今からちょっと婚約しない?

通木遼平

今からちょっと婚約しない?


「ねぇ、ウォレス。今からちょっと婚約しない?」


 突然幼馴染のルビーからそう言われ、学園の中庭に設置されたテーブルセットに彼女と向かい合って座っていたウォレスは読んでいた本を落としそうになった。


 濃い茶色の前髪が少しだけかかった灰色の目を瞬かせ、名前のとおり美しい赤毛とエメラルドのような瞳の幼馴染をマジマジと見た。今、彼女はなんだかとんでもないことを言わなかったか?


 ルビー・パートリッジは幼馴染だ。と言っても、彼女はウォレスが暮らす土地の領主を務める伯爵家の一人娘で、ウォレスは伯爵領を拠点とするそこそこの商会の次男坊――つまり平民という身分差がある。

 そんな二人が親しくなったのは、幼い頃、父が伯爵邸に商談に行く際にウォレスと兄をよく連れて行ってくれたことがきっかけだった。兄は商会の後を継ぐ勉強も兼ねてだったがウォレスは完全におまけで、商談の際は暇だったので伯爵邸の庭園を、許可を得て散歩していたのだ。そんな折に出会ったのが伯爵家の令嬢である、同い年のルビーだった。


「……ロバート先生の課題の話でしたっけ?」


 聞き間違いだったのだろうと考え、ウォレスはたずねた。今、二人は共に十七歳。王都にある王立学園に通っている。この国には初等学校や中等学校が各地にあり、勉強をしたい平民はそこに通った。貴族は家庭教師をつけるのが普通だっただが、経済状況などによっては平民と同じ学校に通うこともあった。ルビーはもちろん、家庭教師だ。


 王立学園はさらに専門的なことを学びたい若者に向けた学校で、様々な分野の専門家が教師を務めている。寮があり、平民は基本的には寮暮らしでウォレスも寮に入っていた。貴族も在籍しているが親かあるいは親戚が王都で働いていない限りは社交シーズンに王都へ来た際に学園へも通うという者が多かった。

 ルビーは地質学に興味があり、親である伯爵に頼み込んで学園に入学した。他にもいくつか科目を履修しており、ウォレスも同じ科目がある。ロバート先生は言語学の教師で、課題が厳しいと学生には評判だった。


「違うわ! わたしたちの婚約の話!」


 ルビーが怒ったような口調でそう言った。つり目がちなルビーはよく気が強そうだと思われているが、ウォレスからしてみればごく普通の女の子で、今だって本当は怒っていないし、ウォレスは祖母の家で飼っている猫がおざなりな威嚇をするのをぼんやりと思い出した。


「婚約って……結婚の約束をする婚約ですよね……?」


 どうやら、聞き間違いではなかったようだ。「そうよ」とルビーはうなずいた。


「あとはあなたのサインをするだけなの」


 そう言って、彼女は斜め後ろに控えていた侍女から書類を受け取ると、テーブルの上に広げて見せた。たしかに婚約のための書類で、ルビーはもちろん彼女の両親である伯爵夫妻、それからウォレスの両親のサインまである。ここにウォレスがサインをして王宮に出すだけで婚約は成立するだろう。


「これ、持ち歩いてたんですか? いつから?」

「一昨日よ。あなたのご両親にサインをもらって、そのままずっとエリーに持っていてもらったの」


 エリーは学園にも付き添うルビーの侍女だ。


「実はね」


 困惑して書類を見つめるウォレスにルビーが言った。


「お母様の方のおじい様が、わたしと、おじい様のご友人の方の孫と結婚させようとしているの」

「そのおじい様って……」

「いろいろと問題を起こして伯父様が家督を奪って別邸に押し込んだおじい様よ」

「ああ……」

「それで、そのわたしを結婚させようとしている相手も問題があるの。類は友を呼ぶのね」

「どんな問題なんです?」

「マーカス・ウィットルという方で、伯爵家の三男。色んなパーティーでお見かけするけれど、いつも違う方をパートナーにしているの。パーティー中もたくさん女性に声をかけて……色々と悪い噂もある、女の敵なの」


 何かを思い出したのか、ルビーは吐きそうな顔をしながら言い捨てた。


「それで、先に別の誰かと婚約をしようと?」

「そうよ」

「でも、僕じゃない方がいいのでは? 身分もありますし……」

「お父様がいいっておっしゃっていたから大丈夫よ。それに、ウォレスならわたしと一緒にいろいろ勉強しているから後を継ぐのにもいいって」




 整えられた木々も美しい伯爵邸の庭園で散歩をしていた幼かった頃のウォレスは、開け放たれてカーテンの揺れる窓から聞こえた声に足を止めた。そっと窓から中をのぞくと、同い年くらいの可愛らしい女の子と背筋の伸びた女性が熱心に何かを話している。よく聞けば、どうやら女の子はこの伯爵家の令嬢で、女性は彼女の家庭教師のようだった。


「ログラーツェの戦いは七八六年だよ」


 授業の内容は歴史で、二人の話している内容に間違いを見つけたウォレスは思わずそう口を挟んだ。幼さゆえの行動だった。パッと振り向いた赤い髪の女の子は驚きに目を見開いてウォレスを見つめている。その表情に、祖母の家で飼っている子猫のことを思い出した。

 厳しそうな家庭教師の女性も驚いた表情をしたが、すぐに教科書と持っていた他の本を調べ、自らの間違いを認めると女の子――ルビーに謝罪と、ウォレスにはお礼を告げた。


 その日以来、ウォレスは伯爵邸を訪れて庭園を散歩し、ルビーの授業の声が聞こえると窓の外からそっと様子をうかがうようになった。彼はもともと勉強と読書が好きで、初等学校でも成績がよく、両親はそれを自慢にしてくれていた。

 しばらくすると彼は室内へと招かれ、いつの間にかルビーと一緒に授業を受けるようになった。学校よりも高レベルな授業は楽しく、また、学校では学べない経営などについても知ることができた。


 何より、ルビーと親しくなれたことがウォレスにとって最高にしあわせなことだった。彼女と一緒に授業を受け、伯爵邸の図書室でお気に入りの本を紹介し合ったり、課題を広げてわからないことを教え合ったりする時間が何ものにも代えがたかった。

 伯爵夫妻も聡明なウォレスをかわいがってくれた。王立学園への進学を後押ししてくれたのも伯爵だ。ウォレスの両親は、中等学校を卒業したら家の手伝いをして欲しいと思っていたようだったが。




「でも……」


 ウォレスは顔を上げられなかった。いや、もしかしたら、この婚約はとりあえずの目くらましで他にもっとふさわしい相手がいればすぐに解消されるのかもしれない。そう考えた方が納得できる。


「お嬢様にはたくさん婚約の申し込みがありますよね? その中に、いい方はいらっしゃらないんですか?」


 でももしそうなら、最初からそちらに行って欲しい――のどの奥が焼け付くように熱くなった。ルビーが、自分の知らない男性と並んでいるところを想像すると苦しくなる。いつもそうだ。ルビーと親しくなってから、ウォレスはずっとそんな想いを抱えていた。それを表に出すわけにはいかない。幼馴染だからこうして一緒にいられるだけで、それ以上を望むことは許されないとウォレスは考えていた。


「たしかに婚約の申し込みはたくさんあるわ」


 ルビーの口調はどこかそっけなかった。主に、継ぐ爵位のない令息にとってルビーは優良物件だ。当然、ないわけがない。


「実際に会った方もいるし、わたしが会う前にお父様とお母様がよく確認してくださるから、マーカス・ウィットルより何倍も素敵な方ばかりだった」

「そうなんですね」

「でもとなりにいることを想像できなかったの。お父様たちにもずっと前からそう言っていたわ。わたしは――わたしは、わたしが何か間違えた時に何でもないように正解を教えてくれて、同じことに興味を持ったら一緒に勉強をしてくれて、わたしが興味がないことも、おもしろく話してくれて、こんなおしゃべりにもつき合ってくれる人じゃないと、おばあさんになっても一緒にいることが想像できないの」


 ウォレスは顔を上げた。ルビーの美しい宝石みたいな瞳がキラキラと輝いて見えた。


「ウォレスはどう思う?」


 顔が耳まで熱いのは、きっと気のせいではないだろう。


「とりあえず、書類にサインをしてからでいいですか?」

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