第4話 幕間
「ち、誓ったんだ、俺は……なのに……こんな……」
地下書庫『
階段の上階から、淡い光が迫っていた。平田が一段降りる間に、その光は十段を降りていた。逃げ切ることはできない。そもそも最下階に着いたら、そこで捕まってしまう。
「観念しなさい、“レッドキャップ”!」
淡い光――それは、桃色に輝く少女だった。少女は間近に迫っていた。
(そんな、ばかな、ちがう、俺じゃない――どうして――)
――星野なゆたの死の、三十六年前。
『観念しなさい、“レッドキャップ”!』
この町で平田が最初に見たのは、空を飛ぶ、桃色の髪の少女だった。
少女が追う、赤いコートを着た人物もまた、空を飛んでいる。コートの人物はフードを被っており、顔も隠れているため、男か女か、人間かさえわからない。
『――あ』
宿へ向かう途中の道。蝉しぐれの中、海沿いの道路で、平田は少女と目が合った。山手へと飛び去りながら、少女は唇に人差し指を当てて微笑む。
『内緒ですよ』とでも言うように。
谷戸浦市近辺では、古くから不思議な話が多かった。
中世頃から行方不明者の記録があり、『
『あらら、また会いましたね』
少女とは、すぐに再会することになった。
飯縄大学に向かう道の途中、山手の花屋に彼女が入っていくのを見て、平田はその後を追って花屋に入った。温室が併設されているようで、店内には切り花が並んでいる。
『あれ……もしかして、昔、谷戸浦に住んでませんでしたか?』
『いや、俺は、足立区で……』
『んん? 覚えがありますよ。あなたは、たしか』
少女は平田の頬に手を当て、じっと覗き込んできた。丸い、大きな目をした少女だった。吐息がかかりそうな距離で、彼女はその目をさらに見開いて、
――よしおくんじゃないですか?
平田の名前を言い当て「やっぱり。そうでしょ?」と微笑んだ。
子供の頃の記憶を、平田はおぼろげにしか持っていない。母親からもあまり聞いたことがなかった。ただ、古いアルバムの中に、海の写真が多いとは思っていた。それが谷戸浦市の写真であるとは、一度も聞いたことがなかったが。
『……それで、花をお求めですか?』
少女は、
ヨシノの紹介で飯縄大学の
『本当は、民俗学をやりたかったんだ』
訪れると、ヨシノは茶を淹れて話を聞いてくれる。
『でも、ぜんぜん、お金にならなくて。オカルト雑誌の記者なんかやってるんだ』
『立派だと思いますけど』
『谷戸浦の地誌は面白いと思う。雑誌の取材で居ついているけど、この辺りの民話をまとめて『遠野物語』のような本を作れたら、もしかしたら……夢みたいなものだけど』
季節は秋になっていた。山も色づき始めており、花屋の外に植わっている金木犀が香った。ヨシノは湯呑を置き、平田の髪を母親のように優しくなでる。
『夢なら、挑戦した方が良いですよ』
平田は何も言わず、黙っていた。
『知っていますか? 夢というのは、呪いのようなものなんです。諦めた人は、その後の人生で、ずっと呪われたままになります。まだ若いのですから、後悔しないように』
オカルト雑誌の記者は、オカルトを信じていない。
調べれば調べるほど、そんなものは存在しないと思い知らされるからだ。しかし、この谷戸浦市には、まぎれもなくオカルトが存在していた。空を飛ぶ魔法少女、人に影響を与える不可思議な妖精たち。それは、大いに大衆の興味を惹くだろう。
『――これ以上、詳しく知ろうとするなら、飯縄大学図書館では不十分でしょう』
七夕という助教授は、何度目かの取材の際に、そう答えた。
『では、どこに行けば……』
『飯縄大学の地下書庫『尾裂堂文庫』ですが、立ち入りは禁止されています』
『それは、大学職員なら入れるとか』
『……実は、少し前に泥棒が入る事件がありまして』
七夕の研究室は、あちこちに古書が積まれ、足の踏み場もなかった。カビくさく、蛾が飛んでいるような部屋で、七夕はいつも煮えたぎった熱いコーヒーを平田へ渡す。
『――七夕先生は、やはりフィールドワークで情報を集めているのですか?』
飯縄大学は、陰秘学科という学科を設けていた。
これは実質的に、この地域のオカルト的な存在を研究しているのであろう。この大学は薬学部で有名であるから、歴史的だけでなく、科学的にも分析しているのではないか。
『――こんな話を知っていますか。オックスフォード大学の教授が言うには、我々の生きている世界は、シムシティのようなシミュレーション世界である、らしいのです』
『は? いや、どうしました、突然』
『この世界が科学で明かされた法則に従っており、これまでもこれからも存在するのだとしたら、私は、不思議な存在などあってはならないのではないか、と思い始めています』
七夕は平田の戸惑いを放ったままに、熱いコーヒーを呑み込んだ。
『たとえば、キャラクターに魔法が使えるという設定と共にAIで個性を載せて、その動くさまを真のリアリティショーとして公開する。そういうことがあった場合、登場するキャラクターたちは、自分で考え、動き、これが現実だと信じ続ける』
暗い、カビ臭い研究室の窓を、山から吹き下ろす強い風が叩く。
『……常識外の存在があるということが、この世界が作り物だという証拠だと?』
『まとめてしまえば、そうです。……平田さん、どうでしょう』
『どうとは?』
『地下書庫に入る代わりの、来月の記事のネタくらいにはなりますか』
谷戸浦市の家々に、直に取材に行くことが多くなると、ヨシノが道案内を請け負ってくれた。海からは肌を裂くような冷たい潮風が吹く季節になり、ヨシノは顔を隠すかのような耳当て付きの大きな帽子で、平田の隣を歩いた。
『好評みたいじゃないですか。見ましたよ、雑誌。結構ページも多くて』
『うん。連載が続けば、本にもなるかもしれないんだ』
『えらいえらい』
ヨシノは、平田の頭を撫でることがよくあった。平田の方がずっと年上のはずだが、平田はなぜかそうされることを、あまり不思議に感じなかった。
『――もっと、地元の話を集めれば……』
フィールドワークは重要だが、谷戸浦市はことさら、よそ者を嫌う傾向にある。ヨシノが言った通り、平田はこの町の出身であったようだが、それでも、谷戸浦市独自の部分はほとんど教えてもらえなかった。
七夕は言った。『この地域の宗教が、江戸時代に弾圧を受けたことも一因でしょう』。その弾圧を受けた宗教とはなにか。それらの詳しい歴史資料も、地下書庫ならば調べられるという。逆に言えば、地下書庫に入らない限り、詳細は知ることができないのだ。
季節だけが過ぎ去っていく。
二度目の夏を迎え、平田は焦れていた。いい加減、谷戸浦市のネタで連載を続けられなくなってきた。連載を続けるには、本にするには、夢をかなえるには。
この町に、ヨシノに会いに来つづけるためには。
そんな時だった。
『ちがしょごに、ぎょうみ、ある、のは、ぼまえ、が』
ごぼごぼと、泡立つような声で男は話しかけてきた。病を患っているのか、顔を包帯で覆っており、夏だというのに長いコートを着込んで前のボタンを全て閉じている。
その男は、
地下書庫へ忍び込もう、と――。
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