第31話:横身、低い騎馬《きば》立ちでの、肘打ち。


 拳法は構えることをせず、そのまま、無造作に前に出た。

 反射的に、ボリスは右の回し蹴りを放つ。

 怖ろしかった。

 距離を、取りたかった。

 拳法は左肘と左膝を一枚に立ててプロックし、

 同時に、

 右拳でボリスの脛を叩いた。


「あッ、ぐッ!………」


 拳法が、さらに前に出る。

 反射的にボリスは、今度は両肘を立てた。

 ブロックだ。

 それは鋼鉄のワイヤーをよじり、幾十にも束ねたような、

 筋肉の壁だった。

 しかし拳法は、その下の方、

 肘の、骨が突き出ている部分を、

 左の正拳で叩いた。

 樫の木を、何か硬いもので叩いたような甲高い音がして、

 その中に、

 石礫つぶてを砕いたような乾いた音が混じった。


「あがあッ!」


 思わず開いた両腕の間を掻い潜り、

 ボリスの、

 左肘の内側の柔らかい部分にある腱と、

 右肩の内側の柔らかい部分にある腱を、

 平拳(指の第二関節で叩く形の拳)で叩き切った。


「あッ、………ひッ!」


 別に、

 最初から顔面やボディに当てる必要はない。

 届く部分から、

 相手の身体を順番に破壊する。

 それが、

 武術としての空手の在り様なのだ。


 気圧されて、

 ボリスが一歩下がるのを追って、

 踏み込みざまに、

 腹部に真っ直ぐに前蹴りを突き込んだ。

 空手だけの独特の技、――

 一撃必殺の蹴り。

 一直線に突き込まれる、

 脾腹を、蹴り破る、蹴り。


 しかし、

 これがボリスには効かなかった。


 筋肉の層が、厚過ぎるのだ。

 筋肉の量が、多過ぎるのだ。


 となると、

 蹴りは悪手だった。

 理由は、

 蹴り脚を取られてしまうからだ。


 しかも、

 相手はレスラーだ。


 拳法は、

 その蹴り脚が取られる直前、

 その蹴り脚と同じ方の拳で、

 ボリスの額を、

 短く、

 突いた。

 ジャブのような、簡素な動き。

 反動も付かないしりきんでもいないし腰も入っていない、

 ただ、さッと、腕を伸ばしただけの、

 軽い突き。

 ボリスは無視した。


 しかし、

 どういう力学が可能にするのか、

 それは、

 途轍もなく重い突きだった。

 全体重が乗った、

 むしろ体当たりに近い、

 渾身のパンチ。


「………ッ!」


 その硬くて重い拳に前額部ひたいを突き抜かれ、

 その衝撃に、

 ボリスは声すら出せない。


 しかしそれでも、

 ボリスは本能的にタックルし、

 拳法に抱き付いた。

 クリンチだ。

 距離を取ると、逆にやられてしまう―――

 本能が命じた、

 ギリギリの行動だった。


 抱き付いた拳法のその背中で、

 両手を鉤型に曲げてガッチリとフックすると、

 ボリスの双腕が、

 鋼鉄はがねで出来た筋肉の輪となって、

 拳法の胸郭と両腕とを、

 ギリギリと、絞め上げた。

 火事場のクソぢから、というヤツだろう。

 凄まじい力。―――


「死ッ、ねぇぇぇえええええッ!!」


 唸りながら、

 しかしボリスは髭に覆われた口元を、

 わずかに、笑みに、たわめた。


 絞め殺す———


 そういう笑み。

 きしむ音とともに、

 ミリ単位で狭まって行く筋肉の輪の中で、

 拳法は右腕をくの字に曲げ、

 その右腕を、

 無理やりに互いの胸の間に捻じ込んだ。


 勿論、事態は少しも好転しない。

 身動きが取れないまま、

 少しずつ、

 絞め上げられて行く。


 ボリスの表情は、変わらない。

 歯を食いしばり、笑みを咬み殺す。


 拳法の表情も、変わらない。

 静かな眼———


 次の瞬間、

 拳法は短く息を吐き、

 膝を、抜いた。


 一瞬だけ膝から下が失くなったかのような、

 そんな要領で、

 瞬間的に両足を床から浮かしたのだ。


「くッ!!………」


 ひと一人、

 持ち上げるに造作のない膂力りょりょくのボリスだったが、

 一瞬で、

 腕に拳法の全体重が掛かったことで、

 決して大きくはない拳法の身体を、

 ボリスは、

 支えることが出来なくなった。

 同じ大きさの、石像のような重量おもさ―――


 両腕の輪の中を滑り、

 落下が始まったその瞬間、

 拳法はボリスの分厚い胸郭に向かって、

 垂直に、

 真っ直ぐにひじを突き出した。


 ズシンッ―――


 肘が胸部に突き込まれるのと同時に、

 着地した両足が、床を踏み抜く。

 鉄筋コンクリート造の建築物の躯体が、

 僅かに、揺れた。


 横身、低い騎馬きば立ちでの、肘打ち。

 最初から静止してそこに在ったかのような、

 完成された形だった。


 凄まじい音から想像される破壊力の、

 その大きさに反して、

 ボリスの巨体は後ろにフッ飛ばされたりはせず、

 二、三歩、

 後ろ向きにふらふらとよろけ、

 そのまま力なく雑巾が折り畳まれるように、

 くの字に、

 腰から二つ折りになって、

 地に、どさりと、崩れ落ちた。


 力が、

 身体を後ろに飛ばす方には作用せず、

 人体の、

 内部を破壊する方にだけ作用し、

 突き抜けたのだ。


「ん、………」


 ユリウスは言葉が出ない。


「すげえ、………」


 デリンジャーは漸く、それだけ言った。

 そこに、―――

 扉を蹴破るようにして、

 完全武装の機動警察隊が大勢で雪崩なだれ込んできた。


「せんせぇーーーっ!!」


 若い女性の叫ぶ声がして顔を上げると、

 純白のワイシャツに黒のスラックス姿の、

 連邦捜査局の女性捜査官:ニーナ・ジュリアンヌ・グライナーが、

 胸を揺らして走ってくるところだった。


 武装警察隊員も五、六人、そんなニーナの後を追った。

 しかしデリンジャーは全く動じる様子は無かった。

 どころか、


 ニーナの、

 揺れてもその固い質感とフォルムを失わない

 ロケット形のバストに、


「は、あんな連邦捜査官なら、俺も仲良くなりたいぜ」


 フザケて、そう笑って見せた。

 田舎の学校の事務長のような風情だが、

 やはり地は、

 街場のゴロツキの溜まり場にいる悪ガキなのだろう。


「そいつが列車強盗デリンジャーよ、確保してっ!!」


 ニーナが厳しい声で、機動隊員に指示する。

 草臥くたびれた風采の上がらないこの中年男性が、

 新聞紙上を騒がす超・危険人物であると知って、

 隊員の間に緊張が走る。

 彼らの持つ小銃の銃口が、

 一斉にその髭面ひげヅラの大男に集まる。


「階下はすでに制圧したわ、無駄な抵抗はやめて」


 周囲に油断なく視線を配りながら、

 ニーナはその大男にそう、宣告した。


 デリンジャーは下を向いて表情を隠しながら、

 小さく舌打ちし、

 申しわけ程度に、少しだけ両手を上げた。

 そして下を見たまま、


「拳法、最後にひとつだけ教えろ」


 低く、言った。


 拳法は、デリンジャーに視線を移した。

 ニーナと、ユリウスも、はっとして、その大男を見る。

 男は、

 やはり下を向いたまま、

 周囲の眼に、その暗い視線をギロリと巡らし、

 少しして、また下を見て、

 こう言った。


「なぜ闘う?」


 ニーナは、息を止めて、眼をみはった。

 まだ娘らしさを残した頬が、

 不意の緊張に、

 張り詰めて、

 凍えた。


「なぜだ、なぜそうまでして闘う?」






















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