第2章 キスしたいほど仲のいい幼馴染みとバイトの先輩

第10話

 教室に戻ってからも、頭の中にはさっきの光景がずっとぐるぐると渦巻いていた。


 千紗と俺は恋人同士ですらないのに、まさかキス寸前に陥るとは思わなかった。それも、僕は自分の意思で千紗にキスしてしまいそうだったんだ。思い出すだけで顔がじわじわと熱くなってくる。


「はぁ~……何であんなことしちゃったんだろ……」


「……何がだ?」


「うわぁっ!」


 突然、大地が僕の机の脇に立って声をかけてきた。ビックリしすぎて椅子から落ちそうになるのをギリギリで堪える。


 体勢を戻し、椅子に座る。顔をあげてみると、みんな帰り支度していることに気づいた。昼休みでの出来事について悩んでいる間に、どうやら授業もHRも終わっていたらしい。


 授業に集中できなかったのが少し悔やまれる。というのも、次のテストの範囲はまだ発表されていないんだ。もし、いま授業をしている内容がテストに出題されるなら、分からないまま授業の復習をすることになる。


 ま、復習したところでいい点は取れないんだけどね!


「ふっ……僕にはどれだけ頑張っても無駄ってことか」


「いや、急に何の話だよ」


 おっと、つい心の声が漏れてしまった。


 そんな僕に、大智が心配そうな顔で訊ねてくる。


「どうかしたのか? 昼休みが終わってから、ずっとボーっとしてるみたいだけど」


「いや、別に……」


 千紗とキスをしそうになった、何て誰にも言えることじゃない。言ったら最後、他の男子から背中を刺されることだろう。


「そういや、昼は俺を置いて千紗ちゃんと食べに行ってたよな? それと何か関係があるんじゃ……」


「待ってくれ、大智。クラスの男子が武装を始めたから!」


 『千紗』というキーワードに反応した男子たちが、鋭い目でこちらを睨んでいた。怖いよぉ……。僕は小鹿みたいに身体を震わせてみたが、みんなの目が得物を見る目に変わっただけで効果はなかった。


「そ、それより、大智は無事だったんだな」


「え? 何の話だ?」


「いや、昼に栞奈さんから弁当をもらってたじゃん」


 光をも吸収していた真っ黒な物体Xを思い出しながら話す。


 しかし、大智は首を傾げると……。


「べん、と、う…………うっ、頭がッ!」


 いきなり頭を抱えて呻き始めた。


 大丈夫ではなさそうだ。


 そんな大智に呆れた視線を向けていた時だった。


「し~ろ~くんっ」


「ぐえっ!」

 

 後ろから誰かが圧し掛かって来た。僕の名前を呼んだ声で誰なのかは丸わかりだけどな!


「重いぞ、千紗……」


「むぅ……そんなに太ってないですよぉ」


 背中に圧し掛かったまま、千紗は不満げに言った。確かに、千紗は軽いもんな。家ではトドみたいにずっとゴロゴロしてるだけなのに。


「それより、どうして今日はお昼からぼーっとしてたんです? 悩みがあるなら聞いてあげますよ?」


 原因はお前だ!


「千紗に話すことはない」


「つれないですねぇ。それじゃ、今日は一緒に帰りましょう! 帰り道でじっくりお話を聞かせてもらいますよ」


「は……?」


 千紗からいきなり飛び出した言葉に、一瞬呆けてしまう。


 僕らは同棲しているが、一緒に帰ることはない。同じマンションに入っていくのを見られたら、その翌日には学校中で噂になるはず。男子からは恨まれるだろうし、面倒ごとになるに決まっているので、帰宅する時は細心の注意を払っているのだ。


 だから、一緒に帰るわけにはいかない。千紗も分かってるはずなのに、どうしていきなりそんな提案をしてきやがった……!


「ぼ、僕は一人で帰る。というか、今日はバイトもあるし」


「じゃあ、バイト先まで一緒に行きます」


「どうしてそこまで一緒に居たがるんだよ……」


「だって、志郎君ともっと仲良くなりたいですもん。それに……昼休みにあんなこともしちゃいましたからね♡」


 ――その瞬間、教室内の空気が凍り付いた。


 冷たい視線が僕に突き刺さり、男子たちから怨嗟の声が上がる。


「あいつ、千崎ちゃんと何しやがったんだ」


「俺たちの天使が……」


「呪い殺してもいいかな……」


 怖い怖い怖い怖いっ!


「ち、千紗、行くぞ!」


「あっ」


 咄嗟に千紗の腕を掴んで、痛いほど突き刺さる視線の中をかいくぐって廊下へと出た。そのまま早足になりながら歩き出す。向かったのはこの時間は誰もいない特別教室の並ぶ廊下だ。


 しばらく歩いて、周囲に誰もいないのを確認すると千紗に向き直った。千紗は丸い目で僕を見つめてにたにた笑っている。


「お前、どういうつもりだよ……」


「私は本当のことしか言ってないよ? 志郎ともっと仲良くしたいもんっ」


「もっと仲良くって……」


「昼休みでも言ったでしょ。私は志郎とキスしたい。キスして、特別な幼馴染みになりたい」


 同じ幼稚園や小学校に通っていた同級生を『幼馴染み』と称するのなら、俺には幼馴染みがたくさんいる。千紗にも同じくらい幼馴染みがいるはずだ。


 その中から『特別』になるためには、一歩突き抜けた関係が必要。千紗は、僕らの関係を進展させようとしている。ただの幼馴染みから、特別な幼馴染みへと。


 だけど……。


「キスなんてしなくても、俺たちは家族みたいなものだろ。同棲だってしてるし……」


「志郎と家族なんてやだ」


「えぇ……」


「とにかく、私は志郎と特別な幼馴染みになりたいの!」


 千紗は不意に僕に抱き着いてきた。正面から上目で見つめてくる。その瞳は、涙で潤んでいるように見えた。


「それとも、志郎はこれでもドキドキしないの?」


 小首を傾げて訊ねてくる千紗。あざとい仕草に、思わず心臓が跳ねあがってしまう。顔が熱い。こんなの、ドキドキするに決まってる。


 でも、認めてたまるか……!


「はっ! 千紗に抱き着かれることなんて慣れてるし!」


「ふぅん……だったら……」


 千紗は背伸びすると、僕の耳元に口を近づけた。また、舐めてくるつもりかと警戒したが……。


「志郎……大好きだよ」


「っ!?」


 耳元でささやかれた声に、思わず身体が反応する。


 って、今……なんて言った!?


 動揺する僕に対し、千紗は肩を揺らして笑う。からかってるつもりか! きっと、さっきの言葉も本気じゃないはず……なのだけど。


「好き好き好き~……志郎のこと、誰よりもいっちばん大好きだよ~♡」


「うぐっ……」


 からかわれてるって分かっても、そんな甘い言葉をささやかれたらドキドキするに決まってるだろ!?


「顔、真っ赤だよ?」


「こ、これはちがっ……」


「今さら嘘吐いても遅いよ。ドキドキするってことは、私のこと好きってこと?」


「そ、それとこれとは話が別だろ。普通、女子にそんなこと囁かれたらドキドキするに決まってるし……」


「なら、私も普通の女の子ってことだね」


 千紗は僕の身体に回していた腕を解き、一歩だけ下がって離れた。


「家族に抱き着かれてもドキドキしないでしょ。でも、志郎は私にドキドキしてる。本当は私のこと、家族として見てないんじゃないの?」


「それは……」


「家族でキスすることはないかもしれない。でも、私たちは本当の家族じゃない。志郎だって、本当は気づいてるでしょ?」


 だから……と、千紗は唇に人差し指を当てて言った。


「――私とキスしよ? 二人で、特別な幼馴染みになろうよ」


 甘美な誘惑に、僕は生唾を呑み込んだ。

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