第2話:俺は逃げた。大東亜武徳会が放った、七人の刺客を殺して。

 

 俺は、大東亜帝国の武道家だった。徒手空拳術としゅくうけんじゅつ、カラテをやっていた。不器用で、身体も小さく、才能も無かった俺は、大して強くも無かったが、武道の競技者としての盛りも過ぎた二十代の終わり頃、不意に、晴天に雷に打たれたような唐突さで、俺は術理に開眼したのだ。


 四肢の連動、双腕と重心、力とは何か、速さとは何か、——— 俺は、人間がかつて四つ脚の動物だった頃の、しかし今もこの身の内に組み込まれた原初のメカニズムに、気付いてしまった。そして人間と猿にしか無いこの二本の腕が、空中ですらバランスを制御することの出来るダイナミックかつアクロバティックな機能を有していることに、気付いてしまったのだ。


 四つ脚の動物が持つメカニズムと、類人猿だけが持つダイナミズム、その双方を兼ね備える人類は、実は怪物じみた運動性能を有する特別な存在なのだ。


 四つ脚の動物が持つメカニズムは、速さと、スタミナをもたらす。これは色んな意味での「無駄」が排除される結果である。


 双腕・二足歩行の猿人が持つダイナミズムは、爆発的なパワーと、破壊力をもたらす。ひれは水を掻き、つばさは空気を掻く。そして人間が有するこの長大な二本の腕は、重力を「摑む」ためにあるのだ。


 この「術理」についての説明はこの辺で止めておく。理解不能に違いないし、頭がオカシイと誤解されるかも知れない。まあ実際に、そうなのかも知れないが。


 俺の前に、敵はいなくなった。相手の動作は緩慢で、冗長で、無駄が多く、見切るのも付け入るのも、簡単だった。


 相手の動きを見切るには「眼」を鍛えねばならない、そう教えられてきた。動体視力をトレーニングしなければならないと。しかし、それは間違いだと気付かされた。相手の攻撃技より自分の攻撃技の方が速ければ、相手の攻撃は自然に見切れてしまうのだ。速い動きを眼で追う練習をするよりも、無理なく速く技を出す工夫をした方が、見切る力を付ける上では、実は近道なのだ。


 稽古で、試合で、俺は負けることが無くなった。無敵と言えた。それまでの俺は弱かった。急に、本当に急に、敵がいなくなった。


 だから、

 俺には、

 道場や武門、

 流派といったものが、

 よく分かってはいなかった。


 俺は周囲に、自らが摑み取った理論と、その成果を、積極的に説明した。武門の門弟である。より強くなるための方法論に、誰だって飢えているハズだ、そう思っていた。自分が、そうだったからだ。武術の、その奥義という名の秘密をこの手で摑みたいと、泣きたい程に切羽詰まった気持ちで、願い、祈り、焦がれ続けて来たからだ。


「こういう練習をした方がいい」「いやでもそれはカラテの教えと違う」「カラテとは本来、古の戦闘における個別の技術の、単なる集積に過ぎない、統一的な格闘術として、カラテは必ずしも合理的ではない」「俺はカラテを学びにきてる、おまえの我流の格闘法なんかに興味は無い」「じゃあ俺と勝負しろ、どっちが強いかかが分かれば、白黒ハッキリする」「おまえだってカラテの道場の門弟だろう?」「カラテの間違いを正したい、そうすれば、カラテはもっと強い、完成された武術になる、なぜ分からない? なぜ理解しようとしない?」


 俺は、程なく破門となった。そして、俺は狂った。俺はまだ、子供だったのだ。俺は、やはりカラテを愛していた。道場は、俺の心の家であり、そして師範は、父に違いなかった。親の愛をねだる子供のように、俺は、道場に乗り込んでは勝負を挑み、試合に押しかけては全員掛かって来いと騒いだ。そして、これは一番やってはいけないことだったが、衆人の耳目が集まったところで、俺は自らが獲得した術理を、その到達した境地を、滔々と語った。そして、———


 俺は大東亜武徳会から命を狙われることとなったのだ。


 大東亜武徳会とは、軍事国家である大東亜皇統帝国の国家総力戦体制の下に、同国独自の伝統・精神文化である武道を管理・統制する目的で設立された強大な組織である。剣術、槍術、薙刀、弓道、柔術、合気、骨法、空手、他の武術の、それぞれの主要流派の宗家・総帥クラスの師範が、会員としてその名を連ねていた。


 俺が偶然気付いてしまった格闘力学は、中国の武術である太極拳や大気拳などでは、実は当たり前の術理だった。俺が提唱した身体の使い方の基本、四足輪転動作よんそくりんてんどうさは、四肢を連動・調和させた円の動きであり、これは中国武術においては、実は基本的な考え方だったのだ。


 まあ、当然のことではある。人間の身体の機構には人種で比較してもさほど大きな違いは無く、その身体能力を効率良く引き出すための原理は、結局のところ一つしか無いのだ。


 突き詰めて考え続ければ古今東西を問わず、誰もが辿り着く身体の運用法の最終的な結論、それが四足輪転動作であり、両腕バラスト理論なのだ。


 この身体機能を理解し、活かし、殺さないように留意することで、容易に、強大な力を人体から引き出すことが可能となるのだ。


 鍛えることは、重要では無い。理解することが、重要なのだ。


 大東亜帝国の武術界は、一部の古流の剣術を除いてこの知見を得る境地にまで恐らくは到達してはおらず(ひょっとして、到達してはいるが伝承されて来た基本と違うので認めたく無いのか? 或いはホント凄い極意なので他流に対して内緒にして置きたいのか?)俺が声高に訴える理論は「気狂いの戯言ざれごと」という事になり、それでも試合を荒らし回っている内に「彼奴あいつを黙らせろ」やがて「殺してしまえ」という事になったらしかった。


 そして、当時まだ国交があったローディニア合衆連邦共和国に、俺は逃げた。大東亜武徳会が放った、―――


 七人の刺客を殺して。




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