第28話:そのバケモノの貌が、不意に歪んだ
「せんせえ、……」
(逃げよう)
その一言が出てこない。
先生は、戦う気だ。戦いたいんだ。
その気配が、佇まいから、呼吸から、血だらけの身体から立ち昇る温度から、確かに伝わってくる。
でも、
だからと言って、
いくら先生だからって、勝てるはずがない。
だって、こんなの、人間じゃない、こんなの、——
「モンスターだ」
武装強盗団の頭目:デリンジャーが、低く言い放ち、そして
「逃げたって、いいんだぜ?」
残忍な笑み。恐怖で人を支配する、男の
暴力と死の恐怖を前にして屈する
「いいんだぜ、逃げろよ、俺が命じなければ、ボリスは何もしない、逃げていいぜ、だが、……」
その犯罪者は、暗い目で、半裸の少年を見た。
「そのガキは置いて行け」
ユリウスはハッとなってデリンジャーを見返した。しかし男の表情からは、その十三歳の少年に対する、何の感情も読み取れなかった。怒りも、情欲も、哄笑も、無関心さえも。
商品、——
そう、品物の価値を常に
「置いて、……」
瞬きしない眼で下から睨み上げながら、拳法は、
怒鳴った。
「行く訳がねえだろ、この
デリンジャーは、眼に笑みを湛えたまま、ただその東洋人を見下ろした。
「コイツはオレの内弟子だ、置いて行く、訳がない、違うか?」
「せんせ、……」
少年は、拳法を見た。驚いた。いや、うれしかった。
「それに、……」
しかし少年の方は見ずに、拳法は言葉を継いだ。
「逃げる理由がない」
「はッ!アハハハッ」
デリンジャーは弾かれたように笑い声を漏らした。しかし、その眼は、笑ってはいなかった。
「強がるなよ」
低く、しかし怒気を
「強がってなんかいない」
そう答える拳法。笑っていた。
しかし、——
ユリウスは気付いていた。
(いつもの余裕がない)
一か月もの間、ずーっと一緒に過ごしてきた少年の眼から見ると、その笑顔にはいつもの余裕がなくて、どこがギリギリな感じがした。そう、確かに、……強がっている、ようにも見えた。
その時、
山が、動いた。
拳法の眼にも、ユリウスの眼にも、そう見えた。
音がしそうな程に、うねり、軋む、幾十もの筋肉の束が、その山が、拳法に向かって猛烈な勢いでダッシュしてくる。
タックル、だ。
やるしかない、——
拳法は腰を落として左脚を後ろに引き、半身になった。
正面から受けたら吞み込まれてしまう。
後ろに回り込もう、——
と、左にステップしたその刹那、
意外にも右ストレートを、思いっ切り顔面にもらってしまった。
思いも寄らない動きだった。だって、タックルに来ていた訳だから。
最初からハメるために意図していたとしたら、余程のケンカ巧者と言わねばならなかったし、また逆に拳法が左にステップするその動作の起こりを見極め、攻撃を、タックルから右ストレートに変更したんだとするなら、凄まじい反応速度と言うしかなかった。
もちろんただ無防備にブン殴られた訳じゃなかった。
素手での格闘に於いて、相手の拳を、ワザと、額に喰らうことはままある。相手の拳を破壊してしまうためだ。人間の手は、どんなに固く握ったところで所詮、物を殴るようには出来ていないのだ。手とは、物を摑むように出来ている。
しかし今、右ストレートを思いっ切り喰らってしまったのは、相手の突進力が想像以上だったからだ。勢いに、完全に呑み込まれててしまっていた。
(次からはもらうまい、——)
拳法は両手を上げてアップライトに構えるが、その構えの上から二発目、三発目、と打ち込んでくる。
重い、パンチだった。
前に突進しながらの四発目のパンチでバランスを崩し、後ろにフッ飛ばされる。そして、それに合わせてタックルに来た。
抗いようがないまま、拳法はボリスと一緒に、床に倒れんでしまった。ヤバイ、こいつはレスラーだ、寝技に来る。こうなると、空手家は不利だった。
しかし、拳法は慌てて判断停止するようなことは無かった。
拳法は、腕の関節を取りに来る、そのバカでかい両の手を搔い潜り、仰向けに倒れた体勢まま、水牛みたいに分厚い胸と背を、肘打ちと膝蹴りとで、挟み打った。
胸郭が
相手の身体を押さえての肘打ち、膝蹴りは、世界中のいかなる武術に於いても「必殺技」に分類される、人体を確実に破壊してしまえる、最も危険な技術の一つだった。
——しかし、
それでもその巨躯の格闘家は、動きを止めることなくさらに身体を密着させ、両手の十指をカギ形に怒らせて、拳法の首を取ろうと腕を伸ばした。
(なんて執念深いんだろう、バケモノ、……)
ユリウスは息を吞んた。時々咳き込んでは赤いものが口のまわりを濡らしているのに、動きも、表情も、変わらない、どころか、少しだけ笑っているようにも見える。
(効いてないんだ、痛くないんだ、……)
ユリウスは怖くなった。
しかし、——
そのバケモノの貌が、不意に
拳法が、ボリスの耳に
だけでなく、その大男の汗と血に
顎を上げ、顔を振り、
しかし、
真っ白い歯で、耳にがっちりと齧り付いたまま、拳法が肉食獣のように頭を大きく、強く振ると、ボリスはたまらずに声を上げ、攻撃を止めて拳法の手を顔面から引き剝がそうと
刹那、——
拳法は眼を突こうとするのをあっさりと止め、空いた両手で今度はボリスの頭部をガッチリと固定すると、
その耳を、
「ギャアアアアアア!!!」
たくさんの血管が、細く、限界まで伸びて、そして次々と千切れて、力なく揺れた。そしてその、揺れる血管の先から、ピュッ、ピュッと、真っ赤な動脈血が、幾筋も、細く、そして意外なほど遠くまで、飛んだ。
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