第20話

 大智の言葉で、さっきの光景が脳裏によみがえる。


 勉強中、千紗は僕にキスをしまくっていた。いや、唇じゃないけど。それでも、確かにあの距離は幼馴染みの距離感じゃない。


 身構える僕に、大智は苦笑しながら話す。


「ほら、マンションに入る時に『ただいま』って言ってただろ。あの様子じゃ、数えきれないくらいあの部屋にいってるんじゃないかって思ってさ」


「なんだ、そっちか……」


「そっち?」


「ああ、いや。何でもない」


 気づかれてないならいいんだ。迂闊なことを話して気づかれないようにしなきゃね。


「確かに、千紗の家には結構行ってる。けど、僕らはただの幼馴染みだよ。それ以上の関係になんてなれない」


「とか言って、千崎ちゃんのことが大事なくせに」


「幼馴染みとして大事なだけだよ」


「じゃあ、千崎ちゃんに彼氏が出来ていいって思ってるのか」


「そ、それは……」


 千紗の隣に、僕以外の誰かがいる。そんな光景を早々自他だけで、胸の奥から不快感が滲んできた。


「ははっ、分かりやすい顔してるな」


「うるせぇ……」


「それって、好きってことじゃねえの? さっさと告白すりゃいいのに」


「しないってば」


 少なくとも、今はまだ。


 タイミングを選ぶのは、自分だ。


「ボサっとしてると、誰かに取られちまうかもしれないぞ?」


 大智がからかうように話す。


 図星だ。心がずきんと痛む。その痛みを無視して、僕は首を振った。


「その時はその時だろ。千紗が選ぶ相手が一番だ。幼馴染みとして、アイツの幸せを一番に考えてやりたいんだよ」


「健気な奴だなぁ」


「うっせぇ」


 僕は暑くなった頬を誤魔化すように顔を逸らした。そんな僕を見て、隣で大智が笑う。


 そのまましばらく歩き、やがて駅へ到着した。栞奈さんは最後まで起きなかったが、大智は彼女の家も知っているそうだ。


 二人と別れると、僕は踵を返してもと来た道を戻り始める。


 帰ったら夕食を作らないといけない。千紗は今ごろ、みんなが帰ってダラダラしている頃だろう。


 彼女への特別な気持ちが全くないとは言えない。千紗は可愛いし、ウザいけど意外と面倒見がよくて、根は優しい子だ。じゃなきゃ僕の勉強に付き合ってなかっただろうし。そんな彼女と関係を進められたら、どれだけ幸福なことか。


 だけど、今のままじゃダメなんだ。出来損ないの僕は、千紗と釣り合う存在にはなりえない。


 もっと頑張らないと。


 次のテストで学年上位を取るのは、最低限のこと。いずれは千紗のお父さんにも認めてもらいたい。


 そのためにも、早く帰らないとな。


 そう、思っていた時。


「……ん?」


 空から、雨が降ってきた。最初は小ぶりだったが、次第に激しい降り方へ変化していく。


「やばっ……傘も持ってないし、早く帰らないとな……」


 急いで帰らないと、このままじゃずぶ濡れだ。


 歩く速度を速め、駆け足になりながら帰路へ就く。暗い道には誰もおらず、僕一人の足音だけが水を弾いて鳴っている。


 ……いや、道路を挟んで向かい側に誰かがいた。街灯に照らされて人影は二つ。そちらへと、つい視線が向いてしまい。


「ッ……!」


 僕は息を詰まらせた。


「そん、な……ど、どうして……どうして、こんなところに……ッ!」


 足が止まる。


 呆然と、反対側の歩道を歩くその男女を目で追った。


 二人は気づいていない。当然だ。既に日は落ちていて、距離も離れているのでお互いの姿を確認しようがない。街灯の下に出た時だけは見えるが、それ以外では見えない。


 僕だって、街頭で照らされなければ二人に気づかなかったはずだ。


 ギリッ、と奥歯を噛んだ。確かめないと……そう考えた時には、僕は足を踏み出していた。


 歩道を少し進んだ先に架かった歩道橋を渡り、反対側の歩道へと辿り着く。


 しかし、歩道橋から反対側の歩道へ降りた頃には二人の姿は見えなくなっていた。どこに行ったんだ?


「くそっ……何で今さら現れたんだ!!」


 冷たい道路に膝を突き、胸の奥から湧き出る熱を吐き出すように慟哭する。だが、そうして改めて考え直す。


 ――会えないなら、会わなくていいじゃないか。


 重い息を吐きだした。混乱しそうになる頭が、雨に濡れて冷えていく。冷静さを取り戻してから、マンションに爪先を向けて歩き出す。ああ、そうだ。晩御飯がまだだった。早く帰らないと、千紗がお腹を空かせている。早く帰ろう。僕らの家に――。


「……志郎か?」


「ッ……⁉」


 不意に、背後から声を掛けられる。酒で焼けたのだろう声はガラガラで、聞いているだけで背筋がゾワゾワと粟立ってくる。震えながら振り返る。そこに痩身の男と厚塗りの化粧をした女が立っていた。


 顔を見た途端に、身体が震え出す。恐怖だ。僕はこの二人を恐れている。その理由は、明白だ。


「父さん……母さん……ッ!」


 三年前、僕を捨てた両親。


 父さんはキツネのような男だ。鋭い眼光に銀縁のメガネ。身体は細いが、威圧感があった。


 母さんはトラみたいな女だ。身体は大きく、いつも不機嫌そうな表情をしている。化粧も濃くて、その匂いも酷かった。


「……お前と住んでいたアパートに行ってみたんだが誰も居なくて、どこかに引っ越したのかと思ったんだが……まだこの近くにいたんだなァ」


「な、何をしに、今さら現れたんだよ……お前は……ッ!」


「お前だァ? 実の父親に向かって、何て口の利き方だ!」


「ぐがっ⁉」


 父さんが足を振り上げる。革靴の爪先が僕の顎を穿ち、身体をのけぞらせてそのまま雨に濡れた地面に倒れ込んだ。鼻から鉄の臭いが溢れた。血が鼻から顎へと伝って落ち、雨に混じって絵の具を垂らしたように滲んで消える。


「まあいい。それよりもだ。お前、もう高校は卒業したのか? 卒業したなら働けるよな? これからは一緒に暮らしてやるから、オレらを養え」


「な、何言ってるんだよ……」


「あんたってもう18歳でしょ? あれ? まだ17歳だっけ……よく覚えてないけど、どうなのよ」


「ま、まだ、だよ! 今は高校二年生……」


 雨に濡れたアスファルトの地面に倒れ込みながら、震える声で答えた。父さんは、そんな僕の答えに苛立たし気に舌打ちを溢す。


「チッ……んだよ。使えねぇ奴だな」


 ふざけるな。中学のころに僕を捨てたくせに……!


「わ、分かったなら帰ってくれよ! 今の僕は、あんたが居なくても生きていける。昔とはもう違うんだよ!」


「それが、親に向かう態度か?」


 キツネのような目が、僕を睨み下ろす。その目が嫌いだ。僕のことを道具としてしか見ていないような、人の感情を微塵も感じさせない冷たい目が。


 父さんの手が伸び、僕の顎を掴む。万力のような力でギリギリと締め付けながら、父さんは怒りに震える声で続ける。


「お前はオレの息子だ。子供って言うものは、親の所有物。つまり、反抗していい存在じゃないんだ。そんなことも分からないから、お前はいつまで経ってもクズのままなんだよ」


「ッ……ぼ、僕は、クズなんかじゃ……」


「いいや、お前はクズだ。オレの息子だからなァ。オレはオレがクズであることを自覚している。そして、オレの父……つまり、お前にとっての爺さんもクズだった。オレたちの家系は代々、クズばかりなんだよ。従って、お前もやがてはオレと同類になる」


 違う、と否定したかった。


 僕は両親みたいに、他人を大切にできない人間には絶対になりたくないんだ。


 しかし、絶対にそうはならないという確証もなかった。


 僕は、どれだけ頑張っても勉強ができないから。


 それがもし、この親の子供として生まれたせいだったなら……。


 クズな大人になるという運命からは、決して逃れられないんじゃないかって、そう思えてしまうのだ。


「僕、は……」


 人を人と思っていない、冷たい大人になりたくなくて、僕は頑張ろうとした。でも、いくら努力しても自分が無能という壁は乗り越えられずにいる。


 努力なんて無駄だったのか。


 いくら頑張っても、父さんみたいなクズな人間になる運命は変えられず、なりたくない大人へとなっていくのかと。


 そう、思っていた時……。


「……志郎は、クズなんかじゃない」


 震える僕の背後から、彼女は現れた。

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