第8話:「俺は共産主義者じゃない、ウォッカは嫌いなんだ」


 夜半の街角に、男が独り、佇んでいた。

 初冬の冷たい空気は、その男の吐く息を、白く曇らせた。

 コートの襟をそば立てながら、男は先程からしきりに腕時計を覗き込んでいた。


 ―――23時56分、まだあと4分も待たねばならない。


 爆破テロや、武力衝突のせいで、街の中心部は廃墟の様相を呈していた。街には人影はなく、街灯もまばらにしかなくて、静か、を通り越して荒涼とした雰囲気だった。


 病院の前に、その男は立っていた。

 年齢は二十代半ば、眠そうな眼をしていた。

 若いのに下顎には脂肪が溜まり、背中もやや猫背に曲がって、全身から疲れと、そして怠さとが漂っていた。

 再度、時計を見る。


 ―――0時00分、時間だった。


 男はいそいそと車道を渡り、正面にある病院へと急いだ。正面玄関エントランスではなく、建物左手にある車庫の、その奥にある職員通用口へと回り込む。


 その病院は、四階建ての鉄筋コンクリート造の建物で、内科と、歯科と、産婦人科を診療科にしていた。街中でよく見かける規模感の病院だ。一階が内科と歯科、二階が産婦人科、三階がその産婦人科の入院施設、四階が医局と事務のフロアになっていた。


 入院できる病棟階があるにも拘らず、灯りが一つも見えなかった。一年ほど前に過激派の襲撃を受け、その際にガス爆発が発生、患者や医療従事者、約五十名が犠牲となる大惨事があり、現在、病院としては使用されていなかった。


 ちなみに、この事件、どこからも反抗声明は出なかった。当り前のことではある。テロ、ではないのだ。テロは、実は武力攻撃ではない。テロはプロパガンダである。自らの主義・主張を広く世界にアピールするための宣伝行為、それがテロなのだ。この武力行使は敵を叩いて黙らせる目的で企画されたものであった。敵に、純粋に人的被害をもたらすための、強襲銃撃 ———


 ローディニアは、戦場だったのだ。激戦地、と言ってもいい。戦場の、その最前線で人が大勢死ぬのを「テロ」とは言わない。


 焼け焦げた屍の、その無数に床を真っ黒に埋める惨状の、その舞台となった場所で子供を産みたいと願う妊婦は、稀だろう。病院はその後、誰も管理する事なく放棄され、やがて廃墟と化した。……… 三ヶ月ほど前、何者かがその建物を安く買い叩き、入り込んでいた浮浪者を銃で脅して追い出し、厳重に施錠して管理するようになるまでは。―――倉庫か何かで使用しているのか、夜間にときどき人の出入りがあったが、それ以外は無人だった。少なくとも、傍目にはそう見えた。


 建物正面を左に回り込んだ職員通用口の扉を、疲れた眼の男はノックした。ゆっくりした、等間隔のリズムで、


 四回、三回、七回、二回、


 あまり大きな音を立てないように控えめな強さで叩いた。事前に知らされていた回数、だった。


「こんな時間に何の用だ?」


 すぐに、ドアの内側から声がした。ハッとした、驚いた。だって、こちらが来るのをずっと、息を潜めて待っていたような、そんなタイミングだったのだ。しかし短く息を吐いて呼吸を整えると、そのドアの内側の声に向かって、男はゆっくりと、確かめるようなペースで、こう返した。



 二重に施錠されたドアのロックを解除する音がして、無言のまま、その扉が内側から開いた。


「入れ」


 ドアをノックする回数も、合言葉も、事前に知らされていたものだった。都度、ノックの回数や合言葉は変えているようだった。「絶対に間違えるな」そう注意されていた。間違えたら、或いは生きては帰れないのかも知れない。そう、ここは合衆国内の至るところにある、———


 列車強盗:グスタフ・デリンジャーの潜伏場所、アジトだからだ。


「ボスのデリンジャーに呼ばれて………」


「シィッ!!」


 強い調子で言葉を制止された。


「その名を口に出すんじゃねえ」


 三十がらみの、そのサングラスの男は、厳しい口調で短く言った。ダークスーツに、濃いグレーのシャツ、黒く染めた髪をオールバックに撫でつけた、如何にもマフィア的な意匠だった。それに、


 夜に、サングラス、不自然だった。


「案内する、何も喋らずに、付いてこい」


 考える間もなく歩き出す男の背を、ギル、———ギルベルト・キルヒマンは追った。


 病院に中は、外から見たよりも広い印象だった。ワンフロア五百平米くらいか、医療機器や待合の椅子などは当然なく、ガランとしていて埃っぽかった。さらに照明はポツポツと疎らに点いているだけで、全体的に薄暗く、廃墟じみた様子だった。


 エレベーターはあったが故障したままで、階段を使って四階まで移動した。どのフロアも荒れ果てていて、薄暗く、同じような印象だった。思ったよりもたくさんの人がいて、三十人くらいか、しかし新聞に載るほどの非合法武装組織の首領が連れている人数としては、少なくも感じられた。


 四階の、一番奥にある部屋の前に、一人の男が静かに立っていた。運動用のジャージのような衣服を着た、身長二メートルはあろうかという大男である。デリンジャーの、ボディーガードなのだろう。頚が太く、肩の筋肉が大きく盛り上がった、プロレスラーのような体格の男だった。特に腕の筋肉が大きく発達していて、サイズ的にはゆったりした大きめのものであるにも拘わらず、ジャージの二の腕の部分がはち切れそうだった。


「スカル、そいつは誰だ?」大男が言った。

「ボリス、取り次いでくれ、ギルバート・キルヒマン、そう言えばわかる」こちらを眼で示しながら、そのスカルと呼ばれたオールバックのマフィアは答えた。

「先客がいる」ボリスと呼ばれた筋肉男は、にべもなく言った。表情が、乏しかった。暗いので分かりづらいが、顔色も、あまり良くないようだった。薬中かも知れない、………ギルは思った。しかし覚醒剤中毒と、あまりに発達した筋肉は、互いに相容れない、矛盾したものと感じた。明らかに、変だった。

「先客がいるのは承知している、いいんだそれで」表情変えずにスカルは言った。「取り次いでくれ」

「………」ボリスは何も答えず、やがてドアをノックして開け、中に向かって声を掛けた。「ボス、スカリーゼが、客人だと、………」


「入れ」


 中から声がした。――― デリンジャーだ。


 スカリーゼと一緒に中に入ると、やや広めの部屋の中央にある、立派な造りの木目調のデスクの前に、髭を生やした痩せぎすな男が座っていた。忙しそうに、何か書類に眼を通したり、メモを取ったりしていた。


「ボス、連れて来ました、ギルバートです」スカリーゼが言う。それに対し、デリンジャーは視線をあげずに、「ギルベルト、だ、気を付けろ、ギルベルト・キルヒマン、名前を間違えるなんて失礼だぞ」と言った。

「失礼しました、名前の綴りを書面で見て、すっかりギルバートだとばかり、………」そう釈明すると、スカリーゼはこちらを振り返り、少しだけ、頭を下げてみせた。その酷薄そうな印象の三白眼に、苛立ちが滲んでいた。そして、額に浮いた汗、———


 ギルは、反射的に理解する。口と顎とに薄く髭を蓄えた、この、田舎の学校の事務長のごとき風采の上がらない「デリンジャー」と呼ばれる男が、いかに仲間から畏れられ、絶対的に君臨しているのかを。


「座りなさい」


 書類から疲れた視線を上げてこちらを見ると、デリンジャーはその眼でソファーを示した。もともとは院長室か、理事長室だったのだろう。やや広いその部屋の、入って右手前に、コーヒーを置くくらいにしか用を成さないごく低めのテーブルと、決して高級とは言えない固そうなソファーとが置いてあった。応接セット、という事なのだろう。そして、そのソファーには「先客」が一人、腰かけていた。


 部屋の中には、正面のデスクにデリンジャーが座っており、その前にギルベルトが立ち、ソファーには「先客」が腰かけ、入口にはスカリーゼとボリスが、ギルと同じく立っていた。薄暗い、埃じみた執務室に、五人、——— それでも狭いとは感じさせないくらいの広さが、その部屋にはあった。


 即されたギルが、そのベンチみたいに固いソファーの手前側、左側に座りながら、その「先客」に軽く会釈をしたが、そいつはギルを見ることもしなかった。ギルよりやや年嵩としかさの、二十代の終わりくらいの男だった。針のように細い眼をした、神経質そうな顔付きの男で、仏頂面で、ギルを完全に黙殺していた。


「さて、………」


 デリンジャーが言葉を発した。その応接セットのテーブルを挟んで反対側にも、一人掛けのソファーが二脚置いてあったが、彼はそこには座らず、このままの位置関係で話を始めたいようだった。そして、ソファーの右側に座っている男に、視線を向けた。


「話を始めよう、子供を、逃してしまった時の状況を訊かせてくれ、………」






















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