第8話

 しばらくして、千紗が僕の頭から手を放した。顔をあげて、僕も彼女の感じたそれに気づく。


「……誰か、こっちに来てるな」


「うん。そうみたい……。おかしいな。お昼ならこの教室に誰も近づかないって思ったんだけどなぁ」


 千紗は少し残念そうに呟きながら辺りを見回し、教室の端へと目を留めた。


「隅っこなら、机の陰に隠れて見えないかも」


「ひとまず隠れようか。もし先生だったら、空き教室に入るなって怒られそうだし」


 教室から出て逃げることもできるが、出たところを見られてしまうかもしれない。この教室に入ってくるとは限らないし、やり過ごす方が賢明だろう。


 僕らは頷き合い、机の上に置いたままだった弁当箱を手に取ると、教室の隅へと移動した。廊下から見て反対側。そこは積み上げられた机や椅子が障害物になって、入り口から見ると死角になっている。


 ただ、問題だったのは千紗だ。


 僕が床に胡坐あぐらをかいて座ると、その上に座って来たのだ。


 しかも向き合うような形で。


「って、おい! なんで向き合って座るんだよ!」


「だって……」


 千紗が俺の背中に腕を回してくる。ぎゅぅ、と抱きしめられ、彼女の柔らかなものを全身で押し付けてきた。


「うぉっ……!」


「こうして密着したほうが、見つからないと思うよ?」


「確かにそうかもしれないけど……」


 色々とマズい。


 立っている状態で抱き着かれることは何度もある。しかし、座ったことでより密着する面積が増えてしまう。背中に回された手のひらの感触も、太ももに感じる千紗の重さも、胸板に押し付けられた柔らかな果実も……。


 おかしい。僕らはただの幼馴染みなのに、なんでこんなにドキドキしてるんだよ!


 せめて、体勢だけでも変えないと!


 身体を動かそうとしたその時、教室に誰かが入って来た。


 くっ……身体を動かしたら見つかるかもしれない! 学年一の美少女の千紗とこんな体勢で密着してるなんて、誤解されるに決まってる!


 そう思った瞬間、千紗の背中に腕を回した。華奢な体を抱きしめると、千紗は小さく「ひゃっ」と悲鳴を上げた。


「し、静かにしろ……! くっついていた方が見つからないって言ったのお前だろっ」


「そ、そう、だけど……」


 千紗は縮こまりながら小さな声で呟いた。何を今さら赤くなってるんだよ。お前が始めたことなのに……。


 呆れながらも、教室に入って来た誰かが出て行くのを待とうとする。千紗の顔は真っ赤になっていて、密着した身体も熱く火照っていた。抱きしめているせいで、彼女の熱い吐息が首筋にかかる。


 ……意識すると、余計に気になる。


 歯噛みし、僕は意識を今しがた入って来た何者かに向けることにした。


「この教室、誰も使ってないなんてラッキー!」


「やったじゃん。これで誰にも見られずにイチャつけるんだ~」


 ……どうやら入って来たのは生徒らしい。しかも、男女のカップル。先生じゃないだけマシかもしれないけど、見つかると絶対に誤解される!


 積み上げられた机やいすの陰に身を潜め、千紗を繋がるように抱きしめ合いながら彼らが出ていくのを待つ。しかし、二人は僕らがさっきまで使っていた椅子に座りと「次のデートどこに行く?」とか話し始めた。


 出ていく気ねぇのかよ!!


「参ったな……これじゃあ、教室にも戻れないぞ」


「でも、志郎にとっては役得ってやつじゃない?」


 千紗が耳元で囁くように言う。熱い吐息が鼓膜をくすぐり、背筋にゾクゾクと鳥肌が立った。顔も熱い。こんなに可愛い子と密着しているんだ。千紗の言う通り、役得といえばそうだが……。


「二週間後のこと、忘れたのか?」


 僕も千紗の耳に囁くように話す。小柄な千紗なので、耳も赤ちゃんみたいに小さい。可愛い耳だ。囁けば、千紗は身体をビクッと震わせて耳まで赤くなった。


「んにゅっ……! な、何かあったっけ……?」


 照れているのが丸わかりだけど、千紗は囁く声で話を続ける。僕らの声は、あのカップルたちの声量よりも小さい。大人しくしていれば気づかれないだろう。


 注意するべきなのは、お互いの吐息で身体が思わず跳ねてしまいそうなところか。あとは、全身に感じる千紗の柔らかな感触から出来る限り意識を逸らすことだ。このままじゃ理性すら爆発しかねない。


「二週間後はテストだ。僕はそこで学年上位を取らないと、千紗のお父さんに認めてもらえないだろ」


「ああ……今朝の約束のことね」


「僕も千紗と離れたくないんだ。だから、早く教室に戻ってテストのために勉強したかったんだよ」


「大丈夫だよ。私が志郎に勉強を教えてあげるから。それよりも、志郎に大事なのは癒しだよ」


「へ?」


 呆けた声を上げる僕に、千紗は耳元で続けてこうささやいてきた。


「志郎はどうして自分が勉強できないと思ってるの?」


「そ、それは……才能?」


「才能なんて、現実から逃げるための言葉だよ。努力しない言い訳を作ってるだけだから」


「手厳しいな……いつもだらけてるくせに」


「私は言い訳せずにだらけてるもん」


 そこは潔く認めていいところじゃないぞ……。


「志郎は家事やバイトで睡眠時間を削って、毎日二時間しか寝てないじゃん。でもね、記憶は寝てるときに定着するの。頭がボーっとしてる状態じゃ何も考えられないし、簡単な問題も間違えて当然だよ」


 確かに、これまでのテストでも凡ミスが目立っていた。『○』か『×』を選択する問題でも、解答欄が一つずれたまま最後まで行ってしまうことも多かったし。


「それにさ、寝てなくて本番で倒れたらいくら勉強を頑張っても意味ないでしょ?」


「うっ……でも、ただでさえ勉強が出来ないんだから、他の人より頑張らないとって思うのは当然だろ」


「ううん、もう大丈夫。だって、私がついてあげるから」


 普段はだらけているけど、千紗はこれでも学年一位の常連。いつ勉強してるか分からないけど、普段、あれだけだらけることができるくらいには効率よく勉強できる方法も知っているのかもしれない。


「だから、勉強以外の時間はたっぷり癒してあげるからね?」


「癒すって……この状況で何をするつもりだよ」


 机や椅子の山を隔てた向こう側にはカップルの姿もある。僕らは向かい合って抱きしめ合っている状態だし、あまり身動きも取れそうにない。


「大丈夫。私に任せてくれたら全部上手くいくから」


 千紗は僕の耳元でそう囁いた。抱きしめている状態じゃ、彼女が何を考えているかなんて窺い知ることはできない。だが――。


「うぉ……!?」


 次の瞬間、僕の耳に何かが入って来た。


 ぬるぬると濡れていて、少し暖かい。表面は少しザラついた感触があるそれが、耳の穴の付近を撫でる。


 って、これってまさか……舌!?


 それの正体に気づき、僕は千紗から離れようと彼女の両肩を掴んだ。しかし、千紗は僕の首の後ろに腕を回して、密着してくる。


「逃げちゃダーメ♡」


 千紗は僕の耳元でくすりと笑い。


「耳、舐めてあげるから……動かないでね?」


 彼女の生温かな舌が僕の耳を再び蹂躙し始めた。

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