第2話雨の夕刻

 彼の姿を見かけるようになってから一年近くもたった頃。

夕刻、会社を出ようとしたら雨が降っていた。 


 予報では雨だなんて言われていなかったので、通りには傘を持たない人たちが足早に歩いていて、私はあわててロッカーに戻り、折りたたみの置き傘を持って来た。


 いつもよりあたりは薄暗く、車道を行き交う車がチラホラとライトを点けはじめていた。

ゆるいカーブのあたりで、ライトが顔に当たり、眩しくて下を向いてしまう。雨でぬれた道は、ライトの光でキラキラ光っていた。


 突然、目の前に茶色い革靴があらわれて、左手に持っていた傘が、ふわりと離れた。

何ごとかと顔を上げると、あの男が、私の傘を持ってさしかけながら、射るような瞳で見下ろしていた。


「え?」


 私は何が起こったのか、理解できずに固まっていた。

何かしてしまったのだろうか、まったく心あたりがないのに、刺すような視線に、気持ちが萎縮してしまう。


「傘がないんだ。つき合え」


 怒ったような口調で言う男の言葉の意味が理解できなくて、答えられず見上げていると、傘を持っていない方の手で肩を引き寄せられ、体の向きを変えさせられた。


「な、なんですか?」

「おまえ、よく俺を見てただろう?」


「えええっ」

まさか、ひそかに彼を見ていたのを気づかれていたとは、思いもよらずに焦ってしまった。


「俺も、おまえをよく見かけてたからさ。いつも目ん玉まん丸くして、おかしくて覚えてた」

「はあ」


「ちょうどいいから、傘貸せ」

「そう言われてましても……」


 これは、良く聞くナンパと言うものだろうか。私の外見では、対象になるはずがないのは、じゅうぶんわかっているので、どうしたらいいのか困惑しかなかった。


「あの、いつもこうやって女の子を誘ってるんですか?」

強引に背中を押されて、歩かされながらつぶやいた。


「馬鹿め。そんなこと、するはずないだろ」

「でも、いつも綺麗な女性と一緒だったから」

私が言うと、彼はふうとため息をついた。


「勝手についていてくるんだ。誘ったりしねえよ」

「そうなんですね、おモテになるようで」


 男はチッと舌打ちして、私の肩を引き寄せた。

「ぬれるぞ」

「あ、ありがとうございます」


 「飯食うぞ」と言う彼に、私は半ば強制的に、路地裏の小さな居酒屋へ連れてこられた。

仕事帰りの服装で、華やかなレストランとかだったら困るなと思っていたので、内心ほっとして、カウンターの隅に、隣り合って落ち着いた。


 グレープフルーツ味のサワーをちびちび飲みながら、男が勝手に頼んだもつ煮を突っついた。

なにしろ顔は知っていても、初対面の相手だ。何を話したら良いのかわからず、居心地が悪かった。


 それでも、追加で頼んだ焼鳥をかじり、ビールを飲みながら、男がポツポツ話した。彼は隆一りゅういちと名乗り、美容師だという。


 私はファッションにうといのでよく知らなかったが、結構有名な店の店長らしく、居酒屋の親爺でさえ知っている店だった。


「おまえ、何にも知らねえのな」


彼からはあきれられたが、知らないものはしかたがない。そういうのに興味がないだけなのだ。


 しかし、美容師って、客商売だろうに、こんなに無愛想でいいのかな。内心不審に思いながらも口には出せず、アツアツの焼きお握りを、もごもご咀嚼そしゃくした。


 それにしても、結局、何のために食事に連れてこられたのかわからないままに、雨の上がった道を、駅まで送ってもらって帰った。

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