第4話 幕間

「ち、誓ったんだ、俺は……なのに……こんな……」


 地下書庫『尾裂堂おさきどう文庫』を走る足音が響いている。らせん状に地下へと続く階段を駆け下りていた。等間隔に配置されたランタンのような灯りが、その足元を照らしている。


平田ひらた由郎よしおは追われていた。


階段の上階から、淡い光が迫っていた。平田が一段降りる間に、その光は十段を降りていた。逃げ切ることはできない。そもそも最下階に着いたら、そこで捕まってしまう。


「観念しなさい、“レッドキャップ”!」


 淡い光――それは、桃色に輝く少女だった。少女は間近に迫っていた。


(そんな、ばかな、ちがう、俺じゃない――どうして――)


 ――星野なゆたの死の、三十六年前。


 平田ひらた由郎よしおは、雑誌社の仕事で谷戸浦やとうら市を訪れた。生臭く、陰気で、観光する場所など一つもない、房総半島のさびれた港町でしかなかったが、


『観念しなさい、“レッドキャップ”!』


 この町で平田が最初に見たのは、空を飛ぶ、桃色の髪の少女だった。


 少女が追う、赤いコートを着た人物もまた、空を飛んでいる。コートの人物はフードを被っており、顔も隠れているため、男か女か、人間かさえわからない。


『――あ』


 宿へ向かう途中の道。蝉しぐれの中、海沿いの道路で、平田は少女と目が合った。山手へと飛び去りながら、少女は唇に人差し指を当てて微笑む。


『内緒ですよ』とでも言うように。


谷戸浦市近辺では、古くから不思議な話が多かった。

 中世頃から行方不明者の記録があり、『下総国風土記しもうさのくにふどき』によれば、猿猴えんこうの仕業、鬼鳥きちょうによるもの、行方なめかた郡からおいやられてきた夜刀やと神への生贄などとされるが、研究によれば、これらは享徳の乱などで落ち延びた武家が山賊化して行ったこと、とも言われている。


『あらら、また会いましたね』


 少女とは、すぐに再会することになった。

 飯縄大学に向かう道の途中、山手の花屋に彼女が入っていくのを見て、平田はその後を追って花屋に入った。温室が併設されているようで、店内には切り花が並んでいる。


『あれ……もしかして、昔、谷戸浦に住んでませんでしたか?』

『いや、俺は、足立区で……』

『んん? 覚えがありますよ。あなたは、たしか』


 少女は平田の頬に手を当て、じっと覗き込んできた。丸い、大きな目をした少女だった。吐息がかかりそうな距離で、彼女はその目をさらに見開いて、


――よしおくんじゃないですか?


 平田の名前を言い当て「やっぱり。そうでしょ?」と微笑んだ。


 子供の頃の記憶を、平田はおぼろげにしか持っていない。母親からもあまり聞いたことがなかった。ただ、古いアルバムの中に、海の写真が多いとは思っていた。それが谷戸浦市の写真であるとは、一度も聞いたことがなかったが。


『……それで、花をお求めですか?』


 少女は、木下きのしたヨシノと名乗った。

 ヨシノの紹介で飯縄大学の七夕しちせきという助教授に会うことができ、平田の仕事は進んだ。取材で谷戸浦市を訪れるたびに、平田は花屋を訪ねるようになった。


『本当は、民俗学をやりたかったんだ』


 訪れると、ヨシノは茶を淹れて話を聞いてくれる。


『でも、ぜんぜん、お金にならなくて。オカルト雑誌の記者なんかやってるんだ』

『立派だと思いますけど』

『谷戸浦の地誌は面白いと思う。雑誌の取材で居ついているけど、この辺りの民話をまとめて『遠野物語』のような本を作れたら、もしかしたら……夢みたいなものだけど』


 季節は秋になっていた。山も色づき始めており、花屋の外に植わっている金木犀が香った。ヨシノは湯呑を置き、平田の髪を母親のように優しくなでる。


『夢なら、挑戦した方が良いですよ』


 平田は何も言わず、黙っていた。


『知っていますか? 夢というのは、呪いのようなものなんです。諦めた人は、その後の人生で、ずっと呪われたままになります。まだ若いのですから、後悔しないように』


 オカルト雑誌の記者は、オカルトを信じていない。

 調べれば調べるほど、そんなものは存在しないと思い知らされるからだ。しかし、この谷戸浦市には、まぎれもなくオカルトが存在していた。空を飛ぶ魔法少女、人に影響を与える不可思議な妖精たち。それは、大いに大衆の興味を惹くだろう。


『――これ以上、詳しく知ろうとするなら、飯縄大学図書館では不十分でしょう』


 七夕という助教授は、何度目かの取材の際に、そう答えた。


『では、どこに行けば……』

『飯縄大学の地下書庫『尾裂堂文庫』ですが、立ち入りは禁止されています』

『それは、大学職員なら入れるとか』

『……実は、少し前に泥棒が入る事件がありまして』


 七夕の研究室は、あちこちに古書が積まれ、足の踏み場もなかった。カビくさく、蛾が飛んでいるような部屋で、七夕はいつも煮えたぎった熱いコーヒーを平田へ渡す。


『――七夕先生は、やはりフィールドワークで情報を集めているのですか?』


 飯縄大学は、陰秘学科という学科を設けていた。

 これは実質的に、この地域のオカルト的な存在を研究しているのであろう。この大学は薬学部で有名であるから、歴史的だけでなく、科学的にも分析しているのではないか。


『――こんな話を知っていますか。オックスフォード大学の教授が言うには、我々の生きている世界は、シムシティのようなシミュレーション世界である、らしいのです』

『は? いや、どうしました、突然』

『この世界が科学で明かされた法則に従っており、これまでもこれからも存在するのだとしたら、私は、不思議な存在などあってはならないのではないか、と思い始めています』


 七夕は平田の戸惑いを放ったままに、熱いコーヒーを呑み込んだ。


『たとえば、キャラクターに魔法が使えるという設定と共にAIで個性を載せて、その動くさまを真のリアリティショーとして公開する。そういうことがあった場合、登場するキャラクターたちは、自分で考え、動き、これが現実だと信じ続ける』


 暗い、カビ臭い研究室の窓を、山から吹き下ろす強い風が叩く。


『……常識外の存在があるということが、この世界が作り物だという証拠だと?』

『まとめてしまえば、そうです。……平田さん、どうでしょう』

『どうとは?』

『地下書庫に入る代わりの、来月の記事のネタくらいにはなりますか』


 谷戸浦市の家々に、直に取材に行くことが多くなると、ヨシノが道案内を請け負ってくれた。海からは肌を裂くような冷たい潮風が吹く季節になり、ヨシノは顔を隠すかのような耳当て付きの大きな帽子で、平田の隣を歩いた。


『好評みたいじゃないですか。見ましたよ、雑誌。結構ページも多くて』

『うん。連載が続けば、本にもなるかもしれないんだ』

『えらいえらい』


 ヨシノは、平田の頭を撫でることがよくあった。平田の方がずっと年上のはずだが、平田はなぜかそうされることを、あまり不思議に感じなかった。


『――もっと、地元の話を集めれば……』


 フィールドワークは重要だが、谷戸浦市はことさら、よそ者を嫌う傾向にある。ヨシノが言った通り、平田はこの町の出身であったようだが、それでも、谷戸浦市独自の部分はほとんど教えてもらえなかった。


 七夕は言った。『この地域の宗教が、江戸時代に弾圧を受けたことも一因でしょう』。その弾圧を受けた宗教とはなにか。それらの詳しい歴史資料も、地下書庫ならば調べられるという。逆に言えば、地下書庫に入らない限り、詳細は知ることができないのだ。


 季節だけが過ぎ去っていく。


二度目の夏を迎え、平田は焦れていた。いい加減、谷戸浦市のネタで連載を続けられなくなってきた。連載を続けるには、本にするには、夢をかなえるには。


 この町に、ヨシノに会いに来つづけるためには。


 そんな時だった。


『ちがしょごに、ぎょうみ、ある、のは、ぼまえ、が』


 ごぼごぼと、泡立つような声で男は話しかけてきた。病を患っているのか、顔を包帯で覆っており、夏だというのに長いコートを着込んで前のボタンを全て閉じている。


 その男は、物集女もづめとおると名乗り、こう言った。


 地下書庫へ忍び込もう、と――。

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