第2話


「って、おい!」


「何だったんだろ、今の電話。イタズラ電話だったのかな」


「いやいや、今の声、思いっきり千紗のお父さんの声だったろ!」


 千紗の父親は、大企業の社長だ。今は日本におらず、海外を転々としながら事業拡大のために仕事をしている。


 それは、僕が彼女と再会した三年前から始まったこと。


 当時、両親に捨てられ身寄りもなかった僕は、彼女の家に居候することになった。それが決まった直後、千紗の両親は海外へ仕事に行ってしまい、僕と千紗がこの家に残されたというわけだ。


 本当は千紗も海外へ行く予定だったらしい。しかし、千紗はどうしても今の家や学校から離れたくなかったそうで、世話役として僕が彼女の面倒を見ることでこの家に残ることができた。


 千紗の面倒を見る代わりに、僕も大学までの学費の支援をしてもらえる。借金を肩代わりしてもらったこともあるし、彼女の両親には感謝してもしきれないくらいだ。


 ただ、千紗自身はお父さんのことをよく思っていないらしい。


 電話の向こうから聞こえた通り、お父さんは千紗のことを可愛がりすぎている節がある。あまりにもしつこいので辟易としているみたいだ。


「でも、せっかく仕事で忙しいのに電話してきてくれたんだから、ちょっとくらい電話の相手をしてもいいんじゃないか?」


「電話しても、どうせ一緒に暮らしたいとか、私の体調が心配だとか言ってくるだけだもん」


「会話の大半が体調の話だもんな。千紗が身体を壊したの、ほとんど見たことがないし」


「……そうだね。志郎と暮らし始めてから、一度しか寝込んだことないかも」


 たしか、千紗が寝込んだのは僕と再会した翌日だったと思う。再会した日は夜だった上に雪も降っていたし、身体が冷えたんだろう。


「あの日の熱が引いた後も、千紗のお父さんはお前に過保護気味だったよな。どこに行くにも車で送り迎えしようって話になってたし。仕事が忙しいはずなのになぁ」


「私もいいって言ったんだけどね。パパは仕事に集中してって。けど……」


 千紗が何か言おうとして「やっぱ何でもない」と首を振った。


 何を言いかけたんだ?


 訊ねようとしたその時、再び、千紗のスマホが鳴りだした。相手はもちろん、千紗のお父さんだ。


「……面倒なのも分からなくはないけど、千紗のことを心配してくれるいいお父さんなんだし、大切にしたらどうなんだ?」


 僕の両親は僕のことを心配してくれるような人じゃなかった。だから、千紗には家族を大事にしてほしいんだ。


「……分かったよ。もう……」


 千紗も僕の両親のことを知っている。嘆息を溢しながらも、スマホを手に取り通話を始めた。


 しかし、すぐに通話を切ろうとする。


「って、また切ろうとするなって!」


「……だったら、聞いてみる?」


 え、何を?


 固まる僕の前で、千紗は電話をスピーカーに切り替える。スマホをベッドの上に置くと、彼女のお父さんの声が聞こえてきて……。


『ぐすっ……えぐっ……千紗に、電話切られたぁ……』


 大号泣していた。


 電話の向こうで、野太い声の男が情けないくらいに泣いてた。


「もう……これだから嫌なの……」


 千紗も顔を両手で覆って俯いてしまった。琥珀色の髪の隙間から覗いた耳が赤くなっているのが見える。千紗も苦労してるなぁ、と他人事のように思いながら、僕はスマホに話しかけた。


「落ち着いてください、お父さん。千紗が怖がってます」


『ん? 貴様は誰だ! ま、まさか、千紗が危ない男を連れ込んでいるんじゃ……ッ! こうなったら警察を……』


「電話する度にそうやって僕を追い出そうとするの、やめてくれません⁉」


『チッ……なんで貴様が千紗と暮らして、俺は海外で仕事をしなきゃならんのだ! 代われ! 俺が学生するから、お前がこっちきて社長の仕事しろ!』


「そんな無茶言われても⁉」


『とにかく! 俺はこれ以上、千紗と離れ離れになるのは嫌なんだようぁああんッ!』


 う、うるさい……。


 自分を大切にしてくれる家族は大切にして欲しいと思ったけど、その言葉を撤回したくなる。これじゃあ、おもちゃを奪われた子供みたいだ。


『離れ離れになるのが寂しいだけじゃない! 俺の知らないところで、もし千紗が体調を崩して寝込んでいたりするんじゃないかと思うと夜も眠れなくなるんだ! うわぁあん!』


「いい加減にしてよ! 毎回、そうやって泣きじゃくるから電話したくないんだよ」


『だって、声を聞きたくなっちゃったんだもんっ……』


「……五十歳近いおじさんのくせに「だもん」とか、ほんとムリ……」


 千紗がボソッ、と冷たい口調で言い放った。気持ちは分からないでもないが、電話の向こうでお父さんがショックを受けて苦しんでるからやめてあげて。


『ぐぅ……いいもんいいもん! 千紗が冷たくするなら、パパも拗ねちゃうから! 会社にも行かないもん!』


「落ち着いてください、お父さん。社員の人に迷惑をかけるのはどうかと思いますよ」


『貴様にお父さんと呼ばれるいわれはぬぁああいい!』


 もう手の施しようがないほどの駄々っ子だった。


 ああ、千紗ってお父さんに似たんだな。


「電話の要件ってそれだけ? 私たち、これから学校があるから電話切るね」


 お前、さっきまで学校行くの嫌がってただろ!


『学校か……。そう言えば、学校はどんな感じだ? ちゃんと勉強は出来ているのか?』


「大丈夫だよ。心配しなくても」


『そう言われても、心配なものは心配だ。何より、今の学校が千紗の学力に合っているとも思えない』


 千紗の学力ならもう少し上の学校にも行けたと思う。中学も私立だったし、今の学校でも成績は常に学年トップだ。


 千紗に直接訊ねたことはなかったけど、どうして今の学校を選んだんだろう?


「……私は今の学校で満足してるから」


『満足しているだけじゃダメだ! 今日の本題はそこにある』


「本題……?」


 ああ、と千紗の父親は一つ頷いて。


『……もし今後、学校の成績が落ちればこっちの学校に来ないか? いや、来てもらう』


「学校の成績が落ちればって、今でも学年一位なんだけど……」


『ああ。だから、学年一位でなくなったら俺たちと一緒に暮らしてもらう』


「その条件、あまりにも厳しすぎないですか?」


 親子の話し合いに口を挟む権利はないけど、つい言ってしまった。


「千紗は頭が良くて、成績だっていつも学年一位ですよ。でも、いつまでもずっと同じ成績を取り続けられる保証もないでしょう? せめて、学年十位くらいまでは大目に見てもらわないと……」


『いいや。俺が心配しているのは貴様と過ごしているという部分だ。貴様の成績、言ってみろ』


「っ……」


 僕の成績は学年最下位。


 今の保護者である千紗の父親も、僕の成績についてはもちろん知っている。


『二年生に進級するのもギリギリだったと聞いた。そんな調子で、千紗と一緒に暮らして悪影響がないと言えるか?』


「ちょっと! いくらパパでも、志郎にそんなことを言うなら許さないよっ」


「……いや。お父さんの言う通りだ」


 父親に反抗的な言葉を投げかけそうになる千紗を静止して、僕は首を振った。


「僕ができないのは事実。それで、千紗に悪影響があるかもしれないのも事実。言い返す言葉もない」


 前から思っていたことだ。僕らは幼馴染みで、一緒に暮らす関係にはなったけれど、僕の方は明らかに千紗と釣り合っていない。千紗はいつも学年トップを走り続けるのに、僕はどれだけ頑張っても最下位のまま。お父さんが心配しないはずがない。


「でも、志郎はいつも頑張ってるでしょ? 毎日毎日、睡眠時間をぎりぎりまで削ってでも勉強してきたじゃん……」


 俺は千紗の面倒を見るために家事をしているし、バイトもやっている。残された隙間時間はずっと勉強している。学校の休憩時間もずっとだ。それで学年最下位というのだから、僕には勉強の才能がないのだろう。


『成果が出なければ意味がない。千紗は俺の娘だ。世間体を考えても、千紗や千紗の周りにいる人間はみんな優秀でなければならない』


「そんなこと、勝手に決めないでよ。私が一緒にいたい人は、私が決めるから!」


『これは千紗のためなんだ! こっちで一緒に暮らしたほうが、より良い教育にもなるはずだ。だから、もし学年一位を取り続けられなかった場合には、こっちに来てもらうからな!』


 千紗のお父さんの心配は、親として正しい反応だと思う。ただでさえ千紗は社長令嬢で、他人よりも立派になることを期待されている。成績が落ちることを心配されるのは、当然と言われれば当然。


 だけど。


「言われっぱなしっていうのも、腹立つよな」


「志郎?」


 電話の向こうに聞こえないくらいの声量で呟くと、隣で千紗が首を傾げた。そんな彼女を横目に、僕は電話の向こうへ話しかけた。


「……分かりました。けれど、一つ条件を加えてください」

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