第30話:ボリスは怯えるような眼で、拳法を見上げた。


 それは、いわお、だった。

 急坂を転がり落ちる、巨大な、岩石だった。

 雪崩に遭ったようなものだ。

 人間など、

 元よりひとたまりも無い。


「ごがああああああああああッ」


 そう唸り、叫んだボリスは、

 全力疾走のまま床を蹴り込み、

 拳法に向かって頭からその巨躯を打付ブツけに来た。

 体当たり———

 しかし拳法は、けなかった。

 腰を落として構えたまま、

 さばくでもなく、

 受けるでもなく、

 何もしないまま、思いっ切りフッ飛ばされた。


「げうッ」


 壁に叩き付けられ声を上げる拳法に、

 ボリスは四肢で床を搔いて立ち上がり、

 走り込む勢いそのままに、

 右拳みぎこぶしで拳法の顔面をしたたかにッ叩いた。


「がッ」


 鼻梁を辛うじて外したその頬骨にパンチをまともに喰らい、

 鼻腔をいっぱいに満たした粘度のある黒い血を、

 拳法は口から吐き出す。


 固く眼をつぶる拳法の頭部に、

 次々に重たいパンチが見舞う。

 そしてローキックに脚を薙ぎ払われ、

 手も無く転んでしまい、

 仰向けに倒れた腹の上にマウントを取られてしまう。


「せんせっ………!」


 思わず、声が漏れるユリウス。


(なんで………?)


 そう思う。だって、そんな簡単な攻撃を、やすやすと喰らう拳法ではない。しかし馬乗りに乗られた拳法は、顔面に振り下ろされる拳の雨に、成す術なく血みずくとなった。眼が、鼻が、口元が、血に沈んで行く。しかしその時、———


「ギャアアアアアアアアッ!!」


 不意だった。

 叫び声が上がった。


 叫んだのは、優勢だった筈のボリスだった。彼はマウントを解き、拳法から逃れるように転がると、両手で股間を押さえて床をのた打った。そして拳法の方は、意外にも軽い身のこなしで先に立ち上がると、


「勝負はまだだッ、立てッ、かかって来いッ!!」


 と怒鳴った。来いッ、といって下から手招くように掲げられた指が、黒くぬめっていた。ボリスは股間を押さえて転がったまま、怯えるような眼で拳法を見上げた。耳を齧り取られ、怖らくは、………


「立てッ、まだだ、寝るのは早いぞ!!」


 しかしボリスは立ち上がることが出来ない。立ち上がったら、次は何をされるか、………怖ろしかった。そんなボリスの様子に拳法は、意外だ、という表情をした。


 軽蔑と、失望の色———


 しかし拳法はすぐに構えを解き、そして無防備に真っすぐに突っ立った姿勢で、こう提案した。


「黙って十発、オマエの攻撃をもらってやる。その間、オレは何もしない。………どうだ?それならまだ戦えるか?」


「………」


「どうしたんだ?………それでもまだ、オレが怖いのか?」


 血みずくの拳法の顔が、たわんだ。肉が潰れ、或いは腫れ上がり、一見しただけでは分からないが、怖らくは、笑っているのだろう。ボリスは思った。強がってはいるが、もう二・三発殴れば、動かなくなるんじゃないか?


 それに、………


 ボリスは立ち上がろうと身体を起こした、そして立ち上がりざま、無防備に突っ立った空手屋めがけ、再び頭から突進した。


 ———コイツは油断してる!!


 猪のように頭から腹に突っ込んで行き、圧倒的な体格差で拳法を床に叩き付ける。そして今度はマウントは取らず、象の脚みたいな左腕で痩せた拳法の身体を横から押さえ付け、顔面をニ発、腹部を三発、全体重をかけて殴った。床に押し付けて殴った。ドカン、ドカンと、ビルの鉄骨にまで響く、モノ凄い音がした。


 毟り取られた耳も、破けた陰嚢も、今は痛くはなかった。突撃錠が効いているのだ。


 ボリスは立ち上がると、海老のように身体を丸めて床にす拳法を見下ろし、


「どうした?立てッ、勝負はこれからだぞッ!!」


 と怒鳴った。立場が、逆転した。ボリスの言葉が聞こえているのか、いないのか、拳法は呻きながら立ち上がろうとする、その、胴体を、ボリスが走り込みざま、ラグビーボールよろしく力いっぱいに蹴り上げる。


「げううッ」


 スッ飛ばされながら、拳法は呼気を体腔から吐き出す。


「がッ、はッ、………」


 床の上で、腹部をかばうように押さえて身をよじる。瀕死のミミズか、芋虫、そんな存在。


「立てッ!!」


「ぐッ、がはッ、………」


 しかしそれでも、壁に背中を預けるようにして、拳法は何とか立ち上がった。そして腫れ上がったまぶたの奥から、ボリスに視線を投げると、右手を上げて下から手招きした。


「来い、………」


(そのズタボロのナリで、何が、来いだ!!)


「ぬがああああああああッ!!」


 意味不明の雄叫びを上げながら、ボリスは巨躯を揺すり、軽々と駆けた。


「罠だぞ、誘いに乗るなッ!」


 デリンジャーが叫んだ。相手は空手家、カウンター狙いに決まってる。しかし、———


 走り込みながらの単純な右ストレートを、拳法は左頬にそのまんまマトモに貰ってしまった。ズドンと、音がした。頭蓋が、ひしゃげたように見えた。


(あ、ひょっとして………)


 ユリウスは思った。


(ん?………)


 デリンジャーも、やはり不自然に思った。


 後方にフッ飛ばされ、バーンッ!!と壁にブツかって跳ね返って前のめりに倒れようとする、その腹部に、ボディフックがめり込んだ。


「ふぅぐううぅ!!」


 さらに重ねてボディに膝蹴ひざげり。


「はっ、………」


 息が止まったところで、今度は顔面に、膝蹴りが決まった。僅かに正中を逸らしたが、左の眼の上がざっくりと切れた。


 そして拳法が後ろにヨロけたところにボディフックを叩き込んだ。


「がッ、はッ………!」


 さらにもう一発、フックを同じところに叩きこもうとしたが、その拳が、拳法の肘でカットされた。


(………!!)


 ボリスは息を呑んだ。我に帰った、と言った方が正確だったかも知れない。


「約束の十発だ」


 血まみれの顔で、拳法は言った。


「馬鹿ジカラで滅茶苦茶にブン殴りやがって、………もうこれくらいでいいよな?」


「………?」


「これで五分五分、というかオレの方が酷くやられちまってる、………だよな?」


 ボリスは信じられない気持ちだった。だって拳法は、こんなに酷い怪我を、自ら進んでワザとした、ということになる。


「もういいよな?骨身に沁みたぞ、お前の強さはよく分かった、今度は、———オレの番だ」

































  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る