5-08 幸せな夢*
ゆずがまぶたを持ち上げると、そこはいつものふくろうカフェだった。
夜を思わせる深い青色の壁に、星のようにほのかな光を発する照明。店内はコーヒーの香りに包まれ、賑やかな声が飛び交っている。
「らいむ~、オレのケーキまだ~? まだまだ~?」
「うるさいすだち。我慢って言葉を知らないでしょ」
前方のカウンター席に座るすだちが、身体を左右に動かしながらツインテールを揺らしている。右側のキッズスペースにはみかんがいて、玩具の銃を一発撃った。側頭部にコルク栓が当たり、すだちは頭を押さえて泣き声をあげる。
「すだち、少し待っていてください。これが終わったら、準備しますから」
カウンターの奥でらいむが微笑みを浮かべ、盆を片手にはっさくのもとへ行く。
左側に並ぶソファ席の端で、はっさくが足を組んで座っている。そのテーブルにコーヒーとガトーショコラが置かれる。はっさくは眉をひそめて皿を押し返すが、らいむがすかさずフォークでケーキを切り分け、「あーん」とはっさくの口の中へ押し込んだ。
「……甘い」
はっさくの呟きを満足げに見て、らいむはカウンター奥へと戻っていく。
「すだち、今日は特製のケーキが出てくるから、もう少し待っていよう?」
すだちの隣には、白い翼を持つ青年が座っていて、コルク栓の当たった頭を優しく撫でていた。耳もとへ寄ってささやき、人差し指を唇に添える。
泣き顔だったすだちは、あっという間に表情を変え、目をキラキラと輝かせた。
「特製ケーキ!? なになに~? れもん、教えてよ~?」
れもんと呼ばれた青年が、赤い瞳の片方を閉じてウインクしてみせ、席から立ち上がる。
「らいむ、僕も手伝うよ」
「れもん、いっしょに作りますか?」
れもんはカウンターの奥に入ると、らいむの隣に並ぶ。
「わぁ~、れもんが作ってくれるケーキ、楽しみだな~」
「まぁ、すだちが作るんじゃないから安心して待てるよね」
「みかん、ひどい~! オレだって作れるもん~!」
頬を膨らませるすだちに、れもんが笑い声をあげ、隣のらいむも微笑む。みかんは呆れたように肩をすくめ、はっさくは黙ってコーヒーをすすっている。
平和な時間とは、まさにこのことを言うのだろう。
「あっ、お客さん来てたの~? いらっしゃい~!」
扉の前で立ち尽くしていたゆずに、すだちが気づいて立ち上がった。跳ねるようにツインテールを揺らしながら近づいてきて、その手を取る。
「今ね~、らいむとれもんが美味しいケーキを作ってるの~。お客さんも、いっしょに食べよ~?」
満面の笑みを浮かべ、すだちはゆずの手を引いた。
「すだち、馴れ馴れしいでしょ。最近はそういうの、セクハラになるんじゃない?」
「え~!? 手を繋いだだけだよ~?」
「あっ、じゃあさっき僕がすだちの頭を撫でたのもセクハラかな?」
「れもんだったら、私はどこを触られても嬉しいですよ?」
「……らい、客の前で余計なことを言うな」
また、店の中が笑いに包まれる。
「お客様、ケーキができるまで、こちらでお待ちください」
笑い声がひと段落して、らいむが微笑みながらカウンター席を手のひらで指して案内をした。もう片方の手にはカップののったソーサーを持ち、カウンターにコトリッと置く。湯気のたつ茶色の水面は、紅茶だろうか。
温かい飲み物。甘いケーキ。楽しい会話。賑やかな仲間。穏やかな時間。
ここに居られたら、どんなに幸せだろうか。
紅茶に溶ける角砂糖のように、温かな世界に染まってしまいたい。
過去も、未来も、時間を忘れて。
永遠に――。
「違う」
踏み出しそうになる足を留めて、ゆずは口を開いた。
手を握ったままのすだちは、首を傾げて、顔をのぞきこんでくる。
「どうしたの、お客さん~? いっしょに美味しいもの、いっぱい食べようよ~?」
甘えた声を出して、繋いだ手を振りながら誘ってくる。
ゆずは奥歯を噛み締め、首を何度も横に振る。
「違う違う違う!」
皆は不思議そうにまばたきをするが、客を歓迎しようと待っている。
ゆずは足を前へ出す代わりに、腰にしまっていたナイフを抜いた。
「ごめん」
自分の片手を握っているすだちの腕へ向かって、ナイフを振り払う。
少年の細腕は、いともたやすく両断され、斬り口から血が噴き出す。
続けざまに、すだちの頭上からナイフが振り下ろされた。
目を丸くした顔が真っ二つに裂ける。まるで紙を切るように、手応えは感じられない。ふたつに分かれた身体が、血をまき散らしながら崩れ落ちる。
穏やかだった空間が、地獄と化した。
「すだち!? お前、なにやってんのさっ!」
みかんが玩具の銃を投げ捨てて、こちらへ詰め寄ってくる。
その細い首を、ナイフひと振りで落とす。
飛び散った血とともに、首を失った身体が倒れ、頭部が床に転がる。
「らい、れもん、さがっていろ!」
はっさくが立ち上がり、カップと皿が床に落ちて割れる音が響く。
行く手に立ち塞がり、身を
胸がぱっくりと割れた身体が、血に濡れながら床に落ちた。
「はつ……っ!?」
甲高い声を上げ、らいむが血相を変えて飛び出してくる。倒れたはっさくを抱きかかえ、その身体を何度も揺らす。
頭上にあげられたナイフが、脳天へ振り下ろされる、直前。
「危ないっ!」
らいむの前に、白い翼が割り込んだ。ナイフの刺さったれもんの背中が、あっという間に血の色に染まる。
「らい……む……」
ナイフを抜くと、れもんは床に倒れ、動かなくなった。
「やめてください……。もう……、やめて、ください……」
目の前に残るらいむは、身体を震わせ、顔を歪めながら命乞いをする。
一歩、一歩と、歩を進めるごとに、立てない身体が後ずさっていく。
「お願いです……。壊さないで、ください……。私の……壊さないで……」
背中が壁に当たる。
行き場を失い、それでも足掻き、絶望に染まった顔が、前を見つめる。
血に染まったナイフが握り締められ、大きく振り上げられた。
「ごめん、らいむさん」
ナイフを突き刺した脳天から、大量の血が噴き出した。
ゆずはナイフを抜き取ると、ふらふらと後退して、その場に両膝をついた。
よく知る仲間の、息絶えた姿が四つ。天井と壁は血しぶきに染まり、床には血だまりが広がっている。
鏡で自分を見たら、返り血で真っ赤に濡れているだろう。
ナイフを持つ手が震え、しまうことができない。呼吸するのさえ、気持ち悪い。吐き気に襲われ、口に手を当てる暇もなく、その場で嘔吐する。
「あーあ。壊しちゃった」
子どもっぽい口調の声が聞こえた。
ゆずが顔を上げると、背中を刺したはずのれもんが、倒れたままこちらに顔を向けていた。背には何の傷もなく、血の色もついていない。口角を上げたままゆっくりと立ち上がり、カフェの制服についた埃を払う。
「せっかく幸せな夢を見せてあげていたのに、全部壊しちゃうんだから。君って、仲間なのに、血も涙もないの?」
ゆずは力を振り絞り、立ち上がった。
れもんの姿をした夢鼠の背後には、鼠の尻尾が揺れている。
震える手を堪えるように、両手でナイフを強く握り締める。
「これは夢じゃなくて、ただの嘘だ。偽物の夢なんて、なんの意味もない」
「そうかな? 彼にとって、真実は辛くて耐えられないものだよ。幸せな夢の中にいたほうが、彼のためになるんじゃないかな?」
「そんなことない! ぼくは約束したんだ。らいむさんを連れて帰ってくるって!」
「ふぅん」
夢鼠は赤い瞳を細めて、小首を傾げた。白い翼を一打ちすると、店内に風が巻き起こる。
「じゃあ、見せてあげるよ。真実が、どんなものなのか」
ゆずは足を踏ん張り、風をしのぐ。
倒れていた仲間の亡骸が、砂のように舞い上がり消えていく。
カウンター席も、ソファ席も、壁も、天井も、床も、粒子となって崩れていく。
すべてを失った空間に、ゆずと夢鼠がふたりきり。
風が収まり、ゆずは細めていた目を開いて、前を見た。
「これは……」
目前に広がっていたのは、結晶でできた鍾乳洞のような空間。
床も壁も、すべてが赤い結晶でできている。天井から垂れ下がった結晶が床に届き、大小の柱を形成している。その数、十柱。中央には、まるで大樹の幹のように巨大な柱がそびえたち、中心にひとりの青年が閉じ込められていた。
「らいむさん……!」
らいむはカフェの制服姿で、翼で自分を包み込むようにして、目を閉じている。
「これ、全部が彼の、たったひとつの夢なんだ」
こんなに大きな夢の結晶を、ゆずは見たことがない。
夢鼠が笑みを浮かべながら、すぐ横にある結晶の柱に手を突っ込んだ。柱から結晶の塊をもぎ取り、口内に投げ込む。バリバリと音を立てながら噛み砕き、
「うん。やっぱりらいむの夢は美味しいよ。これからも、僕のために夢を作り続けてね、らいむ?」
夢鼠が、れもんの顔で、れもんの声で、にっこりと笑って、夢の結晶を撫でる。
ゆずの全身が総毛立つ。ナイフを握った両手に力を込め、足を踏み出す。
「やめろ! らいむさんを餌にするな!」
夢鼠にめがけて振り払ったナイフは、空間を切っただけ。
「ここには、僕とらいむだけがいれば、それでいいんだ。出来損ないの仲間なんて、いらないよね?」
閉じ込められたらいむを背にして、白い翼を広げた夢鼠が笑う。その姿が光に包まれた一瞬後、
ナイフを構えたゆずに向かって、夢鼠は大太刀の切っ先を突き立て急降下する。
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