第27話:「こいつはもう、痛みも感じないし、恐怖心も無い」


 爆破テロに遭って放棄されたその、かつて産科の病院だった建物は、鉄筋コンクリート造の頑丈な建物で、三階建てだった。延床面積は2,400平米くらいだろうか? 単一診療科の病院としては、まあまあの規模だ。


 三階には医事関係の事務室と、医局、あと会議室があり、階段を上がると、左が医局と事務に続く廊下で、右側が会議室の入口だった。


「こっちだ、——」


 その会議室の方から声がした。グスタフ・デリンジャー、世上を騒がす武装犯罪組織を仕切っている頭目だった。


 三階は他の階と違って天井が高く、凝った意匠の造りとなっていた。その会議室の入口の扉も木製の、分厚く重量のありそうな物で把っ手もメッキではなく、真鍮だった。明かりも蛍光管ではなく、電球を使用した間接照明で、要するに、全体的な印象として、金が掛かっていた。地域の医師会館として、使用していたのかも知れなかった。


 会議室に入ると、拳法は眉間を開いて緩め、息を抜いた。先刻の声の、その響き具合から想像はしていたが、そこはガランと広い空間で、6メートルくらいか、廊下よりさらにもう一段、天井が高くなっていた。


「よく逃げなかったな、褒めてやる」


 入って左手が会議場の演壇となっており、その中央の演卓に両手を置いて、その強盗団の頭目は言った。


「よく撃たなかったな、感心したぜ」


 無防備に突っ立ったまま、かつてメディアを騒がせた、その武術家は言った。


「殺人拳・塚原拳法とか言われるだけあって、自信満々だな」


 デリンジャーは、一見すると五十代半ばの、地味な男だった。痩せて、半白の髪に口髭を蓄え、分厚い眼鏡を掛けたその姿は、田舎の町の学校の、校長先生然としていた。


「余裕じゃないか、あんたの手下を何人、斃したと思ってる?」


 拳法は下からキツく睨み上げながら、口だけで笑ってみせた。


「それに、……どうやって、この俺を斃す?」


「突撃錠、……知ってるだろ?」


 デリンジャーを睨んだまま、拳法は真顔になった。


 ——軍用麻薬、もちろん知ってる。知ってはいるが、……


「話しに聞いている、というだけでは知っている、という事にはならない。恐怖心が薄らぐ強壮剤のようなもの、くらいのレベルでしか理解していないだろう? 今日、これから、突撃錠がどういうものなのか、実際に見せてやるよ、——ボリス!! 」


 深夜だから、という訳でもないだろうが、その会議場は薄暗かった。そして、正面の演壇に立つデリンジャーの姿の、その背後の闇がユラリと動いたかと思うと、その闇の濃淡はすぐに輪郭を得て、やがて見上げるような大男が、演壇の横に姿を現した。


「ボリスって言うのか」


 そう拳法は呟いた。爆破された自宅で、拳を交えかけた格闘家。分厚い身体だが、決して太ってはいない。十三歳の少年を空中で、片腕で締め上げた、その腕に這う筋肉の束、——忘れようがない。


「これがそうだ」


 デリンジャーはそう言うと短いスティック状の物をポケットから取り出した。一見すると、それはフェルトペンに近い形状と、大きさだった。


「錠剤じゃないのか、……」

「色々あるんだ」


 その、皮膚に刺すだけで薬液を注入できる野戦携行用の注射器を見た瞬間、ボリスはハッと息を止め、動かなくなった。瞬きする事すら止めて、その小さな注射器を、凝視した。やがて喉奥から細く、獣じみた唸り声が漏れた。


「ボリス」


 デリンジャーはその大男に、注射器を差し出した。


「いいぞ」


 ボリスは、荒くなった息に胸を喘がせながら、その注射器を受け取った。指先が、震えていた。息が、速くなる。そして、キャップを歯で齧り取ると、その注射器の針を、なんの躊躇いもなく、頸動脈に突き刺した。


「ふーーーっ、……」


 速くなっていた息が止まり、少し経ってから、ボリスは長く、息を抜いた。


「おい、ほら、……」


 見るとデリンジャーは。軍用麻薬の入ったそれをもう二つ、人差し指と中指、そして薬指の計三本の指の間に挟むようにして持っていて、その手をやや高く掲げ、ボリスに向かって示した。


「あ、……」


 ボリスは躊躇った。しかし、デリンジャーは続けた。


「いいんだ、お前は身体が大きい、それにしばらくなかったんだ、これくらいは大丈夫だ、それに、……」


 そして、その強盗団の頭目は視線を、その小柄な東洋人の武道家に戻した。


「相手は、塚原拳法だしな」


 巨漢は、その針付きのアンプルを、冗談みたいに大きな手で受け取ると、もう片方の手でキャップを二つ同時に毮り取り、更に両方の手に持つと、両方の頚動脈に同時に突き刺した。


「かッ、はああああ」


 味方を何人も殺傷した強敵を前に、ボリスは暫し眼を瞑り、開放感に大きく息を吐いた。そして三、四秒の後で再び眼を見開いた時、その眼付きは完全に別人のものに変わっていた。


 赤く充血した両眼は見開かれ、瞳孔が開き切った瞳に、感情の色は皆無だった。薄く開いた口からは、噛み締めた歯が覗いて、さらに唸り声を発しながら、口の端から唾液を流していた。そして、その唾液は時間の経過とともに、白い泡状のものに変化した。


 呼吸が、速くなった。そしてその呼吸の度に、血管が浮き出て皮膚の表面を走り、筋肉が張り詰めて、急激に膨張して行くのが見て取れた。


 肩が盛り上がり、頚が太くなり、背中の面積が拡がって、全体的に、身体が分厚くなった。


(これが、……)


 拳法は、思わずそう呟いた。


(これが突撃錠か)


「こいつはもう、痛みも感じないし、恐怖心も無い」


 デリンジャーは演壇から拳法を見下ろしながら、そう言った。


「だからどうした? そんなの、別に自慢できることじゃない」


 そうだ。そんなことで、戦いが有利になったりはしない。


「疲れも感じなくなる、それと体力の消費をセーブするためのリミッターが、壊れる、……分かるか?」


 拳法は、黙った。黙った拳法を、演壇の上からデリンジャーが嘲りの笑みとともに見下ろした。痛みも感じない、疲れも感じない。そして意識が、凶暴な攻撃衝動に支配されて倫理や良心までをも喪失してしまえば、そいつはもはや無敵の怪物、と言えるのではないだろうか。


「病気で瀕死の老人が、若くて屈強な介護士二人を殴り殺した、というニュースは昔、俺も見た」


 黙る拳法に向かって、デリンジャーは続けた。


「もしそれが突撃錠によるものでないのだとしたら、……」


 笑みに、眼が細くなった。


「どう戦うのか、お前が戦うところを、ぜひ俺に見せてくれ」





































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