第29話:その突撃錠がキマったレスラーと、最後まで戦わせてくれ


 かつて耳があった辺りから、血管が幾筋か延びて、その先で引きちぎれ、鮮血を細く撒き散らしていた。


「ギャアアアアアああッ!!」


 魂切たまぎる悲鳴がホールに轟いて、鼓膜を震わせる。

 しかし、拳法はまだ、攻撃を止めなかった。

 本当は、左手の指を真っ直ぐ眼窩に突き入れようとしていたが、一瞬ためらい、すぐにその左手で拳を作って、それを鼻っ柱に叩き込むと、今度は、ボリスの首筋に噛み付き、双方の犬歯を、深く、肉に埋めた。


 物凄い、笑みが浮いた。


 いやそれは、大きく口を開けて力一杯に首筋を噛み締めているからで、笑っているのではないのかも知れないが、でもやはり、笑っているように見えた。


 満面の、笑みだった。


 歯と、肉との間から、プツプツと丸く、玉のような血が湧き出でる。頚動脈、——そう、今度は頚動脈を、首筋の肉ごと噛みちぎろうとしていた。


「卑怯だぞカラテ屋ァア!!」


 胴間声が床を叩いた。デリンジャーだ。

 剥き出しの首の側面に歯を立てながら、拳法はデリンジャーを睨み、口角を上げて笑みを漲らせた。

 頚動脈近くまで犬歯が深く喰い込んでいて、ボリスは身じろぎすら、することが出来ない。


「武道家が、歯なんて使っていいのか?」


 デリンジャーはそう毒付いた。勝負の流れを変えたい——、その意図が透けて見えた。部下が噛み殺されるなんて、流石に忍び難かったのかも知れなかった。


「そうだ」


 深く噛み付いていたブッい首から口を引き剥がすと、拳法はそう答えた。


「空手は歯だって使うし、武器があればそれを手に取る、当たり前だ。空手は武道じゃない、空手は武術だし、武術は兵法だ、ルールなんて無い」


 素速く後ろに転がって距離を取ると、拳法は立ち上がった。


「素手で戦うから空手って言うんじゃねえのかよ?」


 戒めを解かれたボリスは、左耳の跡を押さえてうずくまった。デリンジャーは毒付きながらも、そっと息を抜いた。


「違う」


 拳法は答えた。


「素手という意味で空手カラテというのは誤解なんだ、元々はアジアから伝わった拳法である『唐手カラテ』という意味なんだ」


「帝国の言葉のことなんか知らねえよ、ボクシングは武器を持たないぞ、空手も同じなんじゃねえのか」


「空手は昔、戦争で使うものだったんだ、槍とか剣とかとセットで学んだ『手』と呼ばれた技術わざを、単に集めたものに過ぎない」


「なるほど、武術は戦場で使うもので、反則なんて無い、ってことか、……」


「そうだ」


「手段は選ばない、って理解で間違いないんだな?」


「……」


 デリンジャーがニヤリと笑い、拳法は黙った。


「に、しては用意が悪過ぎじゃねえか?拳法、……」


 ユリウスは首を傾げた。(何が言いたいんだろう?)


 そんな十三歳の少年に向かって、デリンジャーは少しだけ笑いかけると、しかしすぐに顎を上げ、ホールの入り口に向かって、


「オイッ、——」


 と低く、声を掛けた。すると、すぐに十二・三人の男達が、バラバラッとホールに駆け込んできた。手には拳銃やショットガン、あと例の新型の機関銃を持っている者までいた。


(だよね、……)


 ユリウスは胸の奥の方が冷たくなるのを感じた。デリンジャーは強盗団のボスなのだ。手下が大勢いる、当たり前のことだった。例えボリスを斃しても「家に帰れる」という事ではないのだ。先生も、そしてぼくも、……


「どうする?」


 眼鏡にヒゲの巨漢は、獰猛な笑みを投げた。


「こんな俺たち荒くれ者のアジトによ、一人で乗り込んで来るようなキチ◯◯とよ、一対一の殴り合いになんてよ、マジメに付き合ってやる義理なんかねえよな?」


(卑怯、……)


 少年は思った。しかし、それは仕方のない事でもあった。終わりの見えない共産主義勢力との総力戦の中、すでに地獄と化して久しいローディニア合衆連邦共和国にあって、道義や、戦い方のモラルを説くのは、馬鹿馬鹿しくも愚かと言わねばならなかった。


 ボリスはすでに立ち上がっていた。眼の色が、変わってしまっていた。耳があった所から血が流れるのを片手でキツく押さえながら、低く唸り声を上げて、拳法を睨み付けていた。


 遠巻きに囲む仲間たちも、黙ったまま一斉に、銃の安全装置を外した。


「そこのアッシュ・ブロンドの坊やは撃つなよ」


 デリンジャーは仲間に言った。そして拳法にニヤついた口元を向けながら、


「撃つのはカラテ屋だけだ」


 と指示した。


「そこの薬のキマったプロレスラーとは、もう戦わせて貰えないのか?」


「耳を喰い千切っちまうようなケダモノと、部下を戦わせる事なんて出来ない、馬鹿馬鹿しい、分かるだろう?」


「仲間思いなんだな。勝負中断でオレを銃でブッ殺す、という事は、つまりはオレの方がそこの耳無しレスラーより強かった、という事でいいんだな?歯まで使う空手家には勝てないと、恐くて勝負出来ないと、そういう事でいいんだな?」


 ボリスが、吠えた。正気を失っているように見えたが、言葉は分かるようだった。


「そっちがルール無用で行く、と言うならこっちも手段を選ばない、という事だ」


「多勢に無勢は卑怯なんじゃないのか?」


「抜かせカラテ屋!ルール無用、と言ったハズだ。一人でのこのこやって来た、テメェ自身の無策を恨め」


(ぼくのせいだ、——)


 ユリウスは泣きそうな気持ちになった。ぼくを救い出すために、後先を考えずに駆けつけて来てくれたんだ。——


 胸の奥が、痛んだ。しかし、拳法は、


「一人で来たなんて、ひとことも言ってないぜ」


 ぼそりと、言い放った。そして下を向いて少しだけ笑った。——あざけりの、笑み。


 ユリウスは、ぼんやりしてしまった。意味が、分からなかった。デリンジャーも最初、意表を突かれて同じような表情を失くしたが、すぐに、虚空に彷徨さまよわせた視線を一点に固定すると、


「このッ、卑怯だぞ拳法!!」


 表情を一変させて声を荒げた。或る可能性に、考えが至ったのだ。


「オレは武術家だ、武道家じゃない、空手家、ですらない」


「じゃあテメェは何なんだ?!」


「オレは武士だ」


 拳法は、重くて硬い物をそっと、置くように言った。


「どう戦うか、いつもその事ばかりを考えてる。それが、オレの生活のすべてだ」


「だからって、連邦捜査局の連中を引き込むなんて、やり過ぎだぜ」


「その連邦捜査局に手下を潜り込ませていたのはお前だし、そこからのタレコミで、結果、今こうなってるんだろう?」


 強盗団の間に動揺が疾った。(連邦捜査局、……?)


「そろそろ来たみたいだぜ?」


 拳法は笑いながら階段の方を見た。すぐに階下から銃声が幾つも鳴り響き、ドアを蹴破って集団が雪崩れ込んでくる音が振動となって伝わって来た。


「例の介護士撲殺の一件から、オレは連邦捜査局の監視を受けてんだよ、ギルベルトから聞いて無かったのか?」


「聞いてはいたが、敵対してるんだと思っていた。殺人犯と公安警察、だからな」


 階下から激しい銃声が巻き起こった。デリンジャーの手下と警察との間で、銃撃戦が始まったのだ。


「オレは殺してないし、犯罪も犯していない、ただ武術を、それも我流の拳法を教えていただけだ」


「お前が殺したのと一緒だ、素手で人を殺せる技術を教えた。違法じゃあ無いかも知れない、だが罪を犯していない、という事にはならない」


 三階にいた仲間も何人か、大急ぎで階下に駆け下りて行く。銃撃戦に加勢しようとする者と、逃げ延びようとする者、半々くらいかと思われた。


「貴様こそ人殺しだ、よく言うぜ列車強盗」


「俺はプロの犯罪者だ、ヒトデナシだ、という自覚がある。だからいいんだ」


「勝手な理屈だ」


 そう言って拳法は笑った。デリンジャーも笑った。二人とも、人殺しであることに違いは無かった。


 階下の騒ぎが、その音が、大きくなった。一階の防衛ラインが突破されたのだろう。跳弾の、その硬質なサスティン音が、リアルに耳元に迫った。


「余裕だな、もうすぐ逮捕つかまっちまうって言うのにな」


「すぐに出て来れるしな、こう見えても知り合いが大勢いるんだ、にな、……拳法、いいか?これで終わりじゃねぇぞ、勝ったと思うなよ」


「頼みがある」


 不意に、何の脈絡もなく、拳法が言った。声が、少し小さかった。


「何だ、怖くなったのか?手下にして、やらなくもないぞ、ただし、その猫っ毛の金髪ブロンドのガキは、俺に差し出すんだ、……」


「その突撃錠がキマったレスラーと、最後まで戦わせてくれ」


「おまえ、……」


 デリンジャーは黙った。警察が機動部隊と一緒に来ているのだ。もう、戦う必要なんて無い。銃撃戦の末、逃げ切れるハズの無い俺達は死ぬか、捕まるかして、その道場主と少年は、めでたく家に帰り着けるのだ。事ここに至って、この怪物と、戦う必要なんて無い。にも関わらず、何だか決まり悪げに、見ようによっては少し照れ臭そうに、下を向いて、この東洋人はそう言うのだ。


(コイツ、頭がおかしい、——)


 しかし、そうたじろぐのも束の間、猛獣のような吠え声を上げながら、ボリスが走り出した。


「ッ!!……ボ、ボリスッ」


 ボスの制止の声も、その猛獣には、すでに聞こえていないようだった。怒りに、我を忘れていた。


「ウォオオオオオオオッ!!」


 その、吠えながら突進して来るヒグマのごとき巨躯を見ながら、拳法は莞爾として笑った。破顔、——そして、


「よし来いッ!」


 と一喝すると、脚を開いて腰を落とし、両の掌を「パンッ」と打ち鳴らして、その手をスッと、横に広げた。










 
































































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