第15話:もう、そんなことしなくていいんだ………
少し性急だったかも知れない。結果的には、確かにあまり意味が無かったかも知れない。しかし、それでもオレは、ああせずにはいられなかったのだ。
ユリウスは何かに対して酷く、怯えていた。心を固く閉ざし、何も感じなくて済むようにしているようだった。何も、感じないように。何も、思わないように。そうして、残酷な運命の手が、自らの手を取りに来るのを、すべてを諦めて、ただじっと、待っているようだった。
「お前に戦い方を教えたい」
そう言って、拳法はユリウスを道場に誘った。
「暴力は決して振るってはいけない。しかし暴力は、こちらの気持ちや都合などお構いなしに、向こうからやって来る。戦い方を知り、戦えるようになれば、その心構えだけで、防げるトラブルや暴力もある」
そう説明した。
「お前に武術を授けたい、お前を、護りたいんだ」
拳法は右手を握って
「親指は外側だ、巻き込まない。しっかり握らなきゃダメだ、指を折ってしまう。人間の手は、物を殴るようには出来ていない。そのことを忘れると、怪我をしてしまう。手首は真っ直ぐ、腕から手の甲にかけて真っ平らじゃなくちゃダメだ。力がちゃんと伝わらないし、手首を挫いてしまう」
拳を作ってみせると、ユリウスの顔から血の気が引き、紙のように白くなった。目から表情が消えて、本当に、何も書かれていない紙のような顔だった。「手首は真っ直ぐ」と言って左手のひらを右拳で叩いてみせると、息を呑む、はっ、という音が喉の奥の方から聞こえた。
確かに、確かに今日のユリウスはおかしかった。ユリウスの精神状態はあまりいいとは言えなかったし、本当はこんなこと、今日教えたりするべきじゃなかった。今までだって時間はいくらでもあったのに、でも教えなかった。それは、ユリウスが武術の動作をなぜか嫌がるからで、やはり無理は良くないと思い、今まで教えなかったのだ。だから、よりによって、こんな状態の悪い日に、武術なんて教えるべきじゃなかった。
「パンチを出す時は、振りかぶったらダメだ、力は入るが、遅すぎて当たらない。構えたところから、真っ直ぐに腕を伸ばすんだ」
正拳突きの動作を、ユリウスのすぐ目の前でやって見せる。すると、ユリウスの身体が、小刻みに震え出した。
「ほら、ユーリ、やってみろ、見てるだけじゃ出来るようにならない」
やらせようとして、拳法はユリウスの手を掴もうとした。どうかしていた。動顚していたのは、或いはオレの方かも知れない、そう思った。デリンジャーという、現在思い付く限りにおいて最も物騒な固有名詞がユリウスの口から飛び出して、こちらの方が驚いてしまったのだ。情けない、みっともない。しかしその時の拳法は、
(これほどの危機が迫っているのに、武術のことが、怖いとか嫌いとか、そんな呑気なこと言ってる場合じゃないだろう、自分の置かれている状況が本当に分かっているのか、まったく、これだから子供は、………)
という気持ちになってしまっていたのも事実だった。
拳法が手を掴もうとすると、その手をユリウスはパッと引っ込めた。そして身を縮めながら一歩、後退った。ユリウスは、瞬きをしていなかった。乾燥しているのか、その目にいつもの輝きは無かった。
———大東亜武徳会が七人の刺客を放ってオレを殺害しようとしている———・・そう知った時の恐怖と不安を、拳法は思い出す。誰一人頼れる者のないまま、どうすればいいのかも分からないまま戦い、逃げる続けるしか無かった日々。
何人目だっただろう? 剣術使いに襲われた時は、本当に怖しかった。相手の一瞬の隙を突いて雑木林に逃げ込んだ、までは良かったが、すぐに追い付かれてしまい、隠れた灌木の陰から、身動きが取れなくなった。ひそめる呼吸の音がもの凄く大きく聞こえ、胸の奥で打つ心臓の鼓動さえ、その音で居場所がバレてしまうのではと、心配になる程に大きく感じられた。
あの時の息づかいを、気が狂って喚き出したくなるほどの怖ろしさを、オレは生涯忘れる事など出来ないだろう。
あの時の、切迫した気持ちが、甦ってくる、………
「ユーリ、いい加減にしろッ!」
そうだ、オレはその凄まじい殺気を纏った剣術使いを、………
「戦うのを止めたら死ぬしかない、何故分からないッ!?」
両手に掴んだ石で、殴り殺したのだ。
「何時までも子供じゃないんだ、構えろッ!」
異変が起こった。この先を、語るべきなのか、迷っている。とても奇妙な出来事だったし、おかしみや憐れさを通り越して、悲惨ですらあった。
その時のユリウスの目は、何も見ていなかった。その目の焦点はどこにも合っておらず、宙空の、見えない一点を凝視し続けていた。寒いのか、身体はひどく震えていたが、顔の表情は、本当に何も書かれていない白い紙のようで、どんな感情も、示してはいなかった。
ユリウスは、穿いていた綿のカーゴパンツを下着ごと膝まで脱ぎ下げた。一息だった。柔らかそうな脚のフォルムと、目に痛いほどの肌の白さが、ひどく場違いに思えた。
少年は屈めてた上体をいったん起こすと、真っ直ぐに立った姿勢で拳法を見た。自らの肢体を見せ付けている、ようでもあった。
しかし、すぐにその場にぺたりと座り込むと、手で顔を隠して、少年は泣き始めた。
「乱暴しないでえ………」
そう言って、めそめそと泣き始めた。
拳法は、今はすべてを理解した。大人達が、十一歳だった少年に、いったい何をしたのか? そして十三歳なるまで、どんなふうに扱って来たのか? きっと、嫌で、拒んで、殴られて、それから………
最初に浴室でからだを洗った時、肌を見られるのを猫のように嫌がったり、TVやラジオから流れてくる性的な内容に嫌悪を示したり、拳法が武術や拳闘の動作を見せると能面のような表情になったり、思い出すと、枚挙に暇がなかった。
立てて座り込んでいたその両膝にカーゴパンツが引っ掛かっていて、その生地の硬くて丈夫そうな質感とは対照的な生脚の、その白くて柔らかそうな肌が、なぜか儚くて、か弱くて、まだほんの子供なのだと、思い知らされずにはいられなかった。
拳法は、視界が真っ白に眩むほどの怒りに、目を見開いたまま耐えた。きつく口を閉じ歯を食いしばっていたのは、そうしていないとなぜか、泣き声が漏れそうだったからだ。
拳法は、ユリウスの横に片膝を突いてしゃがむと、泣いている少年の、その濡れたように美しい髪を撫でた。
「もう、そんなことしなくていいんだ………」
それだけ言った。それしか、言えなかった。
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