第16話:紙タバコを咥えた口元には殺し屋ならではの凶悪な笑みが浮いていたが


玄関の呼び鈴が鳴った。時計を見ると、十九時四十五分、まだ約束の時間には少しだけ間があった。


ニーナにしては、珍しいことだった。いつも仕事に忙しく追われていて、約束の時間どおりに来ることなんて、まず無かった。


「ユーリ、ここで待ってろ、ちゃんといろよ」

「うん………」


リビングにユリウスを残し、拳法は玄関に向かった。コタツと化したダイニングテーブルの下には大きめのカバンが置いてあった。主にユリウスの衣服が入っていた。


(夜、ニーナが来る。そのまま保護、ということになるかも知れない、準備だけして置くんだ)


と拳法が指示したからだ。ユリウスは不安そうな顔をしたが、


(ユーリ、今は非常事態だ。こんなボロ屋にいるよりも、連邦捜査局に保護されている方が遥かに安全だ。分かるよな?)


そう諭した。黙ったまま浮かない表情のユリウスだったが、それでも言われたとおりに荷物をまとめ、準備した。そして早めに夕食を済ませ、ユリウスも片付けを手伝い、ちょうどそれが済んだ頃、誰かの来訪を告げる呼び鈴が鳴ったのだ。


「ニーナが約束の時間より早く来るなんて珍しいな」


そんなことを言いながら拳法は玄関に向かい、ドアのノブを掴んだその、次の瞬間———


拳法は自ら、倒れ込むように床に伏せた。


理屈じゃない。ドアの向こうに、気配が無かったのだ。微かな息づかいや、衣擦れの音が、いや音ですら無い気配としか言いようの無いそれが、皆無だった。


(誰もいない、おかしい)そう思った瞬間、玄関のたたきに反射的に伏せっていた。


刹那、———無数の射撃音がけたたましく鳴り響き、木製のドアを蜂の巣状にした。かなりの人数、———このドアを張っている奴だけでも、七、八人はいるハズだった。


「ユーリ、地下だッ! 地下に逃げろッ!」


鼓膜をつんざくような破裂音の中、拳法は怒鳴った。しかしその声は銃火器の発する、分厚い音の壁に虚しく、吸い込まれてしまう。


リビングの方で、機関銃のような連続する銃声がして、窓ガラスが粉々に割れる音がした。


「ユーリッ!!」


声を張り上げ、拳法はリビングに戻ろうとするが、玄関側の銃撃も激しく、うつ伏せたまま頭を上げることすら出来ない。


「撃つなッ! ガキだッ、ガキがいた!」

「そいつだッ! 女じゃない、男だぞッ! 捕まえろッ!」

「撃つなッ、殺すなよ!」


声がした。同時に、銃声が止んだ。———瞬間、拳法はケダモノのように四肢で床を掻き、うつ伏せの状態から猛然とダッシュを開始する。リビングの入り口の扉を、右肩から体当たりして破り、一分の間に変わり果てた部屋の様子を目の当たりにする。


庭に面した掃き出し窓のガラスは粉々に割れて無くなっており、そのリビングの中央に、二人の男が立っていた。大きくて重そうな銃を持った痩せ形の男と、プロレスラーのような体躯の大男。


ユリウスは、その羆のような大男に、背後から、左腕一本で抱きかかえられていた。太い腕だった。そしてその腕の皮膚の表面に、無数の血管と、固そうな筋肉の束とが、うねるように立体的に浮かび上がっていた。重機じみた力でからだを締め上げられといるのだろう、少年は逃れようともがき、そしてその少女のような顔を、切なそうに歪ませていた。


「ユーリ、………」


拳法は、不覚にも一瞬、泣きそうになった。連れ去られそうなユリウスを見て、こんなにも狼狽してしまっている自分が、不思議だった。


「そいつが拳法だッ!」


声がした。窓の外に、見覚えのある男が立っていた。ギル、———


「オマエ、そうだったのか、………」


暴力蔓延る合衆国にあって、最も恐れられる強盗団の仲間だったのだ。拳法は声と表情から驚きが隠せない。そんな拳法を黙って見返すギル。目に、怖れの色は無い。


「どうしてだ? 何故その子を攫う?」


拳法はそのニーナの助手だった筈の若い男をきつく見据えながらそう問うた。


「このガキは大事な俺たちの商品だ、返してもらう、それだけだ」


先程と同じ眼差しのまま、ギルは答えた。


「ユリウスはそのお前らから逃げて来たんだぞ、今はオレが養育している、だから今はウチの子だ、連れて帰るから返してくれ」


その言葉に、ユリウスは驚いたように目を見開いて拳法を見た。その丸く瞠られた瞳には、年相応の感情の色が閃いた。しかし、その少女のような美貌は、すぐに苦悶に歪んだ。大男が一歩後ろに退がりながら、その少年を抱える腕に、力を込めたのだ。


「放せ、殺すぞ」


拳法はその大男———ボリスに向かって歩を進めながら、言った。表情は変わらない。しかし、ボリスは逆に、後退さるのを止め、その巨体を支える双脚で床を踏み締めると、上から拳法を———武術家の東洋人を見下ろし、そして、笑った。


(その小さい身体で何ができる?)


その目は、そう言っていた。しかし拳法は構わず歩を進めて、言った。


「放せ、嫌ならその両脚をへし折り、頭蓋を叩き砕いて殺す」


謎の武術家・塚原拳法の名は、その場にいる誰もが知っていた。拳法のその言葉には、説得力があった。若い介護士二名を、瀕死の老人が殴り殺したニュースは、インパクトを持ってまだ人々の脳裏にあった。


「出来ないと思っているのか?」


拳法の相貌に、物凄い、笑みが浮いた。残忍、と言っても足りない、何と表現するべきか、それは不思議な笑みだった。不快、ですらあった。目を背けたくなる、そんな「何か」に塗れていた。


(俺は、若い女の性器を舐めるのが好きなんだよ)


そう告白する痴漢の貌に、近かった。


(俺は、女の◯◯を吸った汚物に興味があるんだ)

(俺は、妊婦を見ると無理やり◯◯してみたくなるんだ)

(俺は、男の子を◯◯させて罵り殴って泣かせてみたいんだ)


そういう種類の笑み。自信と、矜持とに、願望と、羞恥が入り混じった、複雑で、イカれた男の貌だった。


俺は、


素手で、


人を殺したいんだ。


素手で、


人体を、


破壊したいんだよ。


ずっと、


それだけを考えて、


稽古に明け暮れて来たんだ。


「いいのか?」


拳法はボリスに言った。


(俺の欲望を、お前の身体と生命とに、ブチ撒けてしまっても、いいのか?)


ボリスはさらに二歩退がった。目に見えない何かに強く押されて、退がった。ボリスも、レスラーをら目指して激しいトレーニングを長く積んだ年月を有していた。今でもトレーニングを怠らないのは、そのうねり、病的に盛り上がる発達した筋肉を見ても明らかだろう。


元より、只者ではない。


しかし、その格闘家の彼から見ても、目の前の空手家は危険だった。人間とは違う、何か、もっと、危険で、獰猛な生き物、———


「そこまでだッ!」


ガンマン・スカリーゼが、短機関銃を構える。紙タバコを咥えた口元には殺し屋ならではの凶悪な笑みが浮いていたが、何処かぎこちない、引き攣った笑みだった。


「強がりは、あの世でホザけ!」


そしてセレクターはフルオートの状態で、引き鉄を絞った。


一発目の射撃音がするのと同時に拳法は横に跳んでそれを躱した、


が、


射撃音はそのまま止む事なく連続し、弾痕が流れるように跳んだ拳法の後を追って来た。蛇のように。


拳法は驚きながらも更に跳躍し、コタツとして使っているテーブルに向かって転がった。柔術の受け身の要領で、脚が下になるタイミングで地を後ろに蹴り、何度も繰り返し、跳んでは転がった。


やったことの無い動作、ではあった。小型の機関銃の弾線に追われている、という特殊な条件に対応するための、咄嗟の行動だった。


こうするのが一番、速く、低く移動でき、弾雨を掻いくぐるのに適していた。本能が選んだ、最適解の動作だった。


しかし一つ、問題があった。その転がる先の、弾よけに使おうとしているテーブルの手前に、連中の仲間が一人いた。


このままだとブツかってしまう。が、拳法はそのままの勢いで転がり続けた。どうすればいいのか? 頭では、迷っている自分がいた。しかし身体は、本能の判断に従って勝手に動いていた。


男はライフルを持っていたが、拳法の転がり迫り来るスピードになす術が無かった。構えたまま判断が追い付かずフリーズしてしまう。


転がる拳法はそのまま勢いを殺さず、直前、足が地に着いたタイミングでその地を蹴って跳躍し、飛びかかる要領で胸部に正拳を突き込んだ。


軽々と胸骨を圧し潰し、男の身体をボロ布のように床に叩き付けて、そしてぶつかったテーブルから転がり落ちる、そのコタツの分厚い天板を掴むと、壁際に滑り込みながら身体の向きを変え、そのクソ重たい樫の板の、陰に隠れて弾幕を凌いだ。天板の裏にはタオル掛け状の頑丈な把手が取り付けてあり、ガッチリとホールドできた。


硬く分厚い樫板の向こう側をライフル弾が少しずつ齧り取る音を聴きながら、拳法はとても不思議な気分を味わっていた。


(そういう、ことなのか?)


サーベルを右手に、小楯を左手に、全速力で不毛の戦場を疾るダインスレイブの、その息づかいを確かに、確かに間近に、聴いたような気がした。


塹壕戦の悪魔。


なるほど銃火器は、刀剣類に対して、必ずしも優位では無い。


オールバックのローマ人が持つ最新鋭の小型機関銃には三十発ほどの弾が装填されているようだった。


三十発ごとに一回、銃撃が止む。


しかし盾を払って疾りだそうとすると、すぐにまた弾丸が、嵐のように横殴りに降り注いだ。一体どうやって弾を込めているのか、謎だった。


拳法は頭を上げることすらできずに、弾雨を樫の盾で凌ぎながら、悔しさに歯軋りした。だってこのままでは、ユリウスを助けられない。しかし、拳法は自らの逸る気持ちを抑える。


この状況は、いつまでもは続かない。勝負の潮目は、目まぐるしく変わって行くものだからだ。もうすぐ、状況に変化が生じる筈だった。そう、信じた。


しかし、状況は、思わぬ方向に転がった。


「逃げろッ、建物から出ろッ!」


誰かがそう怒鳴った。銃声が止み、不意に、静寂が降りてきて空間を満たした。樫の盾の横から素早く覗くと、部屋の中央に、棒が一本、転がって来て、止まった。たった今しがた、投げ込まれたものに違いなかった。長さは、三十センチくらいか、手に握るのにちょうどいい太さで、先の方が太くなっていた。


手榴弾だ、———


すぐに分かった。投擲用に柄が付いた、戦場でよく見るタイプの、手榴弾。


拳法は走りながら、


(そう、それしか無い)


そんな事を考えていた。この膠着状態から脱するために相手が取り得る、これが一番いい方法だし、素手での殴り合いに、付き合う理由も無いだろう。


部屋の中から逃げ出したかったが、外に飛び出ればその瞬間、狙い撃ちにされると考えるべきだった。その手榴弾を投げ返してやろうか? とも一瞬思ったが、やはりそれは危険すぎた。間に合わない。


「………ッ、ぐッ!」


拳法は部屋のコーナーに全速力で滑り込むと、背から壁に激しくぶつかりながらその衝撃に耐え、三方の壁の、開いている一方を、樫の盾でガキッと塞いだ。


来るぞッ、———


そう思い、首を縮め、腹の底から全身に力を込めた。そして次の瞬間、凄まじい音量の破裂音が来て、さらに盾を支える腕、肩、いや全身の骨を砕くような瞬間的な圧力、———衝撃が前からも、横からも、そして後ろからも同時に叩き付けた。


「ぐッ、がああああッ!」


拳法は吠えた。


吠えて、耐えた。


やがて衝撃が、


圧力が消えて、


酷い耳鳴りの中、盾を傍に退けると、埃と、火薬と、鉄の焼け焦げるにおいとが立ち籠める、その部屋の向こう側に、


すでに、人影は無かった。


ほんの少しの間、気を失っていたのかも知れなかった。強盗団の連中が逃げる、足音や、その自動車のエンジン音すら、していなかった。完全なる静寂が、辺りに立ち籠めていた。それが酷い耳鳴りのせいだったと気付いたのは、少し時間が経ってからのことだった。


「ユーリ、………」


そう呟いたまま、拳法は警戒することも忘れ、ふらりと立ち上がり、その場に立ち尽くした。視線を左右に彷徨わせるも、あの、眼と、頬とに、幼さを滲ませた美しい少年は、何処にもいなかった。


「ユーリ、ユーリ、………」


ドアが軋む音がして、ハッとそちらに振り向くと、ニーナが、表情を失くして立っていた。


「せんせえ、これって、………」


変わり果てた家の様子に、ようやくそれだけを言って、しかし拳法に視線を転じたニーナは、すぐに驚きに眼をまるくして、大急ぎで駆け寄って来た。


「先生ッ、どうしたの? ひどい怪我、………」


拳法は、頭から血を浴びたようになっていた。髪の中から血が流れ、生成りのシャツを赤黒く汚していた。服もあちこち破れ、その破れ目にも赤く、血が滲んでいた。


「機関銃で銃撃を受けた、それから爆弾を投げ込まれて、………このザマだ」


「ば、爆弾? き、………機関銃って、え?」


「デリンジャーだ」


その名を聞いて、その連邦捜査局の女性捜査官は黙った。そしてすぐに、さっき拳法がそうしたように慌てて周囲を見まわし、


「ゆ、ユーリくんは?」


と訊いた。瞳が、不安に揺れていた。


「攫われた、手榴弾を投げ込まれて、どうにも、………出来なかったんだ」


拳法は、何か大きな塊を吐き出すようにそう言うと、ニーナの肩を両手で掴んで、こう続けた。


「情報をくれ、連中の居場所について、知っていることを教えてくれ、———」


瞬きを忘れたその、武道家の燃えるような瞳の色に、ニーナは息を呑んだ。


「ど、どうするの? そんなこと訊いてどうするの?」


そう訊いてすぐに、あっ! とニーナは口を開け、


「ダメですよ! そ、そんなのダメです! 今すぐ行くなんて、絶対に、ダメですよ!」


それは禁止、というよりむしろ懇願、に近かった。しかし、眼の色を変えないまま、瞬きしないまま、女性捜査官の眼の中を覗き込み、その武道家は、言葉を継いだ。


「約束したんだ、もうそんなことしなくていいって、———だから、今すぐに、助けに行く」






















































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