第9話

 温かくて短い舌が、耳の溝を舌先でちろちろとなぞった。その際に呼吸が耳に吹きかかり、ゾクゾクと背筋が震えるのを感じる。


「や、やめろ千紗……」


「やーだっ。逃げたら、向こうの人にもバレちゃうよ?」


 すぐ近くにはカップルがいる。こんなところを見られたらあらぬ誤解を立てられる! お互いの名誉のためにも、バレないように行動しないといけない。けど――。


「はむっ」


「ふあっ!」


 今度は耳を唇で甘噛みしてきた。くすぐったいやら恥ずかしいやらで、思わず声が漏れてしまう。千紗はそんな僕の反応を楽しんでいるみたいに、耳から口を離そうとしない。


「んはぁ……どうぉどう……? ひもひいいきもちいい……?」


 耳に口を付けたまま、囁くように話しかけてくる。おかげで、温かな吐息が鼓膜をくすぐった。こそばゆくて身体が跳ねあがりそうになる。けど、千紗を抱きしめることで耐える。千紗も急に抱きしめられたせいか、ビクッと身体を跳ねさせた。


「お、お前も恥ずかしくて限界なんだろ……!」


「んぅ……っ! にゃんのことか、わかんにゃい……」


 仕返しとばかりに、耳全体を口の中に入れてしまう。耳全体が、千紗の口腔で温められる。さらに舌で耳穴の壁を舐められ、くすぐったさに身体が震えそうになる。


 ヤバい……これ、めっちゃ気持ちいい……!


「んふぅ……ひもちいいれひょきもちいいでしょ?」

 

 千紗にはお見通しみたいだ。彼女は小さく笑い、さらに耳の穴へと舌をねじ込んできた。


 ぐちょぐちょ、と。


 唾液交じりの舌が僕へと侵入してきて淫靡な音を立てる。そこに舌の温もりまでもが加わることで、言い表せなくなるほどの心地よさを感じた。


 耳から全身へ、快楽が電流のように流れていく――。


「ぐぉ……っ」


「にゅふっ……ひもひいいにゃらきもちいいなら、がまん、しにゃくていいいおしなくていいよ……?」


「ば、バカ言うな……こんなの、僕は……」


「んはぁっ……はぁ、はぁ、いいよ……もっと……もっと、気持ちよくなっへ……んちゅっ」


「う、あっ……!」


 千紗の首筋に顔を埋め、漏れそうになる声を必死にこらえる。自然と密着する形になり、千紗の心音までも感じてきた。激しい音だ。僕の心臓も身体の内側から弾け飛びそうなくらいに爆音を鳴らしている。


 こんなの、明らかにおかしい。


 僕たちは幼馴染み同士で、今では一緒に暮らすようになった。家族も同然。家族に恋愛感情なんて芽生えるはずがない。なのに……どうしてこんなに、身体が熱く反応してるんだ!


 このままじゃ、千紗に過ちを犯してしまう!


 早く千紗から逃れないと……でも、この教室には他の奴もいるのにどうやって!?


 千紗を抱きしめながら、頭を回して逃れる方法を考える。


 その時だった。


 キーン、コーン……と、天井のスピーカーからチャイムが鳴り響いた。昼休み終わりのチャイム。旧校舎は教室から離れているので、急いで戻らないと次の授業に間に合わない。


 千紗もチャイムに気づいて身体を離した。膝の上に載ったままこちらを見上げる彼女は、とろけた表情をしている。だらしなく半開きにした口から、透明なよだれが滴っていた。


「はぁ……はぁ……もう、おわりぃ……?」


 舌足らずになった声が訊ねる。甘く溶けた表情に、一瞬ドキッとしてしまった。顔を片手で覆って隠し、千紗を直視しないように逸らしながら答える。


「あ、ああ……もう終わりだ。あそこの二人が出たら、俺たちも戻らないと……」


 積み上げられた机から顔を覗かせ、さっき入って来た二人の生徒を見てみる。二人もチャイムが鳴ったことで、さっきまで座っていた椅子から立ち上がっている。


 しかし、二人はお互いに見つめ合うと頬を染めた。お互いの手を握りしめると、身体を寄せ合い……。


 二人はキスを交わした。


「「へ?」」


 隣から二人の様子を見ていた千紗と一緒に、呆けた声が漏れる。カップルの二人は、短いキスの後、照れながら教室を後にした。


 扉がパタン、と締まり静寂が訪れる。


 やがて、油を差してないロボットみたいなぎこちない動きで、僕らはお互いに見つめ合った。目と目が合う。瞬間、ぶわっ! と全身が熱くなるのを感じた。


「っ……ほ、ほら、あいつらも行ったし、僕たちも教室に戻ろう」


「ま、待って……!」


 千紗の肩を掴んで膝の上から降ろそうとしたが止められてしまう。僕の服を摘まみ、未だとろけている顔で僕を見つめてきた。


「…………しないの?」


「え……?」


 何を言っているのか分からなかった。


 でも、それは数瞬だけだ。


 彼女が言っていることを理解した瞬間、僕の視線は彼女のある一点へと移動した。


 千紗の桜色をした柔らかそうな唇へと。


「……キス、シたいんじゃないの?」


 千紗が僕の肩に手を置き、床に膝を立てて身体を持ち上げる。僕を見下ろしつつ、千紗は唇を舐めた。


「いいよ、シようよ……」


「は、はぁ!? お前、自分が何を言ってるか分かってるのか!?」


「うん……分かってる……! だから、シよ。私、あんなの見せられたら我慢できないよぉ……!」


「お、落ち着けよ! さっきまで耳を舐めてたせいで、変なスイッチが入ってるだけだから!」


 顔を寄せようとしてくる千紗。その小さな肩を掴んで、僕は反論する。


「そもそも、付き合ってもないのにキ、キスなんてできるわけないだろ! 俺たちはただの幼馴染み! それ以上でもそれ以下でもないから!」


「……どうして、恋人じゃなきゃキスしちゃダメなの?」


 何言ってるんだ、コイツは……。


 空耳だと疑いたくなるが、目の前の千紗は真剣そのものの表情をしていた。まだとろけているけど。


「恋人しかキスしちゃいけないって、誰が決めたの? 付き合ったりする前からキスする子だっていると思う」


「いるかもしれないけど、遊び慣れてるやつだろ! 少なくとも、千紗はそういうことをする奴じゃない!」


「うん。志郎としかこんなことしない! 志郎以外に興味もない……だから、キスして……!」


 チワワが飼い主を見つめるような目で、千紗が僕を見つめてくる。


「それに、私は前から言ってるでしょ。志郎ともっと仲良くなりたいって……だから、いま決めた。私は志郎とキスする! キスして、ただの幼馴染みじゃなくて特別な幼馴染みになる!」


「お前、何を言って――」


「だって、幼馴染みっていうけど私以外にもたくさん幼馴染みっているでしょ! 小学校の同級生なんて何人いると思ってるの!」


「いや、俺は小学校あまり通えなかったし……」


 毒親を持ったせいで、家の手伝いばかりさせられて小学校にロクに通えてなかったんだ。だから、小学校の同級生と言われても仲のいい奴は千紗しかいない。


 だけど、千紗は納得いかない様子で頬を膨らませた。


「違うの! 私にだって、たくさん幼馴染みがいるんだから! でも、私は志郎の特別になりたい。志郎にとっての特別にもなりたい! だから、お願い……」


 僕の頬を両手で挟み、千紗は潤んだ目でこちらを見つめてくる。小さな唇が開き、彼女の想いを告げる。


「キスするほど仲のいい幼馴染みじゃ……だめなの?」


「――っ!」


 心臓がギュゥ、と締め付けられる。甘美な痛みだ。少し切なくて、甘くて、僕の心まで溶かされてしまいそうな痛み。


 僕は千紗の頬に手を添えた。千紗が一瞬だけ驚いたように身体を震わせる。が、僕がやろうとしていることに気づいて、そっと目を閉じた。


 ――可愛い。


 やっぱり、僕の幼馴染みはいつ見ても可愛い。他の誰よりも。世界で一番。彼女以上に可愛い子なんていないって宣言できるくらいに。


 僕のものにしたい。

 僕だけの印をつけたい。


 だから。


 千紗の後ろ頭にもう片方の手を伸ばし、身体を引き寄せる。千紗は抵抗することなく、僕の方へと身体を寄せてきて――。




 ――キーンコーン。




 チャイムの音と共に、はっ、と意識を取り戻した。


 ぼ、僕はいま何しようとしてた!?


 千紗の肩を掴み、慌てて引きはがす。千紗は呆けたように目を丸くしながら、僕の膝の上から降りた。千紗の重みがなくなったことで自由になった足で立ち上がり、慌てて教室の扉へと駆け寄る。


「ご、ごめん……!」


「……ううん、私こそ変なことしてごめんね」


 落ち着いた声が聞こえ、彼女に振り返った。千紗は口許に手を添えてくすくすと笑っている。


「ふふっ……志郎ってば慌てすぎ」


「お、お前……まさか、僕をからかってたのか!」


「どうでしょ~か!」


 千紗は笑いながら、僕の脇をすり抜けて廊下へと飛び出した。廊下を少し歩いたところで肩越しに振り返り、唇に人差し指を当てていたずらっぽい笑みを浮かべる。


「でも、志郎がシてほしいなら、いつでもあげるからね♡」


「い、いるかぁあ!」


 自分の顔が真っ赤になるのを感じながら、僕は叫んだ。


「てか、早く教室に戻らないと授業始まってるぞ!」


「えぇ~、せっかくだしちょっと遅れていこうよ。その分、授業サボれるでしょ」


「いいから早く来いって!」


 僕は千紗の手を握り、急ぎ足で廊下を駆け出した。授業が始まったので、廊下には誰もいない。静寂の中、廊下に僕らの靴音が響く。そのせいで、気づけなかった。



「――絶対、キスしてくれるまで諦めないんだから」



 そう発した、千紗の声に。

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