5-11 聞こえる声
暗く冷たい、まるで深海の底のような場所。
何の音も聞こえず、身体は氷のように冷えている。
らいむは目を閉じ、呼吸さえも忘れて、海の底に身を委ねていた。
『――いむ』
無音の世界に、かすかな声が響いた。
らいむは目を開けない。すべてを手放した心には、届かない。
『――らいむちゃん!』
『――らいむ!』
『――らい!』
自分を呼ぶ、だれかの声。だれの声だっただろうか。
思い出したとして、何になるのだろうか。
――れもんを殺した私が、今さらなにを……。
『いい加減にしろっ!!』
突然降ってきた怒声とともに、胸に突き刺さるような痛みが走る。
『――らいむさんには、みんなの声が聞こえないの! 自分の中に閉じこもっていないで、聞け! 目を開けて、前を見ろ! みんな、らいむさんを……っ』
他人に叱られたのは初めてだ。真剣に叫ぶ声は、どこかれもんの声に似ていた。
懐かしさに、胸が締め付けられる。叫びたい衝動に駆られ、それでも息ができない。辛くて、痛くて、苦しくて。動き出した思考は、耐えがたいものばかりで、全部投げ捨ててしまいたくなる。
――れもんを殺した私に、価値なんて……ない。
『らいむちゃん、負けないで!』
聞こえてきたのは、可愛らしくも芯のある声。柔らかな羽毛の感触と、向けられた尊敬の眼差しを思い出す。「みんなに気を配るリーダー」だと褒めてくれたのは、青葉。
『らいむ~! オレはずっと待ってるよ~!』
次に聞こえてきたのは、精一杯に叫ぶ甘えん坊の声。なにかあるといつも腰に抱き着き、撫でると嬉しそうに笑う瞳を思い出す。カウンターをはさんで、毎晩楽しいおしゃべりを共にしているのは、すだち。
『らいむがいないと、だれがケーキを作るのさ!』
次に聞こえてきたのは、回りくどい言い方のひねくれた声。呆れたため息や不敵な笑みを見せつつ、心のどこかに寂しさを孕む顔を思い出す。美味しいと言われたことはないが、いつもひとかけらも残さず菓子を食べてくれるのは、みかん。
『らい! 帰ってこい!』
そして、聞こえてきたのは、無愛想ながらも真っ直ぐに叫ぶ声。そっぽを向いたかと思えば、不意にこちらを求める不器用な仕草を思い出す。だれよりも愛してくれて、守ろうとしてくれて、自分の身さえ捧げようとしてくれたのは、はっさく。
『目を開けろ!! らいむ!!』
はっきりと聞こえた、自分自身を求める声。
辛さも、痛さも、苦しさも、消えてはいない。それでも、耳に届くいくつもの声が、何本もの手のように、自分の身体を支えてくれる。
『――――』
暗い視界の中に、白く明るい光が降り注ぐ。
中途半端な思考だけれども、らいむは、ゆっくりと、まぶたを持ち上げた――。
* * *
視界に飛び込んできたのは、ボロボロな姿で倒れるゆず。その真上にいるのは、大太刀をゆずの胸に突き刺そうとしているれもんに似た人物。ここからはその背後に揺れる鼠の尻尾がよく見えた。ゆずは素手で刀を受け止めている。血に染まった手の間から伸びる切っ先は、服に食い込み、心臓へ届く寸前だった。
「ゆずっ!!」
らいむの思考が、一気に吹っ飛ぶ。
れもんを失った悲しみも、自責の念も、後悔も、今はどうでもいい。
――私はまた、見殺しにするつもりかっ!?
目の前に見えたナイフを構わず素手で握り、思い切り引く。
夢の結晶に突き刺さっていたナイフが、内側へ食い込み、結晶自体に亀裂が走る。
「なに!?」
頭上からの音に気がついて、夢鼠が首をひねって見上げた。
その瞬間、大樹の幹のような夢の結晶が、音を立てて砕ける。砕けた中心が光に包まれたかと思うと、なにかが落下してきて、夢鼠を吹っ飛ばした。
「ら……いむ……さん……」
ゆずのそばに降り立ったのは、真紅の衣装に身を包んだ優雅な姿。
らいむは傷だらけのゆずを優しく抱き上げると、眉を歪ませながら微笑んだ。
「すみませんでした。そして、ありがとうございます」
謝罪と感謝を同時に伝えられる。その意味を理解する余裕は、今のゆずにはない。優しく微笑む表情を見て、ゆずも力なく笑みを浮かべた。
「ら、らいむ……? どうしちゃったの……?」
らいむはゆずの身体をそばにある岩へ預ける。
夢鼠が、蹴り飛ばされた脇腹を押さえながら、よろよろと歩み寄ってきた。
「そんな出来損ないより、僕といっしょにいようよ? ずっと、僕といっしょに夢を……っ!?」
夢鼠の頬に、飛んできたナイフがかする。
立ち上がったらいむが腕を伸ばし、夢鼠を睨みつけていた。
「みなさんの声とともに、あなたの声も聞こえていましたよ。れもんは、あんな下品な言動をしません」
輝きを取り戻した漆黒の瞳が、殺気を滲ませてすがめられる。
「あなたはれもんではありません。これ以上、れもんを愚弄するなっ!!」
キレたらいむを見るのは初めてだと、ゆずは思う。
夢鼠が目を丸くして、その場で固まる。だしぬけにうつむくと、肩を揺らし始めた。
「ククククッ……、ハハハ、ハハハハハハハハ!!」
暗い洞窟の天井を仰ぎ、大口を開けて笑い出す。
らいむは自身の羽根を抜いて、指にナイフを構えた。
「タカガ捨て駒のカゴの鳥ガッ! 餌ニモならないクズは殺すシカないナ!」
れもんの顔をした醜悪な表情。吊り上がった口角が、皮膚を裂いていく。きらびやかな純白の衣装も破れ、身体がどんどんと膨れあがっていく。人の五倍ほどあろう巨人と化し、頭から二本の角が突き出し、口から牙が伸び、背には三対の翼が揺れる。
その見た目は、鬼か、魔物か、悪魔か。
禍々しい様相の夢鼠が咆吼をあげ、その衝撃だけで強風がらいむとゆずを襲う。
「行きますよ」
らいむは手を顔の前にかざして風をしのぐと、巨体に怯むことなく言葉を紡いだ。
夢鼠が、片手で捻り潰せそうな一人と、身動きもできず座り込んでいる一人を見下し、鼻で笑う。
「死ニ損ないガたった二羽! 我ニ勝てるト思うナ!」
太い手から生える鋭利な爪をかざし、らいむたちへ向かって振り下ろす。
らいむとゆずは、迫り来る爪に臆することなく、声を上げる。
「私たちは!」
「独りじゃない!」
二人の前に、翼を広げた三つの影が現れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます