第29話
バイトから帰宅すると、真っすぐ千紗の部屋へ向かった。
小さくノックをしてから扉を開く。部屋は薄暗く、常夜灯だけが灯されていた。眠っているのか? いや、布団がもぞもぞしてる。
「千紗? 起きてるのか?」
寝ていた時のために、声を落としながら話しかける。返事がない。一度、部屋に入り、ベッドへ近づいていく。
千紗は頭まで布団を被っていた。布団の中からくぐもった声が聞こえる。もしかして、寝ている間に頭から布団を被って呼吸できずに苦しんでるんじゃ……。
心配だし、ちょっと布団をめくってやろう。千紗の寝顔なんて何度も見てるし、どうせ寝てるなら構わないだろ。
千紗の布団へ手を伸ばす。
柔らかな素材をした布団を、ゆっくりと捲り上げていくと……。
「えへへぇ……志郎、いい匂い……すーはー、すーはー」
――僕の体操着を顔に押し当てて、鼻息を荒くする
「は……?」
「はあ、はあ……この匂い、ずっと嗅いでたい……志郎の匂い、落ち着くのぉ……」
「……おい」
「んえ? 何か、志郎の声が聞こえる気が……」
千紗が僕の服から顔を上げる。
目と目があう。僕の存在に気づくと、千紗はみるみるうちに顔を赤くしていき。
「ひゃああっ!?」
絶叫を上げた。
身体を起こし、ベッドの上で女の子座りになりながら叫ぶ。
「な、な、何で志郎、もう帰ってきてるの!?」
「バイト終わったからな。それよりも、僕の服を返してくれるか?」
「うぅ……」
「って、おい! 何で背中に隠す!?」
すると、千紗は拗ねるように僕を上目で見つめてきて。
「だって……風邪の時って人恋寂しくなっちゃうじゃん……志郎の匂いを嗅いでたら、ちょっと体調も良くなるから」
「いや、寂しくなるのは分かるけど……」
「お、お願い……風邪を引いてる間だけでいいから、志郎の服貸してよ」
千紗が僕の服を抱きしめて、上目で見つめてくる。
うっ……そんな風にお願いされたら断れないだろ。
「わ、分かったよ。服でも何でも好きにしろよ」
僕はベッドに腰を下ろし、千紗の頭を撫でた。安心したように、彼女の表情が緩む。
「志郎のこと考えてると、ちょっと元気が出てくるかも……」
「そんなことあるのか? ……よく分からないけど、風邪を治せるようにいいもの買ってきたんだ」
「いい物?」
僕は頷くと、一旦、千紗の部屋を出た。キッチンヘ向かい、作業すること数分。もう一度、千紗の部屋へ戻ってくる。
僕の手にはレモン果汁を入れたホットコーラと、ネギがある。千紗はそれをジト目で見つめてきた。
「……まさか、民間療法?」
「やらないよりはいいかなって思って。ほら、ネギを首に巻こう」
「それは絶対にヤダッ!」
「ど、どうしてだ!?」
「臭いがキツいからに決まってるでしょ!」
千紗はどうしても受け取ってくれないみたいだ。まあ、流石にネギは僕も効かないと思う。
「じゃあ、こっちのコーラだけでも……」
「むぅ……本当に効くのかな、これ……」
千紗は怪訝そうに眉根をひそめながらも、マグカップに入ったホットコーラを受け取った。さっき温めたばかりなので、湯気が立っている。ふぅーっと息を吹いて、少しずつ冷ましながら千紗はそれを飲んでいた。
「……おいしい」
「ならよかった。昼間は何をしてたんだ?」
「大体寝てたよ。やることないし、早く風邪を治したいし……」
「それだけ安静にして、どうして治らないんだろうな」
体質とはいえ、ここまで風邪が長引くことなんてあるだろうか。千紗が高熱を出して、既に3日が経っているのに。
「昔からの体質だから、仕方ないよ。でも、早く治してテストを受けないとね」
「ああ。千紗はテスト受けられないと、海外に行くことになるもんな」
「志郎だって、テストで上位を取れないと両親と一緒に暮らすことになっちゃうんだよ?」
分かってる。でも、今は千紗の方が先だ。
「僕は自分なりに勉強を頑張ってるから、大丈夫だって」
「今まで学年上位に入れなかったくせにぃ……」
「そ、それはそうだけど……ほら、今まで千紗がいっぱい教えてくれただろ。ちゃんと覚えてるから大丈夫だって……たぶん」
僕の言葉に、千紗は不安そうな表情をしてしまう。うっ、僕だって千紗を不安がらせたいわけじゃないのに。
「……あのね。実は、今日休んでた間、寝てただけじゃないの」
「え?」
千紗は僕から視線を外すと、部屋の隅に置かれた机へと向く。床に散乱したゴミを避けながら近づいてみると、机の上に数枚の紙が置かれていることに気づいた。
「これは……」
「テスト対策を纏めて、模試を作ってみたの」
「はぁ!? こんなことしてるくらいなら休んだほうがよかったんじゃ……」
「だって、志郎があの両親と暮らすことになるの、嫌なんだもん!」
千紗は不安を滲ませた表情のまま、叫んだ。
「もし、私だけテストを受けられなくても、志郎だけ受ければいい。私が海外に行くことになっちゃっても、志郎だけは幸せになってほしいの。だから、あんな両親の下に行ってほしくない。私にできるのは、もうこれくらいしかないから」
「だからって、風邪を引いてるのに無理するなんてダメだろ!」
「分かってる。でも、病気なんていつ治るか分からないんだよ。変えることの出来ない運命は、諦めるしかないじゃん。だから、変えられるもので志郎の運命を変えたかったの」
「千紗だって、俺とこの先も一緒に暮らしたかったんじゃなかったのか? なら、二人でテストを受けないと意味がないって!」
僕は模試を机に置き、千紗の方へと移動した。千紗の手を取る。冷たくて、白くなった手を。千紗は僕を見つめていた。泣きそうな瞳だ。僕はまだ、彼女を諦めたくない。
「まだ、テストまで4日あるんだ! 俺も協力するから、ちゃんと治して二人でテストを受けよう!」
「……うん」
千紗は元気なく頷いた。
僕らの気持ちは同じのはずだった。これからも一緒に暮らしたい。どんな理由があったとしても、離れ離れになるなんて絶対に嫌だ。
――でも、僕に何ができる?
千紗を元気づけるために言った言葉が、僕の首を絞めるようだった。
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