第32話

 テスト当日を迎えても、僕の熱は下がらなかった。


 千紗の部屋のベッドに寝転び、体温計を手に僕は低く呻いた。完治した千紗は、昨日の夜から僕の部屋で寝てもらっている。この部屋にいると、千紗がまた感染するかもしれないからな。


「……それじゃあ、行ってくるね」


 完治した千紗は、学校へ行く準備を済ませたらしい。部屋の向こうから、声が聞こえてきた。


「ああ、頑張れよ……」


 僕はベッドへ横になり、目を閉じた。扉の向こうから、扉を開く音が聞こえ、千紗が出て行ったのが分かる。


 彼女がいなくなったのを悟って、深くため息を溢す。


「結局、約束は果たせなかった、か……」


 身体が重い。風邪だけが原因じゃなくて、千紗と離れ離れにならないといけないという現実に、心までも押しつぶされそうになっているみたいだ。


 考えていたら、もっと気が沈んでしまいそうだ。


 考えるのをやめて寝よう。


 そう、目を閉じた時だった。


 ――ピリリリッ、と。


 スマホに着信が入った。枕元に置いてあったスマホを取り、通話を開始する。


『……千紗はどうだ?』


 電話の向こうから聞こえてきた厳かな声は、千紗のお父さんの者だ。僕は熱で溶けそうになる脳を働かせ、言葉を返す。


「千紗なら、さっき学校に行きましたよ。僕は千紗の風邪が感染って、テストも受けられませんけどね。これで、もう千紗とは一緒に暮らせませんよ」


『……そうか』


 千紗のお父さんが、苦い物を噛んだように呻く。僕が両親と再会し、二人と約束した内容は既に知っている。僕が両親の下へいくと察しての反応だ。


「大丈夫ですよ。僕は、ただ以前の生活に戻るというだけですから」


『しかしな……』


「それに、僕は絶対に両親に負けませんから。必ず、あの両親の呪縛から抜け出して、千紗に会いに行きます」


『っ……!』


「そのときは、よろしくお願いしますね、


 僕が言った瞬間、千紗のお父さんは笑った。


『ははっ! いいだろう。だが、俺は待たないからな』


「待たせませんよ。すぐに千紗の下へ戻ってみせますから」


 僕は心に燻る言葉を口にし、電話を切った。スマホをベッドの上へ投げ出すと、枕に顔を埋めてため息を溢す。


 啖呵は切ったものの、両親から逃げ出す手段は何も考えていない。多少、獲物が逃げたところで、狩人は諦めたりしない。僕はかられる側だ。


 それでも、僕は千紗と一緒に暮らしていたい。


「……諦めちゃ、ダメだよな」


 心に、そう言い聞かせて、現状を打開する方法がないか考えてみることに。


 一日目のテストはもう始まっている。今日のテストを受けられない以上、僕が学年上位を取るのは不可能だ。


 だからといって、両親との約束を無視することはできない。約束を反故ほごにする行為は、借金から逃げたあの両親と同じ行動だ。僕は、両親のようにはなりたくない。


 どこかにないのか。


 約束を反故にせず、千紗とこれからも一緒に暮らせる手段が。


 熱で溶けそうになる脳で、僕は必死に考え続けた。



***



 気づけば、僕は眠っていたらしい。


 時計を見上げれば、そろそろ千紗が帰ってくる時間だ。千紗の顔を思い出した途端、心に穴が開いたような錯覚を感じた。


 寂しい。


 早く千紗に会いたい。


 でも、今の僕が会って、千紗にまた風邪をうつすわけにもいかない。会うのは、まだ我慢だ。


 ああ、だけどこのベッドから千紗の匂いがするんだよな。すごく寂しい。今まで、こんな気持ちにならなかったはずなのに。キスしたせいで、意識し始めたのか……。


「――ダメだ。何かして気を紛らわそう」


 このままジッとしていると、よからぬことを考えてしまいそうだ。一度、ベッドから立ち上がってみる。寝る前までは立ち眩みをしてたけど、今は大分マシになっていた。風邪もそろそろ治るのかもしれないな。


 あと一日、早ければよかったのに。


 って、そんなこと言っても仕方ないか。


 ため息を溢して部屋を見回す。すると、机の上に千紗が用意してくれた模試が目に留まった。そういえば、用意してもらったけどやってなかったな。


 暇つぶしも兼ねて、模試を解いてみることにした。熱がまだ引いていないせいで本調子じゃないが、やらないよりはマシだろう。


 机の前に座り、問題が並べられた紙を見下ろす。問題は全教科分あったが、一枚の用紙に全て纏められている。普段はだらしない千紗だけど、字は綺麗で読みやすい。筆記用具を手に取り、時間を計りながら問題を解いてみることにした。


 解答を進めていくと、千紗の用意してくれた問題が本物のテストと遜色ないくらいのクオリティだと気づく。これが実際のテストとして出されても全く気にならない。千紗には、やっぱり勉強の才能があるんだな。


 こんなテストを熱でフラフラになりながらも、僕のために用意してくれていたのか。


 彼女の思いやりに涙が出そうになる。って、集中しろよ僕。首を振り、テストに集中することにした。


 やがて、テストを全て解き終えた頃、玄関の扉が開く音が聞こえた。千紗が帰って来たらしい。


 いつもなら、帰宅してすぐに洗面所に向かって、手洗いうがいをするはず。しかし、今日は真っすぐこの部屋へやって来た。扉が開かれ、少しだけ千紗が顔を覗かせる。


「大丈夫……?」


「ああ、大分よくなったよ。千紗の方は?」


「ん。問題ない」


 千紗は寂しそうに頷いた。


「……って、その問題……」


 机の上に広げた模試に気づいて、千紗が呟いた。


「暇だったし、せっかく千紗が作ってくれたものだからやってみたよ。解答が合ってるかは分からないけど……」


「……そう。じゃあ、答え合わせしてあげる」


 千紗は僕の隣に座ると、鞄を置いて筆記用具を取り出した。赤ペンを筆箱から取り、採点を始める。


「って、近づくと感染るかもしれないぞ……」


「いい。志郎だけ苦しむのなんて、嫌だもん」


 出来れば、千紗を遠ざけたかった。でも、僕にはできなかった。逆の立場になれば、きっと僕だって千紗に風邪を感染されていいと思ったはずだから。僕らはお互いを大事にしすぎて、似た思考をしているらしい。


「……出来たよ」


 しばらくして、千紗が赤ペンを机に置いた。机の上に広げられた問題用紙を見て、僕は息をのんだ。


「っ……」


「……全問正解、だね」


 千紗は悔しそうに溢した。


 僕だって、同じ気持ちだ。


 ――もし、これが本物のテストだったら。

 ――もし、今日テストを受けられていたら。


 僕らは、別れなくて済んだかもしれないのに。


「本当に、離れ離れになっちゃうのかな」


「ああ。約束は、守らないといけないから」


 僕が答えると、千紗の双眸から涙が零れた。身体を震わせて嗚咽を溢す彼女の肩を抱き寄せ、僕は歯噛みする。


 離れたくない気持ちは、一緒だ。

 

 なのに、運命は僕らを引き裂こうとしていた。

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