制した。一年生の頃から、社会科はこの大森先生だ。授業そのものよりも、それに纏わるエピソードや裏話が長いことで有名だ。暇な時に彼の『強い日本国の再建論』を否定したことをきっかけに親しく(?)なった。だから、少しでも聞いていないように見えると、集中して俺を狙うのだ。今日は本当に聞いていなかったから、横からの助け舟に救われたけど。

「サンキュな」

 授業が終わり、先生が退室すると同時に、俺は隣の女子―佐久間美奈子に礼を言った。

「ううん、いいのよ。今度お茶でもご馳走してくれれば」

 彼女は次の現代文の教科書を取り出しながら、平然と言い放つ。佐久間美奈子とは去年からのクラスメイトで、知り合いの女子の中ではよく話す方だ。とりわけ美人というほどではないが雰囲気が良く、明るくてサバサバしていて、話しやすい。

「出がらしでいい?」

 俺は冗談交じりに言う。

「せめて、喫茶店で飲みたいわ」

 二人して、はははっと乾いた笑いをしていると、教室の入り口付近が騒がしくなる。そして、聞きなれた声も聞こえてきた。

「お兄ちゃん、辞書~」

 姫凛だ。

 『お兄ちゃん』という響きに、何人かの男子が反応を示す。きっと、『妹属性』とかいう良くわからん趣味のある輩だろう。学校ではあまり露骨に『お兄ちゃん』とは呼ばせない方がいいのかもしれない。

「おう、ちょっと待て。今行くから」

 俺はカバンから辞書を取り出すと、テクテクと歩いて入り口に向かう。俺の席は窓際なので一番遠い。

「ほれ。今日は英語無いからそのまま持って帰れ。あと、授業中にメールは極力するな、最初のイメージが肝心だろ」

 そう言いながら、辞書を渡す。

「はぁい。ありがとうね、それじゃ」

 ちょっとだけしょぼんとして、すぐに笑顔に戻り、手を振って自分の教室のある一階へと続く階段へと消えていった。ふと周囲を見ると、彼女の後姿を眺めている連中が数人確認できた。一人はだらしない顔で、一人は物欲しそうな眼をして、もう一人は意味不明な桃色のため息を付いて。

 俺はやれやれと思いながら再び自分の席に戻った。隣の席では佐久間が、にやりと猫のような表情をしながら、

「人気者の妹を持つと大変ね、『おにいちゃん』」

 俺はそれに『フン』とだけ答えて、机に突っ伏した。

「でも、本当に可愛い妹さんよね。女のわたしから見ても、なんかこう、ギュッと抱きしめたくなるような感じっていうの?小動物系の妹ね」

 嬉しそうに好き勝手なことを言っている佐久間に、何も答えずにため息を吐く。だるいな、と思った。

 そうさ、その可愛い妹と、俺は血がつながっていない。つながっていないどころか、全くの他人だった訳で、きっと初恋の相手だったと思う。でも向うはそんなこと知らなくて、俺は全部知っている。知りつつ血のつながった兄弟を演じることの困難さ。最近はますます可愛くなってきているし、女らしくなってきている。ホント、いつ俺の頑丈なストッパーが外れて、姫凛を普通の女として見始めるか分かったものじゃない。そうなったら、多方面に置いて、大変なことになる。何より、姫凛が傷付く。それだけは絶対に避けたい。思い出したくない過去なんて、思い出さなくていい。今という生活に、あいつが幸せを感じてくれているなら、それでいい。偽りでも、仮初でも、それを唯一の現実にしてしまえばいいのだ。

「ねぇねぇ、そう言えば彼女、剣道部なんでしょう?」

 俺の心中などお構いなしに、佐久間が話しかけてくる。

「そうだよ。それがどうした?」

「木島君も、剣道やってたんだよね?兄妹揃ってやってたんだ。妹さんは続けているのに、木島君はやらないの?」

 彼女は伏せている俺を覗き込むようにして言った。

 彼女の言うとおり、俺も剣道を習っていた。越してきてから近所に小さい道場があって、なんとなく見学して見たら、やたら恐ろしい先生がいて、その人の厳しさに惹かれて習い始めた。小学校の高学年だったはずだ。そこから、それなりに強くなって、中学では剣道部の部長まで勤めたが、高校に入ると同時にさっぱりやめた。どうしかって、どうしてだろう。俺自身も良く分からない。なんとなく、嫌になったのだ。剣道の世界が。

「うん。やらない。あれさ、夏暑くて、冬寒いんだよ。結構痛いしね。ああ、あとね、夏臭くて、冬も臭い。メリットは上腕二等筋と腕自体の太さが異常になることだけ。やってられないよ」

 俺はひらひらと手を振って言った。

「……でも、妹さんは腕細いでしょ?」

「まぁ、そんなに太くないな。男と女じゃ違うのかな?良く分からん。男は、熱心に稽古すればするほど、こうなる」

 言って、俺は自分の袖を途中まで捲くって見せた。太くて、肘の少し手前までしか捲れない。何とか見えた部分は、若干力を込めただけで筋肉が隆起した。

「へぇ、すごいね。なんか、格好いい」

 俺は「そうか?」と答えて、袖を直そうとするが、筋肉が引っかかって上手くいかない。

「……こうなる」

 そう言うと、佐久間が笑った。

 そろそろ、教師が来る時間だ。


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