第22話:口元に浮かぶ笑み「逃げられねえ、お前も、あの空手屋も」


 諦めていた。

 運命なんだと、思っていた。


 柔らかなクッションと、冷たい手触りの白い、シーツの上で、十三歳のその美しい少年は、男の手にされるがままでいるしかなかった。先刻までのように、ロープで縛り付けられている訳じゃない。でもユリウスは、逃げようとすら思わなかった。


 逃げられる訳なんてない。

 そう、諦めていた。


 その時、

 不意に何処か遠くから、大きな声が聞こえてきた。


「ユーリッ、何処だッ、ユーリッ、迎えに来たぞ!!」


 はっ、と息を吸い込んだまま、ユリウスは青く透きとおる眼を、まあるく見開いた。


(せんせえ、……)


 覆い被さっていた男の大きな影が、一瞬、動きを止めた。


「アイツ、……生きてやがったのか?」


 拳法の家で爆弾が使われたのは、ユリウスも知っていた。もの凄い音だった。あの建物の中にいた拳法が、助かるハズなんてない、そう思っていた。いや、——


(あるいは、武術の達人の、あの、せんせえなら、……)


 そう、何処かで信じている自分もいた。でも、——


(助けにきてくれる筈なんてない、……)


 そうも思っていた。だって!——


 こんなぼくと関わり合いになって、結果、こんなに傷め付けられて、こんなやく病神みたいに呪われたぼくと、これ以上関わり合いたいなんて、思うはずがない。


 でも、先生は、——


 すぐに、

 窓が割れるほどの衝撃がきた。

 銃撃が、始まったのだ。


 この建物の中に、こんなにたくさん銃があったんだ、と思うほどの、連続する、おびただしい銃声。


(せんせえ、……!!)


 こちらから眼を離し、ドアの方を呆然と伺う男の、覆いかぶさる影の、その胸を、ユリウスは両手で、力の限りに突き飛ばした。


「どいてッ! せんせえが、……」

「なッ、……!」


 下階の騒ぎに気を取られた男は、バランスを崩し、呆気なくダブルベッドの向こう側へと落ちてしまう。


「せんせ、せ、せんせえ、……」


 少年はすばやくうつ伏せになると、這ってベッドから降りようとする。

 と、

 その四つん這いになった右の足首を、ゲルマン人の手が、がっちりと掴んだ。大きくて、力のある、男の手。


「逃がすかよ」


 ギルベルトは言った。口元に浮かぶ笑み。


「逃げられねえ、お前も、あの空手屋も」


 男は、四つん這いになったその、子供のような丸い尻に気を取られながら、タイツ包まれた右脚を、強く、自分の方へと引き寄せた。


「あっ、くッ、……!!」


 大人の男の力に抗って両手で必死にシーツを搔くも、少年の薄くて軽いからだは、呆気なく男の方へと引き寄せられてしまう。


(なんで? なんでえ? ……)


 絶望していた。ムダな努力だ、そう諦めかけた、——


 刹那、


 はっ、と、

 あるイメージが脳裏に閃いた。


(せんせえが、せんせえが死んじゃう、——)


 だから、


(早く行かなくちゃ、——)


 迷っている、

 時間はなかった。


 そして普段なら決して実行に移したりしない行動を、ユリウスは選択した。


 右脚を引き寄せられる、その男の圧倒的な力に合わせて、左足のかかとを、油断し切ったギルベルトの鼻っ柱に、思いっ切り叩き込んだ。


「ぐッ、……がはッ!」


 鼻骨と、前歯を蹴り折られて、声を上げるもしかし、ギルは少年の脚を離さなかった。


 だってそうだろう? 逃がしたら、前に逃がしたアイツと同じように、アサルト・リヴォルバーで、ボス・デリンジャーに撃ち殺されるのに決まっているのだ。逃がす訳にはいかない。この脚を、離す訳には、いかない。


「離してっ、くっ、はなせッ!!」


 ユリウスはその顔面の同じところに、もう一度、さらにもう一度と、かかとを打ち込んだ。


「がッ、ぐッ、にッ、……逃がすかッ!!」


 ギルベルトは、それでも、その足首を離さない。


(せんせ、せんせえ、せんせ、せんせえ、……!!)


 しかし十三歳のその激しく踊り、暴れる脚に、冬物のタイツの中で素肌がすべり、その足首を逃してタイツの生地だけに五指を喰い込ませ、鷲づかむ形になる。


「あっ、……」


 タイツがズレて脱げかかるのを、反射的にウェストゴムを掴んで、ユリウスが引き上げる。すると、男が引き裂いて吸った、股間のすぐ横の裂け目が大きく拡がり、その裂け目はすぐに限界を超えて、太腿の付け根のあたりから、際どく裂けて、千切れてしまった。


「くそッ、……」


 そう呻くも、千切れたタイツの片割れを掴んだまま、ギルベルトは抗うすべもなくベッドの向こう側へと転がり落ちた。


(せんせえ、ここだよ、せんせえ、いま行くよ、……)


 ユリウスはベッドから降りると、自らの手で部屋の扉を押し開け、外に向かって走り出した。後ろを、振り返ることはなかった。



















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