第26話:出来ないと、思っているのか、拳法?
「せんせえ、逃げよう」
拳法の意図とは全く違うことを少年は提案した。
拳法の手が、止まった。
「せんせえ、ぼくと一緒に逃げよう」
そう、それが正解だ。だって、ユリウスを救い出すために、命を投げ出してここまで来たのだから。
しかし、ユリウスを見る優しい光を湛えていた拳法の眼から、瞬間、表情が消えた。父親が、よく見たら実は他人だった、とでも表現すべき、そんな違和感。
「……せ、せんせえ?」
それは、拳法のその表情は、単にぼんやりしてしまっているようにも見えたし、強い、拒絶のようにも見えた。
「ユーリ、まだダメだ。まだ足りない。いいか、今なんとか逃げ伸びたとしても、連中はすぐに追ってくる。今ここで出来るだけ踏ん張って、連中を徹底的に叩きのめして、もう嫌だ、俺たちに関わるのは損だ、と思い知らせる必要があるんだ。分かるか?」
拳法の主張には破綻がなく、多少の飛躍はあるものの、いちおう筋が通っていて、その洞察と見通しは、自らの波乱に満ちた経験に裏打ちされていた。
しかし、何故だろう? その無敵に近い戦闘能力を発揮した帝国出身の武術家がユリウスを見る眼は、眩しげに細められ、困惑の色が見て取れた。
(大人が、ウソをついている時の眼だ)
ユリウスはその眼に、覚えがあった。大人が、嘘をついている時の眼。何かを、隠している時の眼だ。
「俺が連中を引き寄せて置く。お前はその間に走って逃げろ。うちにいるんだ、まだマークされてない筈だ。少ししたら俺も戻る、だから行け」
そして、拳法は少しだけ笑って見せた。いつもの笑み、とは違う、奇妙な笑みだった。恥、の色と、懇願、の色が、ない混ぜとなった、不思議な笑み。そして、その笑みにも、ユリウスは見覚えがあった。
(大人が、自分の欲望をごまかそうとしている時の顔だ)
例えば、ユリウスが売られて連れて行かれたいくつもの家で、そこにいる大人の男が、最初に「シャワーを浴びなさい」とか「からだを洗ってあげる」みたいな事を言って、意味が分からなくてその男の人の顔をまじまじと見てしまった時に、決まって大人の男がするのが、この顔だった。
眩しそうで、恥ずかしそうで、困ってしまっていて、でも言うとおりにしてほしい、……みたいな、そんな。
(このひとは、……)
ユリウスは、背中が急に寒くなった。息が、苦しくなり、そして思わず、後ずさりそうになった。
(このひとは、戦いたいんだ。戦うことが、好きなんだ)
昼間、「戦うことを止めたら、死ぬしかないッ、何故分からない?」と叱られた後、ユリウスは泣いてしまって、その後で、刺客の剣術使いに追われた時のことを、拳法は諭すように語った。
凄まじい殺気をまとった剣術使い、——
「本当に怖ろしかった」
ユリウスに、拳法はそう語った。石を握り、その剣術使いに襲い掛かる若き日の拳法は、悪鬼のごとき決死の形相で、瞬きを忘れて双眼を見開いた、無我夢中の姿だったに違いないとユリウスはイメージしていた。
しかし、今は違っていた。
両手に石を摑み、背後からその剣士に飛び掛かる拳法の相貌は、双眼は大きく見開いたまま、しかし口元には残忍な笑みが浮いていたに違いないのだ。
「さあ、行くんだ。今ならまだ、下には誰もいない筈だ」
道理、ではある。しかし、——
「いやだ!」
はっきりと、ユリウスは言った。眼には、決意が強く光っていた。
「ぼくも行く! ぼくも一緒に戦う」
自分のために先生が命懸けで戦うのに、その原因であるにも関わらず自分だけが、安全な場所に逃れようなんて、そんなこと、男なら、出来る筈がなかった。
「死ぬかも知れないぞ」拳法は言った。
「それでも行く」少年は応えた。「もう逃げないって、決めたんだ」
拳法は、一瞬だけ階下に視線を走らせた。しかし、すぐに視線を少年の貌に戻した。そして、突き刺すような眼光で、眼の中を、
眼を反らせば、或いは圧に負けて眼をつぶってしまえば、拳法はひょっとすると、一緒に逃げてくれるのかも知れなかった。でも、それは出来なかった。これからは戦うって、決めたから。戦えるようになる事で、今までと違う自分になれる、筈だから。
「ユーリ、最後にもう一度だけ言う、頼むから逃げてくれ」
真剣な表情のまま拳法は言った。
「連中は危険だ、今日、俺は何度死にかけたか知れない、俺と来れば、お前は絶対に助からない、ここで命を落とし、出ることは叶わない」
「でもっ! でも、せんせえと一緒に行く、……」
見ると、少年は泣いていた。おんなの子みたいな顔をくしゃくしゃにして、その子供のようなまるい頬を、涙に濡らして。
「だって、だってせんせえ死んじゃうじゃん、そしたらぼく、また一人になっちゃうよ、……もう、もう一人はやだ、だったら。せんせえと一緒にいる、せんせえと、一緒に死ぬ」
「ユーリ、……」
拳法はそう呟いて、その美しいこどもを見た。そして、下を向いてひとつ、溜め息を
判断に、もうこれ以上時間を費やすべきでは無かった。居着いてしまうのは、多勢に無勢の、正に無勢であるこちら側にとって、自殺行為にほかならなかった。居着いたその場所が、兵法上の死地となるのだ。
(逃げようか?——)
拳法も、さすがにそう思った。自分だって生きて出られるか分からないような階層為す迷宮:ダンジョンに、この子を伴っては進めなかった。迷った、その時だった。——
「塚原拳法、上がって来い、撃ったりはしない」
階段の上から、声がした。落ち着いた、大人の声。例えるなら子供に道理を説く、年配の教師のような声。拳法はハッと上階を睨み上げ、息を詰めた。この状況下で、ここまで落ち着いた声を出せる、——かなりの難敵であると想定せねばならなかった。
声の主は、グスタフ・デリンジャー本人、と見るべきだった。
「なぜ上がって来ない? そっちから殴り込んで来といて、今度は逃げる算段か?」
急に襲撃してきたのはそっちの方だ、——とは思ったが、もちろん答えない。こちらから、声を出してわざわざ自分の位置を知らせてやる必要は無い。
「オマエと一緒にいる少年、ユリウス・ビンセント・ディランは、ざっと100000ドルかけて用意した、我々の大切な商品だ、返してもらう、持ち逃げは、許さない、……」
「勝手なこと言うなッ!!」
拳法は、怒鳴ってしまっていた。
「うちで保護した時、ユリウスは酷く怯えて、本当に、本当に弱っていだんだぞッ! ユリウスはうちの子だ、それに今は俺の弟子だ、絶対に、絶対に返さないッ!」
「困ったヤツだな、……ならばチカラづくで取り返すまでだ、拳法」
「何だ、今度は迫撃砲でもブッ放す気か? 」
「そんなことはしない、機関銃も使わないし、ライフルも使わない」
「じゃあ何だ?」
と訊きながら拳法は、額と背筋とが、急に冷たくなった。
―― 爆弾?
しまった、そう思った。もっと早く気付くべきだった。一階のロビーであんなに時間をかけて暴れ回っていたのだ。仕込む時間くらい、あったに違いない。しかし、デリンジャーの答えは、違っていた。
「素手だ、――」
「……」 拳法は答えられない。こいつは一体、何を言っているのか?
「聞こえてるか? 素手だ、素手でオマエを叩きのめしてやるって言ってんだよ」
「はは、……」笑う、しか無い。
「出来ないと、思っているのか、拳法?」
拳法の顔から失笑の翳が消え、瞬間、真顔になった。
「せんせえ、……?」
ユリウスが心配そうに、下から顔を覗き込む。拳法は真顔だった。思い詰めた子供が泣き出す直前の、そんな表情にも見えた。しかし、三秒を待たずに、その貌は変化した。
満面の笑み。
「せんせ、……」
何が、そんなに嬉しいと言うのか?
何が、そんなに楽しいと言うのか?
拳法は、はち切れそうな程の笑みを、その相貌に浮かべていた。
「グスタフ・デリンジャー、俺を殴り殺してくれ、俺を殺せる程の男と、命が尽き果てるまで闘わせてくれ」
階段に足を掛け、拳法は三階へと上がり始めた。
「せんせえ、……」
細く、小さくなってしまう声で、ユリウスは呼びかけて見る。しかし、耳に届かないのか、拳法がそれに答えることは無かった。
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